江戸の妖怪、怪奇、怪談、奇談

江戸時代を中心とした、面白い話を、探して、紹介します。

「福島県耶麻郡誌」中の怪異伝説  その10

2023-07-08 23:14:49 |  伝説
「福島県耶麻郡誌」中の怪異伝説  その10
2023.7
46.釜井の古碑  
同村字釜井の中央字屋敷の圃中に在り。
高さ五尺幅三尺、上部に梵文(ぼんぶん:サンスクリット文)、下に正和(しょうわ)二年癸丑(1313年:みずのとうし)十月十八日と彫刻されている。
由来は、はっきりしない。

或いは、こうとも言う。
当時、雷が震動して、石が落ちた。
村の意図は、これを奇として、お寺の僧に乞うて供養をして、「あうん」の字を刻んで、もって以て霊石とした。
病人が、これに祈れば、必す霊験があると、里人は相つたえている。
そして、今でも、敬仰していると言う。


47.磐椅の榊杉  
磐瀬村(いわせむら:猪苗代町)磐椅(いわはし)神社前の南五間余りに、二株が並んで立っている。
東方は周(めぐ)り二丈二尺(6.6m)余り、西方は一丈九尺(3.3m)余り長各十丈(30m)余り、枝葉は密生している。
古老の口碑(くちづたえ)では、
和銅元年(708年)に神社を此地に遷座する時、榊木を植えたが、枯れそうになった。
それで、この杉を添えて植えたものである、と言い伝えられている。


48.トリアダ清水
豊川村(今は、喜多方市の一部)字(あざ)綾金の東北にある。
周(めぐ)り五間(9m)余り、清泉にして出水の量が多い。
夏は、水温が寒冷で、その水を手ですくうと、皮膚には、粟のようなものを生じ、あたかも鳥の皮膚のようである。
いわゆる、「とりはだ」となる。
考察するに、「とりあだ」は「とりはだ」より転訛したものであろう。
俗間、夏の土用丑の日に手足をこの清水に浸せば、雪やけ霜やけ等に罹ることはないと、言い伝えられている。
今も土用の丑の日には、未明より男女の遠近より集るものが、はなはだ多い。
又、近年に至り、産婦にして乳汁の出ないものは、この清水に餅米を浸し粥となして食すれば、乳汁の分泌を促す、として布袋に米を入れて、浸して置くものが多い。


49.淡の巻  
慶徳村(喜多方市慶徳町)字(あざ)真木の東の日橋川にある大きな淵である。
この淵に生きている燕を沈めたときは、必ず雨が降る、と言い伝えられている。


50.石室観音
上三宮村(喜多方市上三宮町)より熱塩村(喜多方市熱塩)字(あざ)金屋に至る一里余りの間に、南より北にならんで、三十三観音の石像が安置されている。

いつの年代であったか、赤崎の富豪の瓜生出雲と言う者がいた。
その子供が四国の琴平神社に参詣しようとするのを危ぶんだ。
そして、四国より石材を購入し、この観音を刻み、銭を下に敷き詰めた。
それを以って、琴平神社への参詣の代わりとした。
銭神壇は、すなわちその鏡を埋めた所であった。
世にこれを石室観音と言い伝えている。




「福島県耶麻郡誌」中の怪異伝説  その9

2023-07-07 22:10:58 |  伝説
「福島県耶麻郡誌」中の怪異伝説  その9
2023.7

41.板屋原  
月輪村(つきのわむら。今は、猪苗代町の一部)字(あざ)壷下の東方の十五町(約1.5km東)にある。
往古(おうこ:むかし)は千軒の家のある町であった。
弘法大師がここを通った時、ある家に立ち寄り、水を求めた。
しかし、女は機を織り続けて水をあたえなかった。
大師は、怒って水に呪文をかけた。
すると、水は山より流れ出たが、この町に至っては、池の中に入ってしまい、生活用水を欠くに至った。
それで、この町は、遂に滅んでしまった、と言い伝えられている。


42.マネ石通  
吾妻村(猪苗代町の北部)字(あざ)大原新田より小田に行く道であって、峠になっている部分をマネ石峠と言う。
ここは、昔、小田村の百姓猪賀之介と言う者が、山姥の「かもぢ」を取った場所である。
ここより山続きに姥ヶ沢、次に姥ヶ懐と言う場所がある。
又、東の山陰を姥ヶ谷と言う。
又、山の中腹に岩窟がある。
山姥の住んだ所と言う。
猪賀之介は、小田村を開いた後藤越中と言う者の子孫であるそうだ。


43.鎌倉山
月輪村(猪苗代町の南東部で湖岸)字(あざ)山潟の東北にある。山の東北及び西南の半腹に古い坑道がある。
昔のの金坑であると言う。
宝暦年中(1751~1764)、会津藩が、東南面の半腹の数ヶ所を掘削したが、鉱脈がみつからず、中止したそうだ


44.金山  
月輪村(猪苗代町の南東部で湖岸)字都沢の北方にある。
この山より発する渓水は、その気がつよくて味は甘い。
古(いにしえ)より金山と称している。
その由来は、はっきりしないが、必ず金鉱があるだろうと、文政の初め、山の北方を掘削した。
しかし、鉱脈を得られう、中止になったと言う。


45.長者屋敷址  
翁島村(猪苗代町)字(あざ)烏帽子(えぼし)小屋の浜田と言う所にある。

昔、寛治年中、常元長者と言う富豪の者がいた。
猪苗代郷中の米穀を売買し、当村字前浜を埠頭として、その西方の手蔵浜に土蔵を建て、あちこちに船で運んだ。
当時、大石を以って敷石とし、三町(327m)程建築した波止場の形は、今なお残っている。
屋敷跡より、しばしば古く珍しい陶器を掘り出すことがある、との口伝えがある。

「福島県耶麻郡誌」中の怪異伝説  その8

2023-07-06 23:00:00 |  伝説
「福島県耶麻郡誌」中の怪異伝説  その8
2023.7

36.行無沼(ゆきなきぬま) 
岩月村(喜多方市岩月)入田付の東北に在り。
周(めぐり)は九百間(約1,620m)程で、四方を崖で囲まれていて、水面は、鏡のようで、景色の佳い地である。
北岸に貴船の社を勤請した。

鮒を産す。
それを、取れば、鎮守様の祟りがあるとして、魚をとらない。
又、舟を浮べることを禁じている。
ここに至る道の左右に雌沼・雄沼と言う二つの沼跡がある。
村老の説に
昔は水を多くたたえていて、風が吹けば、雌雄の沼の双方より大きな波が起こって、行きかう人が、時々溺死するものがいた。
このような危うい所であるので、一度ここに来て、生きて帰るものが無いとの意をもって「行無(ゆくなき)」と名付けたそうである。
この沼は、慶安元年(けいあんがんねん:1648年)に堤を築き、近村の貯水池とした。
不動滝に注ぎ出るのは、この水である。



37.鶏塚  
岩月村(喜多方市岩月)字(あざ)上岩崎に在る。
高さは、三尺ばかりである。
このような事が伝えられている。
昔、端村長窪の農民で利兵衛と言う者の先祖である池亀外記と言う者がいた。
どうした事であるか、この地に鶏千羽を埋めて塚とし、上に一株の松を栽えたと言う。
咳嗽を、わずらう者が祈願すれは霊験があるという。



38.阿弥陀堂跡  
松山村(喜多方市松山町)字(あざ)中村の東の十三町(約1500m)にある。
今は原野となってしまった。
昔、来迎寺と言う寺があった。
いつの頃にか廃し、ただ堂のみ残っていて、慈覚作の三尊弥陀の大佛を安置してあった。

村老の言い伝えには、こうある。
応仁の頃、山名左衛門と言う者がある時、日中川に出て川狩をした。
大変多くの鮭魚を穫った。
そして、来迎寺坊中の僧たちに命令した。
桔梗と蕨の葉につつませ、藤蔓で束ねさせて、それを背負わさせた。
(坊さんたちには、生き物を殺してはいけない、という殺生戒がある。)
僧たちは、困惑して、三尊弥陀の大佛に祈った。
すると、その威徳によって、かの三種の草は、枯れてしまい、今に至っても、この辺に生じない。
又、この時、日中川もにわかに押し切れて、西に流れ今のような水路となったと言う。
その後、天正年間(1573~1792年)に、兵乱で、焼けた時も、神女が天降って、炎火の中より、この三尊を取りあげ、その難を逃れたとのことである。
延宝年間(1673~1681年)に、会津藩より命令が下って、上三宮村(喜多方市上三宮町)の願成寺に移した。

注:ここに言う慈覚は、慈覚大師の円仁のことであろうか?



39.六郎原  
磐梯村(今の磐梯町)に在る。
昔、この原にて、亀井六郎と言う者が、白毛の鶉を初めて穫った。
それで、六郎原と名づけたと言う。

又、この原に帷子石(かたびらいし)と言う石がある。
源義経が帷子を召し替えた故に、名づけられたと言い伝わっている。

(訳者注:ここら辺に、源義経が、平泉目指して逃げた時に、通ったようである。磐梯町に接している会津若松の古い和菓子店には、弁慶の借用書というのが残っている。)



40.麓山(はやま)大権現社
月輪村(つきのわむら。今は、猪苗代町の一部にある。
この社は、大同二年まで湖水中に建っていた。
しかし、同年に湖面が上昇して一夜の内に、湖中に没した。
ある日、権現社が、岩舘山の項上に上った。
永保元年まで、この山に立っていた。
今の麓山と言う所は、昔、月山と羽黒と言う二つの社(やしろ)があったが、そこに権現社を、永保元年(1081年)に移し奉まつった。
三つの社(やしろ)があるようになったので、三ッの御山と名づけたと言う。

新説百物語巻之五 4、定より出てふたたび世に交はりし事

2023-07-02 17:47:06 | 新説百物語
新説百物語巻之五 4、定より出てふたたび世に交はりし事
                  2023.7
大坂での事である。
ある人が、大屋敷をもとめて、増築などして、その家へ移ってきた。

すると、その家のはるかの地の下から、こんこんと鉦のたたく音が聞こえてきた。
ふしぎには、思いながらその年も過ぎたが、春になってもその鉦の音は止まなかった。

あまりに不思議なので、地の下をおよそ一丈ばかり掘らせると、石の棺があった。
それを掘り出し、ふたを明ければ、やせ衰えた人が入っていた。
頭には髪の毛ばかり、体は、骨と皮とばかりなるものが、鉦をたたいていた。
事情を聞いたが、物をも言わなかった。
それから湯などを与え、そろそろと白粥などを与えた。
その名を聞いたが、覚えていなかった。
時代を聞いたが、これも覚えていなかった。
ただ頭の髪がのびていったばかりであった。
一月たち二月たち、段々に肉もついてきて、その後には、普通の男のようになった。

どう扱うことも出来ないので、台所の片隅において、火などを扱わせた。
四五年も過ぎると、普通に歩いたり、座ったり寝たりが出来るようになった。
しかし、その家の下女と密通して、大坂から駆け落ちした、との事である。

新説百物語巻之五 3、神木を切りてふしぎの事

2023-07-02 17:45:21 | 新説百物語
新説百物語巻之五 3、神木を切りてふしぎの事
                 2023.7
丹州(丹波:京都府北部)の事であったが、一村の郷士で、気も丈夫なる者がいた。
その村の社(やしろ)には、決まった神主はいなくて、その村より、老婆一人に???をわたして世話をさせていた。

この郷士は、我が屋敷を新築しようと、
「この宮の前の大木を切って、新築の材木としよう。」と申しこんだ。
それを、彼の老女が、
「この大木はいつの頃よりといふことを知らぬ古い木ですよ。切ったら、祟りがあるかもしれませんよ。」と止めさせようと言った。
しかし、郷士は、気にもせず、あっさりと切り倒した。
そして、大工事は、ほどなく完成した。
「崇るのも、人によるものだ。」と、不信心な事などを言った。

一二ヶ月も過ぎると、彼の郷士は、少しずつわづらい出し、時々はとんでもない事などを口ばしったが、終に程なく、死亡した。
淋浴して棺に入れ、僧を頼み、寝ずの番の人を置いあた。
しかし、夜中に幾度ともなく棺よりはい出て来て、つけ木に火を付け、そこらを見あるき、又は帚を持って座敷などを掃除する事が、夜の内に六七度であった。
「とにかく、早く葬儀をして、埋葬しよう。」と、一門の者たちは言って、その明くる日に葬礼をした。

その屋敷の門を出るやいなや、稲光が何度もした。
大きな雷(かみなり)であったので、一向に目も明けられなかった。
やっとのことで、埋葬して帰って来た、とその村の人が、語った。