江戸の妖怪、怪奇、怪談、奇談

江戸時代を中心とした、面白い話を、探して、紹介します。

動物界霊異誌 河童その3  清正を懼れた熊本の河童

2023-07-25 21:37:48 | カッパ
清正を懼れた熊本の河童(仮題) 動物界霊異誌 河童その3
                  2023.7

熊本の八代のあたりに、川童(かっぱ)が多い。
しかし、所の人に害をなさない、と言う。

加藤清正が藩主であった時、児小姓の一人が川童のために水中に引き入れられた。
清正は、大いに怒り、
「国中の川童(かっぱ)を残らず、殺すべし。」
と、先づ他所(よそ)へ逃げられない様に許多(あまた)の貴僧高僧を集めて、是を封ぜしめた(結界を張った)。
「川上より毒薬を流し、数千の焼石を淵へ投入れ、又猿を多く集めるべし。」
との命令を下した。

川童(かっぱ)に湯をあびせれば、大いに力を落すものである。猿は川童を見ると力を増し、川童は猿を見ると立すくみになるものである。

強姿勢の清正が、しきりに命令したので、国中の河童どもは、大いに恐れた。
熊本の河童九千匹の頭を九千坊と言った。
九千坊は、大いに悲しんで、僧に助命をたのんだので、ようやく赦された。

よって、所の人に害をなさなくなった。
それ以来、旅の人のみには害がある、と言う。

(本朝俗諺誌)動物界霊異誌 より

動物界霊異誌 河童その2  越後の河童

2023-07-24 22:00:00 | カッパ
越後の河童 (仮題) 動物界霊異誌 河童その2
                 2023.7
文政年間の事である。越後國の上杉六郎と言う人の話である。

同国(えちご:新潟県)蒲原郡の保内と言う所の河で夏の日、村の者が数人、水泳をやっていた。
その時、一人の男が河童に足をつかまえられて、深みへ引き込まれそうになった。
その男は、大声で助けを呼び、「河童に引かれるワ」と叫んだ。
河童と聞いたので、他の者は恐れて、みな岸へ逃げ上って、一人も助けようとするものが無かった。                       
彼は足を引かれるので、死力を尽くして泳ぎ上ろうとしたが、次第に引き込まれて行った。
そして、不思議なことには、河の水が粘って、手足が動かぬようになり、危なくなったので、一心に氏神の八幡宮を念じた。

すると、どこからともなく空中から
『その水に齧(かじ)りつくだ』と言う声が二度ほど聞えたので、その言う通りにしたら、水の粘るのが止んだ。
身も軽くなり、渚に泳ぎ着くことが出来た、と言う。

しかし、
「水を粘ばらせると言うことも奇怪」、
「その水に噛ぢりつくと粘ばりが止むのも、また奇怪だ」
云々(うんぬん)と語ったそうだ。

これは、如何(いか)にもわからぬ奇怪事であった。
(早田篤胤手記)動物界霊異誌 より

動物界霊異誌 河童その1  九段の弁慶堀の河童

2023-07-23 22:00:00 | カッパ
動物界霊異誌 河童 その1   1、九段の弁慶堀の河童

1、九段の弁慶堀の河童 (仮題) 動物界霊異誌 河童
文政初年のことである。
江戸の神田小川町の旗本、室賀山城守の中間(ちゅうげん)の某(なにがし)が、ある夜、九段の弁慶堀の端を通った時に、雨が降って暗かった。
何ものかが、堀の水面から、某(なにがし)の名を呼びかけた。
見ると、闇夜であるにも拘らず、一人の子供が上半身を浮かしていて、手招きをするのが見えた。
某はそれを見て、近所の子供が誤って堀に落ちてしまったのだろうと思った。
そして、水際に下り、手を差し出してやったら、子供が、その手に取りついた。
それで、引上げようとしたが、その重いこと、大岩のようで、少しも動かなかった。
それのみならず、かえって水中に引き込まれそうになった。
彼は大いに驚き、妖怪であることを気づき、死力を尽くして引き合い、漸(ようや)くのことに、その手を引きぬいた。
息絶えだえになつて、山城守邸に帰り着き、茫然自失の様子であった。
それで、人々が騒いで集って見ると、某(なにがし)の全身は水に濡れており、しかも非常に生ぐさい臭いがした。
それで、体を洗わせたが、生ぐさい匂いは容易に消えなかった。
そして彼はその夜は、疲労困憊し、精紳も朦朧としていた。

翌日に漸く正気づき、くわしく前夜の怪異を語ることが出来たと言う。

この水怪は河童であることは、間違いのないことである。云々(うんぬん)。
(甲子夜話)動物界霊異誌  より

花魁(おいらん)の説得で、真人間になる  雲錦随筆

2023-07-10 23:00:00 | 江戸の人物像、世相

花魁(おいらん)の説得で、真人間になる
 2023.7

さて、江戸時代の「雲錦随筆」(暁鐘成:あかつきかねなり:1793~1882)には、おいらんの教えで、放埒な生活をやめ、帰郷して、堅実な人生をおくれるようになった男の話があります。
「事実は、小説よりも奇なり」と言いますが、このような話が、記載されています。
表題は、特にないので、仮にこの表題としま した。

以下、本文。

ある江州(滋賀県)瀬田の住人の話である。

その人は、若気の至りで身を放埓(ほうらつ)に持ち崩し、両親を残して家を出、関東に下り、江戸に落着した。

あちこちに奉公して、終いには吉原の廓に入り込み、ある娼家の下男と成って勤めた。

この家の抱えの花魁(おいらん)に、心が正しくまっすぐな何某(なにがし)とかいう女性がいた。
彼女は、その下男に対して、故郷などをたづねつつ、かつ
「両親は、存命であるか?」と質問した。
すると、
「いかにも両親ともに存命ですが、故郷に捨ておいて、当地へ来て、これこれこのようになりました。」と語った。

すると、花魁(おいらん)は、
「私たちは、それに引きかえて、親の為に身を売られ、つらい勤めをしていますが、年期のあけるのを、待ち暮らしています。故郷へ帰ったのならば、父母に仕えて親孝行を尽くすのが念願です。
それなのに、あなたは両親を遠い国に捨てておき、
このように遠い江戸に、しかも取りわけて賤しい廓に奉公して、親は、さぞかし心配し続けて、忘れる隙(すき)は無いでしょう。
何卒(なにとぞ)、心を改めて、すぐに帰って親達の心を安め、家業に専念して、親孝行をつくされたならば、あなた自身の為にもなり、・・・」
と色々と説得した。

すると、その下男も気がつき、
「まことに、ありがたい御異見(ご意見)のほど、骨見にしみました。
嗚呼(ああ)、私は間違っていました。今迄は放逸に身を持ちくずし、親の心を苦めた事は、大いに後悔いたします。」
と、花魁(おいらん)の諌(いさ)めを喜んだ。

この時より直(ただち)に、雇い主に暇(いとま)を乞うた。帰郷のお金を用意し、急いで江州(ごうしゅう:滋賀県)に帰り、両親の気を易(やす)めた。親孝行をし、家業に励み、年を重ねて家も栄え、妻子をもうけて、何不自由なく暮した。その内に、両親を見送り、家産を相続した。これは、全く吉原にて、花魁(おいらん)の教訓におがげである故なので、どうにかして、この此恩に報いたいとかんがえた。
先年、吉原にいた時に、かの花魁(おいらん)が一首の歌を詠出したのを扇に書いて貰ったのを所持していたのをおもいだした。
これ幸いと、額につくり、石山寺の観世音に奉納して、花魁(おいらん)の健康と、長生きを祈れば、せめての恩返しになるであろうと、考えた。
やがて程なく額にこしらえ、観音様の宝前に納めた。

さて、
かの吉原の花魁は、年来の誠実の行ないに、天は答えてくれたのであろう、富豪の客に身請けされた。

そして、このたびは、侍女、婢(はしため)、下僕を召しつれ、畿内見物に上ってきた。
石山寺に参詣した時に、思ひもよらず、自分が昔詠んで書いた物を、見つけた。それは、扇の地紙にして張りつけ、絵馬に作って奉納したものであった。
これは不思議、誰が、こうしたのだろうか、と驚いた。その絵馬をよくよく眺(なが)めると、願主(がんしゅ)江州勢田何某(ごうしゅう せた:滋賀県大津市勢多)とあった。

これより瀬田に着いたのなら尋ねてみようと、その住所をくわしく書きとめた。
やがて勢田に到って、かくかくしかじかと尋ねた。
すぐにわかって、その家に案内された。

主人に対面すると、あにはからんや、昔、傾城(けいせい:遊女・花魁)であった時、吉原の花街に於いて、下僕であった者であった。
互いに無事を悦(よろこ)んだ。
男は、「見苦しい住まいですが、今夜は一宿してください。御礼も申し上げたくおもいます。」
と様々に饗応した。

男の女房もともに出てきて、
「そこ元さまの御事(おんこと)を、いつも話していて、感謝しておりました。
しかし、遠い江戸の事ですので、尋ねてお礼を言うことも出来ずに、月日が過ぎて来ました。
思いもかけず、御目にかかる事は、嬉しくありがたいことでございます。
これも、偏(ひとえ)に石山寺の観音さまのお導きでございましょう。」
夫婦はもろともに歓こんで、恩義を謝したそうである。

まことに、いましめの言葉を聞いて、正しい生活に戻った者も、
異見(意見)を加えた傾城(けいせい:遊女)も、
正しい五常の道にあった故に、天道は善に祝福し、
双方とも富貴(ふうき)の身となったことは、有がたい事である。


「雲錦随筆」日本随筆大成一期の2 より


「福島県耶麻郡誌」中の怪異伝説  その11

2023-07-09 22:19:36 |  伝説
「福島県耶麻郡誌」中の怪異伝説  その11      この項終わり
                           2023.7

51.シラキ清水  
岩月村(喜多方市岩月町)字(あざ)上田の束北方二町半にある。
婦人の母乳の出ないときには、ここに祈願し、この水を飲めば母乳がでると、言い伝えられている。


52.小市雨坪  
岩月村(喜多方市岩月)字(あざ)上田の西南四町(436m)の田の中に大石が立っている。
長さ四尺、横一尺、高さ八寸、地上に出ている。
昔、小市と言う農夫が、ここに耕作しているまま死んで、ただちに石に化したそうであう。
そして、この辺の田地の字を小市作と言う。
この地の田植えの節、毎年、必ず雨が降るので、小市雨坪と称している。

昔、この田の地主が、あの大石が田の中にあって邪魔になるとおもった。
それで、その大石を取り除こうと、石の周囲を掘ってみたが、どんなに深く掘っても、石の根には、たどり着けなかった。
それで、掘り取るのを中止した。
その後は、その石に対しては、なにもしなかった、と言い伝えられている。


53.石像  
駒形村(今は、喜多方市塩川町の一部)字下窪の南三町(327m)の境見川の辺(あたり)に姥堂という地がある。
俗に大日とも姥神とも言う。
長さ三尺許(ばか)り。
夜中に誠を以って祈る時は疱瘡(ほうそう:天然痘の事)及び諸病が平癒する。
若(も)し、偽りを以って詣(もう)でる時は、手足を動かすことが出来ずに、その場に倒れる、と言い伝わっている。


54.姥清水(うばしみず)
豊川村(今は、喜多方市の一部)字長尾の南五町(545m)に在り。
周回は五間余りある。
口碑(くちづたえ)に、昔、修験者(大沢の外島の祖)がいた。
あちこちの国を巡った後に、長尾に居を定めた。
その一人っ子が、飯豊山(いいでさん:喜多方市の北部)に参詣の登山をした。
その母親である姥は、こう思った。
自分は、女であるが、我が子が参詣に行くのに、どうして自分も参詣しては、いけないはずがあろうかと。
この清水で、二三日間垢離修業をして、息子の行った跡を慕って行った。
飯豊山の頂にある今の姥権現の附近で、石に腰を下し、休んだ。
しかし、下半身が、石に粘着し次第に土が全身に及んできて、終に全身が石と化したと。

姥権現とはその姥を祀ったものであろうか。
古来、長尾の者が登山する時は、どんなに晴天の日であっても、多少の雨が降らないことがない。
それは、姥の涙雨であると言い伝わっている。



これで、「福島県耶麻郡誌」中の怪異伝説  の項は、終わりです。