江戸の妖怪、怪奇、怪談、奇談

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新説百物語巻之五 2、女をたすけ神の利生ありし事

2023-07-02 17:43:21 | 新説百物語
新説百物語巻之五 2、女をたすけ神の利生ありし事
                2023.7
京の上長者町に、ひしや治郎兵衛という者がいた。
若い時より伊達男であって、ずっと仏の教えには関心がなく、夫婦で暮していた。

しかし、ある時、夢に衣冠正しくしている人が来たのを見た。
「我は、大宮七条あたりのものなり。」と言って飛び去って行った。
ふしぎの事に思って七条に行くと、古がね店に夢に見たような天神の像があった。
さしもの伊達男も信心をきもに命じ、買い求めて持ち帰り信心した。

ある年、大熱病を患って、命も亡くなろうとしたので、女房は水ごりをして、彼の天神に夫の命を助けてくれるよう祈願した。
天神は、夢で女房にこのように告げた。
「汝が願うのは、もっともである。何であれ大切のものを捨てよ。病気を快気させよう。」と、はっきりとした霊夢をみたので、疑いようがなかった。

夫婦の二人暮らしの事であるので、さして大切の物もなかった。
何を捨てようかと相談して、長年秘蔵して育てていた豊後梅の鉢植を引きぬき、小野の天神の神前に捨て置いた。
女房が家に帰ると大熱が全く下がって、程なく本復した。

その後、この治郎兵衛は、油小路あたりを通った。
初夜(午後8時ころ)過ぎの事であった。
女が一人で、泣き泣き物を探している様子であった。
「何を探しているのかい?」と尋ねると、
「私は、さる武家に奉公している者でございます。
今日の夕方、御出入りの小間物屋へ使いに参りましたが、金子(きんす)十両ばかりのタイマイ(鼈甲)?の櫛を買って、三枚持ち帰りましたが、一枚を取り落としてしまいました。
探しましたが、見あたりません。
ご主人様からは、
もしもその櫛が見つからなければ、手打ちにする、と言われました。それで、あてもなくこのように探しております。」
と答えた。

治郎兵衛は聞いて、
「それは、ばかげた事だ。」と言って、その近所で提灯を借りて、二人で探したが、見つけ出せなかった。女は、泣く泣く言った。
「これで、帰っても、ひどい目にあうことですので、これより河も身を投げましょう。
思いももよらぬ御世話にあづかり、ありがとうございました。」
と語った。

それを聞いた治郎兵衛は、不便(ふびん)に思い、
「それは、悪い考えだ。これから、故郷に帰り、親とも相談して、主人へ詫びごとをするのがよい。」
とすすめた。
しかし、
「いいえ、故郷に女の身では、ひとりでは帰れません。まして親に苦労をかけるも申し訳ないことでございます。」
と、いかにも身をも投げる様子であった。
「それならば、まづまず我が家に来なさい。
一宿してから考えなさい。」と言って、無理に家にともない帰った。

女房とともに話して、在所の勢州(伊勢)の雲津へ送ることにした。
人を雇い路銭も与えた。

この女は、草津に知る人がいたので、それまで送りとどけて、雇い人は京へ帰ってきた。

その後、段々親よりも御主人へ御わび申しあげた。

しかし、失せ物は、その女が落としたのではなく、悪いものがいて、取り隠したことが、明らかになった。女に落ち度は無い、との身の証は立って、
「又々奉公に来てくれ。」と、主人よりの言葉があった。

しかし、奉公にこりて、そのまま在所に暮らしていた。

それから三年すぎて、このひしや治郎兵衛は、伊勢太々講の一員として、伊勢参りに行った。

ある日、治郎兵衛が、雲津(三重県津市)から一里ばかり離れた所で、笠をかぶりながら進んで行った。
その時に、在所のわきから女が、一人の小さい女を供につれて来たのに出あった。
すると、治郎兵衛の顔をつくづくと見て、そばへより、
「もしもあなた様は、京の治郎兵衛さまではございませんか?」と問うた。
治郎兵衛も立ち止まって、
「そのとおり、私は京都の者で、名は治郎兵衛と申します。
あなた様は、何となく見たことのある人の様ですね。」と答えた。
女が言うには、
「私は、先年、櫛をおとし御世話になったものでございます。
その後、私の潔白な証も立って、あなた様を命の親と存じ、両親とともに御礼を申しあげるべきでございました。
けれども、あまりに心が急いて、住所も、家の名も知らなくて、ただただ治郎兵衛様とばかり覚えておりました。
どこへも尋ねるすべもなく、恩返しも出来ませんでした。
毎日毎日、家ではこのことを話しておりました。
私の家は、ここより一町ばかり奥でございますので、ぜひ御立ち寄り下さい。」と言った。
「いやいや、それは奇遇ですね。
しかし連れもいますので、この次お伊勢様に参宮する節に立ち寄りましょう。」
と治郎兵衛は言ったが、女は、なかなか承知しなかった。

治郎兵衛をむりに家に連れ帰えった。
そして、両親をはじめ兄妹、その他近所の人々が打ちより、涙をこぼして礼を言った。
そして、無理にとどめて、夕飯などを出し、盃を取り交わした。
日暮になって、やっと駕籠を呼んで、雲津の宿まで送らせらた。

そこから十町ばかり行けば、雲津川であった。
夕立でも降ったのであろうか、河は大水であった。
川端には、松明や提灯がおびただしく、伊勢参りの人の船が転覆して、八人も死んだ、と騒いでいた。
その内に、水中より旅人一人の死がいが引き上げられた。
見ると、治郎兵衛の連の同行者であった。
大いに驚いて、それから、夜が明けてみれば、八人の死骸が残らず引き上げられた。
水も少々おだやかになって、先に対岸に渡った者もこちら側に戻ってきた。

くわしく聞けば、同行の三十人の内の二十一人は、先の船で向こう岸に渡り、残った九人のうちの八人が同じ船に乗って、このように水におぼれて死んだことが、わかった。

雲津の在に、治郎兵衛が無理矢理つれて行かれなければ、一緒に水におぼれ死んだであろう。

陰徳をなしたので、治郎兵衛一人が助かったのだ、と皆は話した。


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