ちょっと前になりますが、京都の大聖寺門跡の一般公開に行ってきました。こちらのお寺の冬の公開は
27年ぶりということで大変貴重な公開です。神仏霊場ですが普段は庫裡の扉のところでご朱印を受け取る
だけで内部には入れないです。
【大聖寺寺史】
室町幕府三代将軍義満が造営した花の御所跡に建つ臨済宗の尼門跡寺院。光厳院の妃である無相定円禅尼が
亡くなった後、その住まいであった花の御所内の「岡松殿」を寺に改めたのが起こりとされる。室町時代から
江戸時代末期の光格天皇の皇女まで歴代24世の内親王が住持を務めた。正親町院皇女の入寺の際には
「尼門跡第一位」の綸旨を受けており「御寺御所」と呼ばれてきた由緒ある寺院である。(説明書きより)
場所は烏丸今出川の同志社大学のまん前にある。大玄関より入って廊下をわたり本堂に入る。大玄関の
横方面に位置するのが本堂である(下写真)
この本堂は昭和18年に東京の青山御所(貞明皇后の御殿)から移築された建物で3部屋に区切られていて、
真ん中が仏間で向かって右側が貴人の間と呼ばれる座敷である。仏間の内陣には須弥壇があり、
本尊である釈迦如来坐像(蓮華座しか見えなかった)を中心に歴代天皇と歴代門跡のご位牌などを
安置してあった。
本堂に面して江戸中期に作庭された枯山水の庭園(京都市指定名勝)があるが、これは明正女帝の御殿から
材を移して作庭されたものだということだ。ちなみに今回の公開では建築内部とこの庭も写真撮影は
おことわりだったので撮影できなかったが、同志社大学や横に建つビルからは上から丸見え状態のようだ。
本堂から見て北西の位置に江戸後期に建てられた「宮御殿」と呼ばれている書院がある。こじんまり
とした御殿だが江戸後期に描かれた金襴豪華な襖絵がきれいに残っていて格調高い雰囲気だった。
この宮御殿の背面して庫裡があるのだが、壁ひとつ隔てたその庫裡からお寺の人の話し声が聞こえていて、
「御前(ごぜん)さまが・・・」と言っていた。尼門跡らしい住職の呼び方であるが、この大聖寺は
御所言葉が濃く残っていたお寺として御所言葉研究の対象となったお寺である。現在はその門に
「華道岳松御流 煎茶道永皎流」の木札がかかっている。
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【大聖寺寺史】
室町幕府三代将軍義満が造営した花の御所跡に建つ臨済宗の尼門跡寺院。光厳院の妃である無相定円禅尼が
亡くなった後、その住まいであった花の御所内の「岡松殿」を寺に改めたのが起こりとされる。室町時代から
江戸時代末期の光格天皇の皇女まで歴代24世の内親王が住持を務めた。正親町院皇女の入寺の際には
「尼門跡第一位」の綸旨を受けており「御寺御所」と呼ばれてきた由緒ある寺院である。(説明書きより)
場所は烏丸今出川の同志社大学のまん前にある。大玄関より入って廊下をわたり本堂に入る。大玄関の
横方面に位置するのが本堂である(下写真)
この本堂は昭和18年に東京の青山御所(貞明皇后の御殿)から移築された建物で3部屋に区切られていて、
真ん中が仏間で向かって右側が貴人の間と呼ばれる座敷である。仏間の内陣には須弥壇があり、
本尊である釈迦如来坐像(蓮華座しか見えなかった)を中心に歴代天皇と歴代門跡のご位牌などを
安置してあった。
本堂に面して江戸中期に作庭された枯山水の庭園(京都市指定名勝)があるが、これは明正女帝の御殿から
材を移して作庭されたものだということだ。ちなみに今回の公開では建築内部とこの庭も写真撮影は
おことわりだったので撮影できなかったが、同志社大学や横に建つビルからは上から丸見え状態のようだ。
本堂から見て北西の位置に江戸後期に建てられた「宮御殿」と呼ばれている書院がある。こじんまり
とした御殿だが江戸後期に描かれた金襴豪華な襖絵がきれいに残っていて格調高い雰囲気だった。
この宮御殿の背面して庫裡があるのだが、壁ひとつ隔てたその庫裡からお寺の人の話し声が聞こえていて、
「御前(ごぜん)さまが・・・」と言っていた。尼門跡らしい住職の呼び方であるが、この大聖寺は
御所言葉が濃く残っていたお寺として御所言葉研究の対象となったお寺である。現在はその門に
「華道岳松御流 煎茶道永皎流」の木札がかかっている。
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