旅行、飲食、草花、イベント、乗り物、出来事など。

日々の生活の中から様々な物を写真付きで。

★伊香保温泉★温泉饅頭

2012年08月31日 | ★旅行★国内
各地の温泉で、名物として売れらているものに茶色の饅頭が有ります。其の発祥の地が伊香保温泉です。

温泉饅頭(おんせんまんじゅう)とは、温泉地で売られている饅頭のこと。

概要

生地に温泉水を使うこと、または蒸しの過程で、温泉の蒸気を使うことから付けられたとされるが、ふっくらした生地を作るのに適した重曹成分や、蒸しに適した高温の蒸気が確保できる温泉は限られており、多くは単なる土産物としての饅頭である。つまり、温泉地で作っているか、売っていれば「温泉饅頭」と呼ばれるようになった。温泉地土産や旅館で出される茶菓子や土産菓子の定番品として定着した。全国的には白や茶色の蒸し饅頭が主であるが、趣味の多様化に応える特徴的な商品も珍しくはない。

そもそも温泉饅頭の発祥地は、群馬県の伊香保温泉の湯の色から来ているというのが定説だが、それ以前に類似のものがなかったという証拠はない。

1910年(明治43年)に、伊香保電気軌道(現在廃線)の伊香保 - 渋川間開業時のことで、神奈川県の江ノ島電鉄へ視察に行った人が「上州屋」の「片瀬饅頭」を買って帰り、伊香保で創業間もない団子屋「勝月堂」の初代・半田勝三に、「湯の色をした独特の饅頭を作って、それを名物にしてみては如何なの?」と進言し、その半年後に黒糖を使い、鉄分を含んだ茶褐食の伊香保独特の湯の色に似せた「湯乃花饅頭」が誕生した。

1934年(昭和9年)の陸軍特別大演習で群馬県に行幸した昭和天皇が、そこで饅頭を大量に買ったことで評判が広がり、後に各温泉地に登場する饅頭は、この色に倣ったものとされている。また、草津温泉では饅頭が売られている店が15店ほどあるが、その中で最老舗は1914年(大正3年)創業の「満充軒さいふ屋」で、昭和初期まで草津白根山麓の香草温泉の湯を生地に入れ、皮は薄い褐色を帯びていたとされる。

温泉地の名物となる菓子商品を開発する際に薄皮饅頭が注目され、その中の成功事例が全国普及を後押しをしたことは想像に難くない。発祥の地ともいわれる伊香保温泉では源泉をイメージする色を与えるために、源泉や湯の花を配合したこともあったが、いい結果が得られなかったため、入手が容易になりつつあった黒糖を使用したといわれている。

また、他の温泉地では源泉を配合したり、高温蒸気を用いて製造するケースもある。温泉蒸気を用いて饅頭を製造した例は、江戸時代に熱海温泉の源泉の一つ「風呂の湯」で行われた記録が残る。ただし、土産物としてではなく主食としての製造である。























伊香保温泉饅頭(湯の花まんじゅう)

全国各地の温泉地で売られている茶色の温泉饅頭はここ伊香保温泉が発祥の地です。

明治43年(1910年)、本舗勝月堂の半田勝三氏が、伊香保の湯の花の色に似ている「湯の花まんじゅう」を創案・販売始めたのが最初です。

伊香保の湯の花まんじゅうは天皇家への献上品に選ばれたのがきっかけで全国に知れ渡るようになりました。

現在も、勝月堂は石段街の一番上、伊香保神社のすぐ下で、営業を続けています。

現在、伊香保には温泉饅頭を製造しているお店が11店舗あります。

写真1~7伊香保・勝月堂。
写真8~11は他店の饅頭製造過程です。

★伊香保温泉への道すがら★伊香保の竹久夢二

2012年08月30日 | ★旅行★国内
竹久 夢二(たけひさ ゆめじ、明治17年(1884年)9月16日 - 昭和9年(1934年)9月1日)は日本の画家・詩人。本名は竹久 茂次郎(たけひさ もじろう)。

明治17年(1884年)9月16日 岡山県邑久郡本庄村(現・岡山県瀬戸内市邑久町本庄)に代々酒造業を営む家に次男として生まれる。兄が前年に亡くなっていたため、事実上の長男として育てられる。

明治33年(1900年)16歳 父が家業の造り酒屋をたたみ、操業間近な八幡製鉄所に職を求めたため、一家で福岡県八幡村(現・北九州市八幡東区)枝光に転居。茂次郎もしばらく製鉄所で働く。17歳 家出して単身上京………………。

人物

数多くの美人画を残しており、その抒情的な作品は「夢二式美人」と呼ばれ、大正浪漫を代表する画家で、「大正の浮世絵師」などと呼ばれたこともある。また、児童雑誌や詩文の挿絵も描いた。文筆の分野でも、詩、歌謡、童話など創作しており、なかでも、詩『宵待草』には曲が付けられて大衆歌として受け、全国的な愛唱曲となった。また、多くの書籍の装幀、広告宣伝物、日用雑貨のほか、浴衣などのデザインも手がけており、日本の近代グラフィック・デザインの草分けのひとりともいえる。





























彼自身の独特な美意識による「夢二式美人画」と呼ばれる作品の多くは、日本画の技法で描かれ(軸物や屏風仕立てで遺る)、また、洋画(キャンバスに油彩)技法による女性像や風景画ものこされている。好んでさまざまな表現形式を試みたが、むしろ、それらは後世になってから評価されたもので、当時の時点においては、印刷された書籍の表紙や広告美術などが多くの目に触れ、大衆人気というかたちで脚光を浴びたのであった。一時は中央画壇への憧れもあったようだが受け入れられず、終生、野にあって新しい美術のあり方を模索した。

世の動きとしてみた場合、当時の画壇ではさまざまな芸術思潮が交錯し、ある意味で胎動期の不定のさなかである。都市における大衆文化の開花による消費生活の拡大を背景とした、新しい応用美術としてのデザインというものの黎明の時代であり、夢二もこれに着目した。生涯の後期にいたっては、彼の図案家としての才能の実績において、生活と結びついた美術を目指し、あるいは産業と融合すべきとの理念を持ち、むしろ積極的に、商業美術(のちにいわれるグラフィック・デザイン)の概念を描いていたようである。榛名山産業美術研究所の構想や、先進欧米視察への野望がこのことを裏付けている。

画集・詩文集・童話は21世紀に入ってもさまざまな装丁で刊行されている。

関わった女性達

恋愛遍歴についても数々の評伝があり、自身の日記や手紙などで語られる愛の言葉は、後世の多くの創作の題材ともなっている。とくに、下記3人が「夢二をめぐる3人の女性」として、しばしば取り沙汰される。

たまき
1882年7月28日 - 1945年7月9日、石川県金沢市出身、本名は岸他万喜。 戸籍上唯一妻となった女性である。兄を頼って上京後、結婚歴があり死別した前夫との間に二児があった。自立のために早稲田鶴巻町に開店した絵葉書店「つるや」に、夢二が客として毎日店に通いつめた挙句、2ヵ月後には結婚にいたった。2年後には離婚するが、その翌年に再び同棲、そして、別居を繰り返す。 夢二が彦乃を知った後の大正4年(1915年)、たまきと画学生東郷鉄春(青児)との仲を疑い、富山県の海岸で夢二がたまきの腕を刺すことによって破局を迎え絶縁にいたるが、たまきは夢二亡き後も終生彼を慕い続けたという。

彦乃
1896年3月29日 - 1920年1月16日、山梨県南巨摩郡西島村(現・身延町西島)生まれ、本名は笠井ヒコノ。別名に山路しの。 日本橋の紙問屋の娘として裕福に育ち、女子美術学校の学生であった。夢二のファンであり、絵を習いたいと「港屋絵草子店」を訪問し、交際が始まる。 たまきと別れ京都に移り住んだ夢二としばらく同棲するが、大正7年(1918年)九州旅行中の夢二を追う途中、別府温泉で結核を発病。父の手によって東京に連れ戻され、夢二は本郷菊富士ホテルに移るが、面会を遮断される。御茶ノ水順天堂医院に入院した彦乃は、そのまま短い人生を終える。 夢二は彦乃を最も愛していたようであり、その死後しばらくショックから立ち直れなかった。「彦乃日記」をのこす。

お葉
1904年3月11日 - 1980年10月24日、秋田県出身、本名は永井カ子ヨ:かねよ。 上京後、東京美術学校のモデルとして人気があった。藤島武二、伊藤晴雨らのモデルをつとめた後に、菊富士ホテルに逗留していた夢二のモデルとして通ううちに同棲、渋谷(現在の渋谷ビーム、同地に石碑あり)に所帯をもつ。大正13年(1924年)、夢二が設計した世田谷「少年山荘」に一緒に移り住んだ。一児をもうけるが夭折。翌14年にお葉は自殺を図り、半年後に別離する。後、医師と結婚し主婦として穏やかな生涯を過ごした。 秀逸な絵画作品である『黒船屋』はお葉をモデルとした。出典:ウィキペディア フリー百貨辞典より。

写真1~5伊香保・竹久夢二記念館。
写真6~7伊香保・保科美術館。
写真8~14伊香保・宿泊旅館に展示されてる夢二の複製画。

★伊香保温泉への道すがら★ウサギ

2012年08月29日 | ★旅行★国内
伊香保温泉への道すがら「伊香保グリーン牧場」に立ち寄りました。

ウサギ(兎、兔)はウサギ目に属する草食哺乳類の総称。

形態

全身が柔らかい体毛で覆われている小型獣である。最大種はヤブノウサギで体長50 - 76 cm。毛色は品種改良もあって色も長さも多彩である。多くの種の体毛の色彩は、背面は褐色、灰色、黒、白、茶色、赤茶色、ぶち模様などで、腹面は淡褐色や白。

他の獣と比しての特徴としては、耳介が大型なことが挙げられる。ウサギ目内では耳介があまり発達していない種でも、他の哺乳綱の分類群との比較においては耳介比率が大きいといえる。音や風のするほうへ耳の正面が向くよう、耳介を動かすことができる。また、毛細血管が透けて見えるこの大きな耳介を風にあてることで体温調節に役立てるともいう。

眼は頭部の上部側面にあり広い視野を確保することができ、夜間や薄明薄暮時の活動に適している。鼻には縦に割れ目があり、上部の皮膚を可動させることで鼻孔を開閉することができる。門歯は発達し、一生伸びつづける。かつてはこの門歯の特徴をもってネズミと同じ齧歯目の中に位置づけられていた。しかし、上顎の門歯の裏側に楔形の門歯があるものをウサギ目として独立した目分類がなされるようになった。歯列は、門歯が上顎4本、下顎2本、小臼歯が上顎6本、下顎4本、大臼歯が上下6本で、計28本の歯を持つ。

かつてネズミの仲間と分類されていたように、肉食であるネコやイヌとは異なる点が多く、ウサギの足の裏には肉球はなく、厚く柔らかい体毛が生えている(ただし肉球のある種もある)。前肢よりも後肢が長く、跳躍走行に適している。前肢の指は5本、後肢の趾は4本で、指趾には爪が発達する。体全体は丸みを帯び、尻尾は短い。

盲腸は長い。尿と糞は1つの穴(総排泄口)から排出する。




















生態

草原や半砂漠地帯、雪原、森林、湿原などに生息する。 アナウサギは地中に複雑な巣穴を掘って集団で生活する。縄張り意識は比較的強く、顎下の臭腺をこすりつける事で臭いをつけてテリトリーを主張する。 ノウサギは穴での生活はしない。

食性は植物食で、草や木の葉、樹皮、果実などを食べる。一部の野生種は昆虫なども食べるという。

胎生。ネコなどと同じく、交尾により排卵が誘発される交尾排卵動物。妊娠期間は最長がユキウサギの約50日で、多くの種は30 - 40日。一度の出産で1~6羽(ないしそれ以上)を出産する。

アナウサギは周年繁殖動物(繁殖期を持たない動物)に分類され、年中繁殖することが可能であり[1][2]、多産で繁殖力が高い動物である。 ノウサギは春先から秋まで、長期的なゆるい繁殖期を持っている。

天敵はキツネをはじめ小~中型の肉食獣、猛禽類。

種類にもよるが、時速60~80kmで走ることができるという。

声帯を持たないため滅多に鳴く事はないが、代わりに非言語コミュニケーションを用いる。代表的なものは発達した後脚を地面に強く打ち付けるスタンピングで、天敵が接近した時にスタンピングをする事で仲間に警戒を促すのが主であるが、いらいらや不安など不快な感情を持つ時にもこの行動をとる事がある。

デリケートな生き物でもあり、ペット飼育されているウサギにはストレスを感じた時に稀に自分の体毛を毟り取る行動が見られるが、ほかのペット動物でもありうる事である。

うさぎの唾液には、衛生状態を保つ成分が含まれている。顔を前脚で覆うように撫でたり耳を撫でる仕草をみかけるが、前脚に予め付着させておいた自らの唾液を目的の部位全体に行き渡らせる事で衛生状態を保っているのである。

生理学的情報
寿命 5 - 11年(稀にそれ以上:ネザーランドドワーフで最高年齢13歳の記録がある。※ギネス記録は18歳10カ月)

体温 ウサギの平均体温は38 - 40℃ (100.4 - 104 F) とかなり高温までが正常範囲。39℃台の体温を正常と判断し対処する必要がある。体温が上がりすぎる場合は耳を水で軽く湿らせタオルで全身を巻いた上からアイスボトルなどで冷やし、逆に体温が37.7℃以下の場合は温かい布で全身を包みカイロなどでその上から温める。 心拍数 130 - 325/分

呼吸数 32 - 60/分

全血液量 57 - 65 ml/kg

血圧 90 - 130/60 - 90 mmHg

食物消費量 5 g/100 g/日(個体の大きさによる)

飲水消費量 5 - 10 ml/100 g/日(あるいはそれ以上)

胃腸管通過時間 4 - 5時間

日本では、各地の縄文時代の貝塚からウサギの骨が出土することや、古事記の「因幡の白兎」などに登場することなどから、そのころには既にかなりの数が棲息していたものと考えられる。灰色や褐色等の毛色を有し、積雪地帯では冬には白毛に生え変わる在来種ニホンノウサギは、日本の固有種として知られている。また、絶滅危惧種であり国の特別天然記念物アマミノクロウサギは、世界でも奄美群島の一部のみに生息する。

人間とのつながり

野生のノウサギ(hare)やアナウサギ(rabbit)、家畜としてのカイウサギ(飼いウサギDomestic Rabbit)、ペットとしてのイエウサギ(家ウサギHouse Rabbit)は、いずれも人間との関わりが深い動物である。

狩猟対象として

野ウサギは昔から食料や毛皮、遊興などの目的で狩猟の対象とされている。特に欧米では、ウサギのハンティングは文化的なスポーツとして扱われている。

狩猟の際にウサギを追いかけるときは必ず斜面の上から追いかけると有利、逆に斜面を登る形で追いかけると不利とされている。なぜならウサギの身体的特徴として後ろ足が長く前足が短いため、ウサギは上り坂では体の傾き具合が水平になるため上り坂で坂を上るのに強く、下り坂では前かがみのようになってしまうため下り坂を下るのは苦手としているからである。

上野公園にある西郷隆盛像(高村光雲作)は、お気に入りの薩摩犬の雌犬「ツン」(後藤貞行作)をつれて趣味の兎狩りをしているときの姿である。

日本におけるウサギ飼育の歴史

日本における飼育の始まりは、欧州等を原産とするアナウサギを改良して近世以降に輸入・飼育されるようになったものであるとされる。移入された時期は天文年間(16世紀前半)で、オランダ人がペットとして日本へ連れて来たと伝えられているが、正確な移入時期と経緯はまだ確定されていない。

江戸時代中期には、ウサギを飼うことはある程度普及しており、人見必大著『本朝食鑑』では体毛が白色で赤い目をしたウサギが飼育され、人によく馴れることが書かれている。また、小野蘭山著『本草綱目啓蒙』や山本亡羊著『百品考』などには、ウサギが家で飼育されていることが書かれている[3]。喜多川歌麿の浮世絵『浮世七ツ目合』にはペットとして飼われているウサギが描かれている。当時、ペットのウサギは高価だったため裕福な商人などが飼っていた[4]。

明治になると軍需のための食肉毛皮需要によりウサギ飼育が非常に盛んになり、1872年に在来と外国の混血から生まれた更紗模様のある種雄は200 - 600円で売られ、種付けは2 - 3円/回であった。子ウサギはコロと呼ばれ10円以上した(ウサギバブル。『風俗画報』310号 明治38年2月10日 在三河安城、久永章武による)。このため1873年に東京府(現・東京都)布達、兎取締ノ儀(1876年改正、兎取締規則)で頭数の届出、1羽1円の税金、無届1羽につき月2円の納入とされ、1879年に廃止されるまで続いた。太平洋戦争中、日本はアンゴラウサギの飼育頭数が世界一になったことがあるが、これは食糧の確保及び兵士の防寒着を作るために飼育が奨励されたためである。

日本の白い体毛・赤い目という特徴を持つウサギは「日本白色種」という品種で、明治の頃にニュージーランドホワイト種から作られた。小学校などでの飼育もこの頃から昭和にかけて広まりをみせた。このウサギは近年では「ジャパニーズホワイト」とも呼ばれている。出典:ウィキペディア フリー百貨辞典より。

★伊香保温泉への道すがら★山羊

2012年08月28日 | ★旅行★国内
伊香保温泉への道すがら「伊香保グリーン牧場」に立ち寄りました。

ヤギ(山羊、野羊)は、ウシ科ヤギ属の総称である。

狭義には家畜種 Capra hircus(分類によっては C. aegagrus の亜種 Capra aegagrus hircus)を指す。

特徴
高所を非常に好む。

家畜としてのヤギ

ヤギは家畜として古くから飼育され、用途により乳用種、毛用種、肉用種、乳肉兼用種などに分化し、その品種は数百種類に及ぶ。ヤギは粗食によく耐え、険しい地形も苦としない。
そのような強靭な性質から、山岳部や乾燥地帯で生活する人々にとって貴重な家畜となっている。ユーラシア内陸部の遊牧民にとっては、ヒツジ、ウシ、ウマ、ラクダとともに5種の家畜(五畜)のひとつであり、特にヒツジと比べると乾燥に強いため、西アジアの乾燥地帯では重要な家畜であり、その毛がテントの布地などに使われる。

ヤギの乳質はウシに近く、乳量はヒツジよりも多い。明治以降、日本でも数多くのヤギが飼われ、「貧農の乳牛」とも呼ばれたが、高度経済成長期を境として減少傾向にある。
しかし、近年ではヤギの愛らしさ、粗放的飼育に耐えうる点等が再評価されつつある。これを受けて、ヤギ愛好者・生産者・研究者が一堂に会する「全国山羊サミット」が年に1回、日本国内で毎年開催場所を変えて開催されており、年々盛況になっている。





















家畜化の歴史

ヤギは新石器時代の紀元前7千年ごろの西アジアの遺跡から遺骨が出土しており、家畜利用が始まったのはその頃と考えられている。従って、ヤギの家畜化はイヌに次いで古いと考えられる。しかしながら、野生種と家畜種の区別が難しく、その起源については確定的ではない。またパサンが家畜化されたと考えられているが、ヤギ属他種との種間雑種に由来する説もある。

従って、初めて搾乳が行われた動物はヤギと考えられ、チーズやバターなどの乳製品も、ヤギの乳から発明された。乳用のほか、肉用としても利用され、皮や毛も利用される。群れを作って移動するヤギは、遊牧民の生活にも都合が良く、肉や毛皮、乳を得ることを目的として、家畜化された結果、分布域を広げていったと考えられる。

一方、農耕文明においては飼育されていたものの遊牧民ほどは重宝しなくなった。ヤギは農耕そのものには役に立たず、ヒツジの方が肉や毛皮が良質であり、また、新たに家畜化されたウシの方が乳が多く農作業に適していたからである。ただし、現在でも多くの品種のヤギが飼育されている。

宗教上ウシやブタを利用しない文化においても、重要な家畜とされる。子ヤギ(キッド)の革は脂肪分が少なく、現代でも靴や手袋を作るのに用いられるが、西洋では12世紀以降、4-6週の子ヤギの革が、羊皮紙の原料としてヒツジ革と競合した。

ヤギは粗食に耐えることから、18 - 19世紀の遠洋航海者が重宝して船に乗せ、ニュージーランドやオーストラリア、ハワイなどに持ち込んだ経緯がある。ペリー艦隊も小笠原諸島などにヤギを持ち込んでいる。日本にはもともと野生のヤギは存在しておらず、比較的最近になって、朝鮮半島または南方から持ち込まれた。

明確な時期は不明だが、江戸時代ごろとされる。1775-1776年に蘭館医師として日本に滞在したスウェーデン人カール・ツンベルク(トゥーンベリ)は、「彼らはヒツジもヤギも持っていない」と記している。ただし琉球王国では、江戸時代より前に伝来していたようである。また、後述のシバヤギは、キリシタンと呼ばれた集落で飼われ、隠れキリシタンの貴重な食料源となっていたとされる。

品種

代表的な品種

ザーネン種
スイス西部のザーネン谷原産の乳用種。毛色は白で、乳房が発達している。日本のヤギのほとんどはこの種もしくはその雑種である。雌雄共に角がないものも見られ無角が遺伝子的に優性でこの無角遺伝子と間性は深い関わりが伺え、搾乳目的の無角山羊を飼う場合注意が必要、逆にペット山羊としては間性山羊は必ず無角であり発情期の悲鳴が無い事から注目される。

トッケンブルグ種
スイス原産の乳用種。毛色は褐色。目の上から鼻にかけて2本の白線があり、これはオリジナル三種の幼獣には全て見られ雌はそのまま成長、雄は相当変異する遺伝的特徴と思われ狭義のスイスマークとして知られ有色山羊にまま見られアルパイン、ヌビアン、ピグミー種で確認されている。

アルパイン種
スイス・フランスのアルプス地方原産、ヨーロッパ、北アメリカなど世界各地で飼養されている。ブリティッシュおよびフレンチ・アルパインが代表的だが、近年アメリカン・アルパインが作出され、搾乳を容易にする乳器の改良が行われ牛用搾乳機の利用が可能になっている。

ヌビアン種
アフリカ東部ヌビア地方原産、アフリカ、ヨーロッパなどで飼養されている。ヌビアンにはアングロ・ヌビアンとスーダン・ヌビアンがいるが、通常ヌビアンというのは前者のことを指す。毛色は黒、褐あるいは黄褐を基調としてそれぞれの斑紋など多様である。無角で長い垂れ耳の山羊の代表種、乳量が600~800 kgと言う文献もあり周年繁殖種としては出色で詳しい情報が待たれる。

マンバー種
中東の砂漠地帯で遊牧民などに飼われる。毛色は黒。毛をテントやロープの材料として用いるほか、乳を食用とする。 カシミア種 中国の新疆ウイグル自治区や内モンゴル自治区、モンゴル国で飼育されている。産毛はカシミアウールとしてニット製品に用いられている。

アンゴラ種
トルコ、アナトリア半島のアンカラ(古称アンゴラ)地方原産。毛はモヘア織りの原料となる。

ジャムナバリ種
インド、東南アジアで飼育される。白地に褐色や黒の斑点をもつ。耳が垂れ、盛り上がった鼻筋が特徴。食肉用や乳用にされる。

小型の品種

シバヤギ
体重 20–30kgの小型のヤギ。長崎県西岸や五島列島で昔から飼育されていたものから、明治以降に品種改良を進めて作り出された。周年繁殖、すなわち季節を問わず1年中繁殖が可能。雌雄ともに角があり、オスの方が角が太くより後方に伸びる。近年、飼育頭数が減っており、現在は東京大学農学部付属牧場、農林水産省畜産試験場、同省長野牧場などで小さな集団が維持されているのみである。また、テレビ番組『ザ!鉄腕!DASH!!』の「DASH村」(福島県双葉郡浪江町、現在は東日本大震災による福島第一原子力発電所放射能事故より他県に避難中)で飼育されている八木橋一家(現在はその子や孫のみ)もこのシバヤギである。トカラ列島の鹿児島県十島村で飼育されていたトカラヤギは、シバヤギよりさらに小さく、成雌で20 kg以下である。

ピグミーゴート
北アフリカ西部原産小型のヤギ。最初にヨーロッパに持ち込まれ、次いでアメリカに渡りミルクの搾れるペット山羊として人気があり、この地でピグミーゴートと呼ばれだしたと考えられる。愛好会による品評会が盛んなためか、インナーブリードによると思われる特異な個体(反転スイスマーク個体、体の前と後ろで色が異なる個体)が散見され、同時に交雑が進んでいる。 元来ピグミーゴートはオリジナルのベゾアールに一番近い形体が残っていたと思われ、純粋に近い両親からは全て同じ柄(体色に濃淡の変化はあるが全身にスイスマーク)の子供が生まれ、メスはそのまま成獣となりオスは一年から二年で全く別の体色の成獣となる。 一部によくシバヤギやトカラヤギと体重、体高を比較されるが、普通は一回り大きい。しかしヤギの体重はほとんど一生増え続け、適度な飼料と微量要素を与えるとシバヤギで100 kgを越えた例、ヤクヤギ(トカラヤギが移入)で90 kgを越えた例も見られ、比較にあまり意味はない。

利用

ヤギ肉

牧畜を行う地域では、おおむねポピュラーな肉で羊肉と区別されずラム・マトンとして利用される。煮込み(山羊汁)が東南アジアでは普通で、ローストなどは一部特殊種類の山羊だけに見られる調理法である。南アジアではカレーに使われる。ベトナムでは薄切りにして炒め物にしたり鍋料理にされる。中華人民共和国では、広西チワン族自治区などで一般的で、鍋料理やスープにすることが多い。地中海沿岸でも骨を煮てスープを取ることが行われる。日本では、多くの地域ではあまり馴染みがないが、例外的に沖縄料理ではヒージャーと呼んでよく使われており、汁物(山羊汁)や刺身(山羊刺し)として食べられる。特に睾丸の刺身は珍重される。沖縄と同様に鹿児島県の奄美大島・トカラ列島などでも祝いの席の御馳走として振る舞われる事がある。

ヤギ乳と乳加工品

牧民はヤギの乳をさまざまに加工して用いる。ヤギ乳のチーズはシェーヴルチーズとも呼ばれ、白色で軽い食感をもち、軽い酸味と特有の香りをもつものが多い。フランスのクロタン(Crotin de Chavignol)、ピコドン(Picodon de l'Ardeche)などが有名。

ヤギ乳は、牛乳アレルギーのある人の代替飲料として好んで用いられていた。また、牛乳よりも消化性に優れ、芳醇な風味もあるため、アレルギーのいかんにかかわらず好む人は多い。また、アトピーにも有効といわれている。アメリカ合衆国では、メイヤンバーグ社がヤギのミルクや粉ミルクを広く流通させており、米国内の大手のスーパーでは大抵手に入る(粉ミルクは日本の輸入雑貨店でも売られている)。

太平洋戦争中は、牛に比べて大きさが手頃なことから、日本でも多くの民家でヤギの飼育が行われ、食肉やミルクの供給源となった。しかし、敗戦後はGHQの指導によりヤギ乳に代わって牛乳が普及したために、日本国内における現在の生のヤギ乳の生産高は少ない。

医薬領域での利用

ヤギ、特にシバヤギは、実験動物として利用されている。ヤギは他の実験動物よりも体が大きく、血清が大量にとれるため、ポリクローナル抗体(主に二次抗体)作製のためにもしばしば用いられる。また、遺伝子組み換え技術により、乳汁中に有用タンパク質を分泌するヤギが作成されている。性成熟が早く、泌乳量が多いことなどの点で、ヤギは他の動物に比べ優れている。

その他

固い植物でもよく食べるので、除草に利用される。出典:ウィキペディア フリー百貨辞典より。

★伊香保温泉への道すがら★羊

2012年08月27日 | ★旅行★国内
伊香保温泉への道すがら「伊香保グリーン牧場」に立ち寄りました。

ヒツジ(羊)は、動物界 脊椎動物門 哺乳綱 ウシ目 ウシ科 ヤギ亜科の1種である。

角をもち、主に羊毛のために家畜化されている。

形態

ヒツジは反芻動物としては比較的体は小さく、側頭部のらせん形の角と、羊毛と呼ばれる縮れた毛をもつ。

原始的な品種では、短い尾など、野生種の特徴を残すものもある。

家畜のヒツジは54本の染色体をもつが、野生種は58~54本の染色体を有し、交雑可能である。自然状態の雑種の中には55本や57本の染色体をもつ個体も存する。

品種によってまったく角をもたないもの、雄雌両方にあるもの、雄だけが角を持つものがある。螺旋を巻きながら直状に伸びた角をラセン角、渦巻き状に丸く成長する角をアモン角と称する。角のある品種のほとんどは左右に1対だが、古品種にはヤギのように後方に湾曲しながら伸びる2~3対(4~6本)の角をもつものもいる。

野生のヒツジの上毛の色合いには幅広いバリエーションがあり、黒、赤、赤褐色、赤黄色、褐色などがある。毛用のヒツジは主に染色に適した白い羊毛を産するように改良が加えられているが、ほかにも純白から黒色まであり、斑模様などもある。白いヒツジの群れのなかに有色の個体が現れることもある。

ヒツジの体長や体重は品種により大きく異なり、雌の体重はおよそ45–100kg、雄はより大きくて45–160kgである。

成熟したヒツジは32本の歯を持つ。ほかの反芻動物と同じように、下顎に8本の門歯がある一方、上あごには歯がなく、硬い歯茎がある。犬歯はなく、門歯と臼歯との間に大きな隙間がある。

4歳になるまで(歯が生え揃うまで)は、前歯は年に2本ずつ生えるため、ヒツジの年齢を前歯の数で知ることができる。ヒツジの平均寿命は10年から12年であるが、20年生きるものもいる。

前歯は齢を重ねるにつれ失われ、食べるのが難しくなり、健康を妨げる。このため、通常放牧されているヒツジは4歳を過ぎると徐々に数が減っていく。





















生態

同じヤギ亜科に属するヤギと違い、草だけを食べる(ヤギは木の芽や皮も食べる)。

ヒツジの聴力はよい。また視力については、水平に細い瞳孔を持ち、優れた周辺視野をもつ。視野は 270–320°で、頭を動かさずに自分の背後を見ることができる。しかし、奥行きはあまり知覚できず、影や地面のくぼみにひるんで先に進まなくなることがある。

暗いところから明るいところに移動したがる傾向がある。

通常は、150日ぐらいで仔を1頭だけ産むが、2頭あるいは3頭産むときもある。

ヒツジは非常に群れたがる性質をもち、群れから引き離されると強いストレスを受ける。また、先導者に従う傾向がとても強い(その先導者はしばしば単に最初に動いたヒツジであったりもする)。これらの性質は家畜化されるにあたり極めて重要な要素であった。

なお、捕食者がいない地域の在来種は、強い群れ行動をおこさない。

群れの中では、自分と関連あるもの同士が一緒に動く傾向がある。混種の群れの中では同じ品種で小グループができるし、また雌ヒツジとその子孫は大きな群れの中で一緒に動く。

ヒツジにとって、危険に対する防御行動は単純に危険から逃げ出すことである。その次に、追い詰められたヒツジが突撃したり、蹄を踏み鳴らして威嚇する。とくに新生児を連れた雌にみられる。ストレスに直面するとすぐに逃げ出しパニックに陥るので、初心者がヒツジの番をするのは難しい。

ヒツジは非常に愚かな動物であるというイメージがあるが、イリノイ大学の研究によりヒツジのIQがブタよりは低くウシと同程度であることが明らかになった。人や他のヒツジの顔を何年も記憶でき、顔の表情から心理状態を識別することもできる。

ヒツジは非常に食べ物に貪欲で、いつもエサをくれる人にエサをねだることもある。羊飼いは牧羊犬などで群れを動かす代わりに、エサのバケツでヒツジを先導することもある。エサを食べる順序は身体的な優位性により決定され、他のヒツジに対してより攻撃的なヒツジが優勢になる傾向がある。

オスのヒツジは角のサイズが群れでの優位を決める重要な要素となっていて、角のサイズが異なるヒツジの間ではエサを食べる順番をあまり争わないが、同じような角のサイズを持つもの同士では争いが起こる。

原種
アルガリ 野生のヒツジで、ヒツジとしては最大の種。体高120センチ、体重100~180キロに達する。毛は褐色から赤褐色。角は渦巻き状で長い。アジアの高山地帯に分布する。マルコ・ポーロの『東方見聞録』でも紹介されている。家畜ヒツジの原種の一つと考えられている。 ムフロン 小型の野生のヒツジで、最初期に家畜化されたヒツジの原種の1つと考えられている。ヨーロッパ・ムフロン、アジア・ムフロン(レッド・ムフロン)が知られ、赤色から赤褐色、赤黄色の毛色をもつ。

歴史
家畜化の歴史

未(ひつじ)として十二支の一つに入っているように、中国では8,000年以上前から飼育されていた。新石器時代から野生の大型ヒツジの狩猟がおこなわれていた形跡がある。家畜化が始まったのは古代メソポタミアで、紀元前7000~6000年ごろの遺跡からは野生ヒツジとは異なる小型のヒツジの骨が大量に出土しており、最古のヒツジの家畜化の証拠と考えられている。

家畜化されたヒツジの祖先は、モンゴルからインド、西アジア、地中海にかけて分布していた4種の野生ヒツジに遡ることができる。中央アジアのアルガリ、現在の中近東にいるアジアムフロン、インドのウリアル[2]、地中海のヨーロッパムフロンがこれにあたる。これら4種は交雑が可能であり、遺伝学的手法によっても現在のヒツジの祖を特定するには至っていないが、いくつかの傍証からアジアムフロンが原種であるとの説が主流となっている。

ヒツジを家畜化するにあたって最も重要だったのは、脂肪と毛であったと考えられている。肉や乳、皮の利用はヤギが優れ、家畜化は1000~2000年程度先行していた。しかし山岳や砂漠、ステップなど乾燥地帯に暮らす遊牧民にとって、重要な栄養素である脂肪はヤギからは充分に得ることができず、現代でもヒツジの脂肪が最良の栄養源である。他の地域で脂肪摂取の主流となっているブタは、こうした厳しい環境下での飼育に適さず、宗教的にも忌避されている。こうした乾燥と酷寒の地域では尾や臀部に脂肪を蓄える品種が重視されている。それぞれ、脂尾羊、脂臀羊と分類される。

羊毛の歴史

毛の利用については、現代のヒツジと最初期のヒツジとでは様相が大きく異なる。

野生のヒツジの毛(フリース)は2層になっている。外側を太く粗く長い「上毛(粗毛、ケンプ)」に覆われ、肌に近い内側に産毛のような短く柔らかく細い「下毛(緬毛、ウール)」がわずかに生えている。最初期のヒツジの緬毛(ウール)は未発達で、利用されていなかった。一方、野生のヒツジは春に上毛(ケンプ)が抜ける(換毛)性質があり、紀元前から人類は、この抜け落ちた上毛(ケンプ)によってフェルトを作っていたらしい。現在われわれが通常に羊毛(ウール)として親しんでいるのは、主にこの下毛を発達させるように品種改良された家畜用ヒツジの毛である。現代の家畜化されたヒツジは換毛しない。

家畜化されたヒツジは改良によって、上毛(ケンプ)を退行させる代わりに、ヘアー(適当な訳語がない)と呼ばれる中間毛と緬毛(ウール)を発達させた。紀元前4000年ごろにはヘアータイプやウールタイプのヒツジが分化している。紀元前2000年ごろのバビロニアはウールと穀物と植物油の三大産物によって繁栄した。バビロンの名は「ウールの国」の意味であるとする研究者もいる[4][5]。

野生タイプのヒツジの上毛(ケンプ)は黒色、赤褐色や褐色であったが、改良によってヘアーやウールタイプのヒツジからは淡色や白色の毛が得られ、染料技術と共にメソポタミアからエジプトに伝播し、彩色された絨毯は重要な交易品となった。紀元前1500年頃から、地中海に現れたフェニキア人によって白いウールタイプのヒツジがコーカサス地方やイベリア半島に持ち込まれた。コーカサス地方のヒツジは、のちにギリシア人によって再発見され、黄金羊伝説となった。このヒツジはローマ時代には柔らかく細く長く白いウールを生むタランティーネ種へ改良された。ローマ人が着用した衣服はウールの織物である。一方、イベリア半島では、すでに土着していたウールタイプのヒツジとタランティーネ種の交配による改良によって、更なる改良が続けられ、1300年頃のカスティーリャで現在のメリノ種が登場した。

理想的なウールだけを産するメリノ種は毛織物産業を通じてスペインの黄金時代を支えた。メリノ種はスペイン王家が国費を投じて飼育し、数頭が海外の王家へ外交の手段として贈呈される以外は門外不出とされた。これを犯した者は死罪だった。18世紀になるとスペインの戦乱にヨーロッパの列国が介入し、メリノ種が戦利品として持ち去られて流出、羊毛生産におけるスペインの優位性が喪失された。イギリスでは羊毛の織物と蒸気機関を組み合わせた新産業が興った。同じ頃、南アフリカ経由で13頭のメリノ種がオーストラリアに輸入された。このうちの3頭が現在のオーストラリアのメリノ種の始祖になったと伝えられている。

日本の羊の歴史

日本では、明治期にお雇い外国人によって様々な品種のヒツジが持ち込まれたが、冷涼な気候に適したヒツジは日本の湿潤な環境に馴染まず、多くの品種は定着しなかった。日本政府は牛馬の普及を重視したが、外国人ル・ジャンドルが軍用毛布のため羊毛の自給の必要性を説き、1875年(明治8年)に大久保利通によって下総に牧羊場が新設された。これが日本での本格的なヒツジの飼育のはじめである。戦前から戦後間もない時期まで、日本製の毛織物は重要な輸出品だったが、化学繊維にとってかわられた。

家畜用のヒツジは、毛用種、肉用種、乳用種に大別されるが、代表種のメリノをはじめ、兼用の品種も多い。

利用

羊肉

羊肉は広い地域で食用とされている。羊の年齢によって、生後1年未満をラム(lamb、子羊肉)・生後2年以上をマトン(mutton)と区別することもある。生後1年以上2年未満は、オセアニアでは「ホゲット」と区別して呼ばれているが、日本ではマトンに含まれる。

日本国内では、毛を刈った後で潰したヒツジの大量の肉を消費する方法として新しく考案されたジンギスカン鍋や、ラムしゃぶ、スペアリブの香草焼きなど特定の料理で使われることが多い。カルニチンを他の食肉よりも豊富に含むことから、体脂肪の消費を助ける食材とされている。

ラムには臭みが少なく、こちらは日本で近年人気が高まりつつある。羊肉特有の臭みは脂肪に集中するため、マトンの臭みを取り除くには、脂肪をそぎ落とすと良いと言われる。他には、「香りの強い香草と共に炒める」「牛乳に漬けておく」等の方法がある。

海外では、飼育が盛んなオーストラリア、ニュージーランドをはじめ、豚肉を避けるイスラム教が広く普及した中東での消費量が多い。東アジアでも、モンゴル、中国西北部などでは、代表的な食肉となっており、さまざまな調理法が用いられている。

インドのマクドナルドには「マハラジャマック」と呼ばれるメニューがあり、これは牛を神聖な生き物とみなすヒンドゥー教の信徒ためにマトンを用いたハンバーガーのことである。

羊毛

羊の飼育上もっとも重要な利用対象はメリノ種などから取る緬毛(ウール)である。

出典:ウィキペディア フリー百貨辞典より。


★伊香保温泉への道すがら★ツルレイシ

2012年08月26日 | ★旅行★国内
伊香保温泉への道すがら「伊香保グリーン牧場」に立ち寄りました。

ツルレイシ(蔓茘枝)は、未熟な果実を野菜として利用するウリ科の植物である。また、その果実のこと。

名称について

和名の「ツルレイシ」は、イボに覆われた果実の外観と、完熟すると仮種皮が甘くなるという2つの形質が、ムクロジ科の果樹であるレイシ(ライチ)に似ていることに由来する。つまり、蔓性の植物体に実るレイシの意味である。また、果肉が苦いため「ニガウリ」とも呼ぶ。農学・園芸学ではツルレイシを用いることが多いが、生物学では近年ニガウリを用いることが多い。

沖縄本島ではニガウリのことを「ゴーヤー」と呼ぶのが一般的であるが、沖縄料理ブームの影響もあり、全国的に見ると「ゴーヤー」または「ゴーヤ」を使用することが多くなっている。「ゴーヤ」という呼称が普及していった経緯は諸説ある。中国語では 苦瓜(クーグア)や 涼瓜(リァングア)などと呼ばれ、日常的に食用にするだけでなく、焙煎してお茶として飲用することもある。また、英名の bitter melon も苦い瓜の意味である。

九州・南西諸島各地に地方名があり、沖縄県では沖縄本島(首里・那覇方言や今帰仁方言など)で「ゴーヤー」、宮古島(宮古方言)で「ゴーラ」、八重山(八重山方言)で「ゴーヤ」、熊本県をはじめとする九州の大部分では「ニガゴリ」、鹿児島県奄美大島では「トーグリ」、長崎県諫早地方、鹿児島県本土では「ニガゴイ」などと呼ばれている。諫早地方では「ニガウイ」の名称も併用される。

以上のように多くの名称が用いられているが全て同じ種類の植物で、つまり標準和名ツルレイシ(蔓茘枝、学名:Momordica charantia var. pavel)である。ただ、広く流通する現代では幾つかの栽培品種が存在し、品種によって苦味の強さにも差があり、九州地域で栽培されてきた細長い品種は苦味が強く、沖縄地域で栽培されてきた太いものは苦味が穏やかである傾向がある。前者の細長い品種を「ニガゴイ」ないし「ニガゴリ」、後者の太いものを「ゴーヤー」と栽培されてきた地域のそれに習い、呼び分ける場合もある。

























特徴

つる性の一年生草本。成長すると長さ4~5mになる。果実は細長い紡錘形で長さ20~50cm、果肉を構成する果皮は無数の細かいイボに覆われ、両端は尖り、未成熟な状態では緑、熟すと黄変軟化し裂開する(収穫しても、常温で放置しておくと同じ状態となる)。完熟した種子の表面を覆う仮種皮は赤いゼリー状となり甘味を呈する。腐敗しているわけではなく食すこともできるが、歯ごたえのある食感は失われる。元来野生状態では、この黄色い果皮と赤くて甘い仮種皮によって、果実食の鳥を誘引して種子散布を行っていたものと考えられる。

原産と栽培地

原産地は熱帯アジア。日本では南西諸島と南九州で多く栽培されているが、今日ではさらに広い地域での食用栽培が盛んである。沖縄県産がシェアの3割を占める。なお、1990年までは沖縄本島産のものが、1993年までは八重山産のものがウリ類の大害虫ウリミバエの拡散防止のため、域外への持ち出しが禁止されていた。不妊虫放飼によるウリミバエの根絶に成功したことにより、沖縄県外へ出荷することが可能になり、沖縄県における生産量の拡大につながった。

栽培方法

本州全域でも、梅雨以降の夏場で日照が強くて気温が高く、雨も豊富な時期であれば、露地でキュウリなどの在来作物同様に種を蒔いて栽培することができる。栽培に際しては、棒や網などを立て掛けて巻きつけるようにして栽培する。本州での栽培も数年前から定着しているため、首都圏ではスーパーマーケットの野菜売り場などでも購入が可能である。

なお、緑色の実は種も未成熟なので、家庭で栽培する場合には、丸々一本を採種用に黄色くなるまで放置するか、園芸店などで種を購入した方がよい。ただし、最近はF1品種が多いため、完熟させて種を採取しても、今年と同様に実が育成するとは限らない。F1品種の疑いがある場合は種や苗を購入すべきである。

比較的病害虫に強く、日照と気温と十分な水さえあれば、肥料や農薬はほとんど使わなくても収穫が得られ、家庭菜園の作物にも適している。

このためもあってか、2010年前後から緑のカーテン(グリーン・カーテン)と呼ばれる日除けのために栽培されることが多くなった。

丈夫で栽培は容易である反面、大きく育ち過ぎるのが欠点である。つまり栽培に必要なスペースと土の確保が問題になる。十分な収穫を得るには、地面に植える場合は畝幅が1,2メートルで株の間隔は1メートル以上必要。農家の場合はその2倍以上のスペースを確保することが多い。鉢で栽培するには一株当たりの土の量は最低80リットル理想的には100リットル程度必要である。根が多くの酸素を消費するため直径が広く出来るだけ浅い鉢が良い。鉢植えに適さない植物である。

植え付け後は、本葉が8枚程度開いたときに本葉5~6枚残して枝先(親つる)を切り取り脇芽(子つる)を数本伸ばす。これは親つるより子つるの方が実が着きやすいため。地植えの場合は殆ど水やりの必要は無い。台風の後は茎葉や実が傷ついて弱っているので、傷ついた実を早めに摘み取ってやると回復が早い。

実の色は葉と同じクロロフィルなので、光が当たらないとモヤシのように色が薄くなって見た目が悪くなる。そこで、葉の陰にある実を外側へ移動して光を当てて色をよくする。

成分

独特な苦味があるので、好き嫌いが分かれる野菜として知られ、種子に共役リノレン酸を含むことが知られている。主に未成熟な果皮を食用とし、ビタミンCなどの水溶性ビタミンを多く含むことや、健胃効果もある苦味(苦味成分として、モモルディシン(momordicin)、チャランチン(charantin)、コロソリン酸を含む)のため、近年では夏バテに効く健康野菜・ダイエット食品としての認知度が上がり、日本全国で栽培されるようになった。

調理

ツルレイシは九州と南西諸島以外の地方では近年まで一般的な食材ではなかったが、現在はゴーヤーチャンプルーをはじめとする沖縄料理の食材として広く知られている。健康野菜としての認知度が上がるにつれてテレビなどで調理法が紹介され、昨今では「ゴーヤーチャンプルーの素」などのレトルト調味料も登場している。

苦味を抑えたい場合は
1.中の綿をスプーンなどでしっかりこそげ取る
2.(調理方法によるが)2~3mm幅くらいの薄切りにして熱湯でさっと下茹でする
3.少量の塩を振って揉んでしばらく置き、水分を出した後軽く洗う。もしくは塩水に漬け一晩置く

などの手順がある。

薩摩料理をはじめとする南九州の郷土料理でも好まれる食材であり、九州ではおひたし・和え物でよく食べられる。鶏肉とキャベツと炒めたり、天ぷらや(揚げて)チップスにもする。

実を細かく砕いて焙じたものは、ゴーヤー茶として沖縄県で販売されている。味はほうじ茶に似て苦味は無い。

よく洗って単純に種と綿を除いてミキサーにかけ、風味を整えるために蜂蜜などを加えて青汁のように飲んだり、細かく切って干し、煎じて飲む場合もあるが、こちらは栄養補助食品のイメージが強い。干した物を切干大根のように戻して煮物に使うこともできる。出典:ウィキペディア フリー百貨辞典より。

写真12はゴーヤーの天麩羅。

★伊香保温泉への道すがら★乳牛

2012年08月25日 | ★旅行★国内
伊香保温泉への道すがら「伊香保グリーン牧場」に立ち寄りました。

乳牛あるいは乳用牛は、家畜化された牛のうち、特に乳の出る量が多くなるように品種改良された牛のこと。日本ではホルスタインがよく知られている。

乳牛には雄牛も存在するが、乳は出ない。従って、種牡に適さないものや、乳の生産量が落ちた高齢の雌牛は肉牛として出荷される。仔牛肉用の牛は、雄で生まれた乳牛が多い。

品種

ホルスタイン種

ガンジー種

ジャージー種

エアシャー種

ブラウンスイス種

草原紅牛

乳牛の一生

























子牛

子牛は生まれてすぐに母牛から離され、母牛から取った乳が人間の手で与えられる。但し、乳を牛乳の生産ラインにのせるために、できるだけ早く母乳から代用乳(粉ミルク)への切り替えが行われる。母牛から離された子牛の多くは、繋ぎ飼いか単頭飼いのストール(囲い)で飼育され、1か月 - 1か月半にわたって代用乳や人工乳(離乳食)を与えられる。徐々にやわらかい乾草や濃厚飼料(配合飼料)へ慣らしていき、離乳後は群飼にうつされることが多い。

生まれた子牛が雄ならば生後2 - 3週間後、肉牛にするため肥育農家へ売りに出される(国産牛肉の1/4は、乳牛から生まれた雄子牛を28か月程肥育してからと殺したものである)か、子牛肉として18週 - 20週飼育されてからと殺される。

子牛は生後3 - 6か月ほどで除角が行われる。牛舎内での過密飼いをする場合には、牛の攻撃性を抑えるためや管理者の角による怪我を防ぐために除角をすることが望ましいとされている。放牧主体の酪農がほとんど行われていない日本では、乳牛の93%以上に除角が行われている。

農林水産省の委託を受けて社団法人 畜産技術協会が策定した「アニマルウェルフェア(動物福祉)に対応した乳用牛の飼養管理指針」では「除角を行う際は、牛への過剰なストレスを防止し、可能な限り苦痛を生じさせない方法をとることとする。(中略)除角によるストレスが少ないと言われている焼きごてでの実施が可能な生後2ヵ月以内に実施することが推奨される」とされている。

育成牛

離乳からはじめて子牛を生むまでの期間を育成牛と呼ばれる。生後14か月 - 16か月ではじめての人工授精が行われる妊娠後、約9か月で分娩する。完全放牧の牛と違い、牛舎内で飼われる牛は運動量が少ないため、自力で出産することが困難であり、人の介助が必要であることが多い。

搾乳牛

出産後約300日間搾乳される。日本の搾乳牛の飼養方法はつなぎ飼い (73.9%) 、牛舎内での放し飼い (24.8%) が主流であり、自然放牧による飼養は2%に満たない[3]。

なお、出産しなければ乳は出ないため、経済効率を上げるために、出産後2か月ほどで次の人工授精が行われる。
乾乳:乳牛は出産後約1年間乳を出し続けるが、次産後の搾乳に向けた乳腺組織の回復・母体の体力回復を目的として、次の出産前の約2か月間、搾乳を中止する乾乳が行われる。

乳の泌乳量は3-4回目の出産後がピークであり、その後徐々に泌乳量は下がる。乳量が下がったり繁殖ができなくなり、と殺された乳牛のことを「乳廃牛」という。乳廃牛は食肉に利用されるほか、肥料や革製品などにも利用される。

牛の寿命は自然界では20年ほどだが、乳牛は6-7年で廃牛とされる。

★伊香保温泉への道すがら★馬車

2012年08月25日 | ★旅行★国内
伊香保温泉への道すがら「伊香保グリーン牧場」に立ち寄りました。

馬車

馬車とは馬や騾馬などの後に車をつけ、人や荷物を運搬する交通の手段である。

馬車がいつ何処で発明されたか明らかではないが、インダス文明の遺跡であるハラッパーからは、轍(わだち)がある道路跡が発掘されている。

紀元前2800~2700年の古代メソポタミアの遺跡から、馬車の粘土模型が発掘されている。この模型は2頭立て2輪の戦車(チャリオット)であった。戦車は古代オリエント世界と古代中国の商(殷の墳墓から戦車と馬の骨が多数出土)から周時代などで広く用いられた。

古代ローマでは戦闘用として戦車が用いられたほか、娯楽として戦車競走が盛んに行われた。現在のローマ市にあるナボーナ広場は当時の戦車競技場の跡地であり、広場全体の形が当時の競技場のまま残されている。映画『ベン・ハー』で描かれた戦車競技が良く知られている。

また、古代ローマの帝政期には、帝国全土にはりめぐらされたローマ街道を用いた郵便馬車制度が整備された。この郵便馬車は4輪であった。ローマ帝国が衰退すると、都市間の道路網の整備が行き届かなくなり、馬車の発展を妨げた。

14世紀のハンガリーでは、紐や鎖で座席を吊り下げた懸架式の馬車が登場し、17世紀にはバネによるサスペンションを備えた馬車が登場した。

1625年、ロンドンに辻馬車が登場。ほどなく、パリにも登場している。辻馬車は、走行時間によって料金が設定されていたが、19世紀にはメーターが導入されたことにより、走行距離によって料金が示されるようになる。このシステムはタクシーに引き継がれた。

1662年、ブレーズ・パスカルはパリで乗合馬車「5ソルの馬車」を創業する。これは現代のバスに相当するもので、世界初の都市における陸上公共交通機関とされる。安価で正確な運行により、好評を博した。

18世紀に入ると、ヨーロッパの主要都市間を結ぶ駅馬車が整備されてくる。例えばパリ-リヨン間の駅馬車であるdiligenceは、夏は5日、冬なら6日で、両都市間を結んだ。

19世紀に馬を動力として鉄道を走る馬車鉄道が発明された。しかし、蒸気機関車が発明されたことから、馬車鉄道は衰退した。蒸気機関車発明後もどこでも自由に移動できる馬車もヨーロッパ社会たとえばイギリス(シャーロック・ホームズ参照)などで盛んに利用された。また日本においても(中世にウシを用いた牛車が存在したものの、その後家畜に車を引かせる習慣はなくなっていた)明治時代(1869年)から東京~横浜間を乗客輸送用として乗合馬車の営業を開始させたのを機に馬車が普及し日本各地で広まり、自動車やバスが普及されるまで存続した。

またアメリカ合衆国では西部開拓が盛んになり、開拓民は幌馬車隊を組んで西部に向け移住していったが、その後、馬車の車体を改造し蒸気機関を搭載した蒸気自動車やガソリン等を燃料にしたエンジンを搭載した自動車が発明されたことにより、馬車は陸上交通機関の主役の座を奪われ、急速に衰退していった。

































馬車の現在

移動手段としてはほとんど用いられず、ロバのパン屋などのような商業宣伝や観光地または、儀式や行事などで利用されることが多い。例えば、王皇族の結婚式では馬車によるパレードがよく見られる。また、日本においては各国から来日した特命全権大使等は、信任状捧呈式のための参内に際して、明治生命館前から宮殿南車寄までの大通りを、宮内庁が差遣わす儀装馬車か自動車どちらかに乗って移動する。ほとんどの大使は騎馬の皇宮護衛官や警視庁警察官によって警護されて馬車に乗って移動することを希望している。→信任状捧呈式の際の馬車列(宮内庁HP)

アメリカ合衆国のアーミッシュは教義で自動車は運転できないため馬車を移動手段としている。

中国の農村部など、発展途上にある地域では21世紀に入ってもいまだに馬車が荷役に使われていることがある。

様々な馬車

厳密な分類がなされているわけではないが、その形状、用途などによって、馬車には様々な呼称がある。

バギー(Buggy) - 1頭立ての軽装馬車
カブリオレ(Cabriolet) - 1頭立ての2輪幌馬車
キャラバン(Caravan) - 大型の幌馬車
キャリッジ(Carriage) - 2頭または4頭立ての4輪馬車
Cariole - 1頭立ての小型馬車
チャリオット(Chariot) - 古代の2輪戦車、または18世紀の4輪軽馬車
コーチ(Coach) - 4頭立ての4輪大型馬車
クーペ(Coupe) - 2人乗りの4輪箱型馬車
ワゴン(Wagon) - 通常2頭立て以上の4輪荷馬車
カート(Cart) - 1頭立ての2輪荷馬車
コネストーガ幌馬車 - 18世紀後半~19世紀に北米で使用された、河川の横断なども考慮された幌馬車

バギー、カブリオレ、クーペ、ワゴンなど、自動車の分類に引き継がれた呼称もある。

★伊香保温泉への道すがら★馬車

2012年08月25日 | ★旅行★国内
伊香保温泉への道すがら「伊香保グリーン牧場」に立ち寄りました。

馬車

馬車とは馬や騾馬などの後に車をつけ、人や荷物を運搬する交通の手段である。

馬車がいつ何処で発明されたか明らかではないが、インダス文明の遺跡であるハラッパーからは、轍(わだち)がある道路跡が発掘されている。

紀元前2800~2700年の古代メソポタミアの遺跡から、馬車の粘土模型が発掘されている。この模型は2頭立て2輪の戦車(チャリオット)であった。戦車は古代オリエント世界と古代中国の商(殷の墳墓から戦車と馬の骨が多数出土)から周時代などで広く用いられた。

古代ローマでは戦闘用として戦車が用いられたほか、娯楽として戦車競走が盛んに行われた。現在のローマ市にあるナボーナ広場は当時の戦車競技場の跡地であり、広場全体の形が当時の競技場のまま残されている。映画『ベン・ハー』で描かれた戦車競技が良く知られている。

また、古代ローマの帝政期には、帝国全土にはりめぐらされたローマ街道を用いた郵便馬車制度が整備された。この郵便馬車は4輪であった。ローマ帝国が衰退すると、都市間の道路網の整備が行き届かなくなり、馬車の発展を妨げた。

14世紀のハンガリーでは、紐や鎖で座席を吊り下げた懸架式の馬車が登場し、17世紀にはバネによるサスペンションを備えた馬車が登場した。

1625年、ロンドンに辻馬車が登場。ほどなく、パリにも登場している。辻馬車は、走行時間によって料金が設定されていたが、19世紀にはメーターが導入されたことにより、走行距離によって料金が示されるようになる。このシステムはタクシーに引き継がれた。

1662年、ブレーズ・パスカルはパリで乗合馬車「5ソルの馬車」を創業する。これは現代のバスに相当するもので、世界初の都市における陸上公共交通機関とされる。安価で正確な運行により、好評を博した。

18世紀に入ると、ヨーロッパの主要都市間を結ぶ駅馬車が整備されてくる。例えばパリ-リヨン間の駅馬車であるdiligenceは、夏は5日、冬なら6日で、両都市間を結んだ。

19世紀に馬を動力として鉄道を走る馬車鉄道が発明された。しかし、蒸気機関車が発明されたことから、馬車鉄道は衰退した。蒸気機関車発明後もどこでも自由に移動できる馬車もヨーロッパ社会たとえばイギリス(シャーロック・ホームズ参照)などで盛んに利用された。また日本においても(中世にウシを用いた牛車が存在したものの、その後家畜に車を引かせる習慣はなくなっていた)明治時代(1869年)から東京~横浜間を乗客輸送用として乗合馬車の営業を開始させたのを機に馬車が普及し日本各地で広まり、自動車やバスが普及されるまで存続した。

またアメリカ合衆国では西部開拓が盛んになり、開拓民は幌馬車隊を組んで西部に向け移住していったが、その後、馬車の車体を改造し蒸気機関を搭載した蒸気自動車やガソリン等を燃料にしたエンジンを搭載した自動車が発明されたことにより、馬車は陸上交通機関の主役の座を奪われ、急速に衰退していった。


馬車の現在

移動手段としてはほとんど用いられず、ロバのパン屋などのような商業宣伝や観光地または、儀式や行事などで利用されることが多い。例えば、王皇族の結婚式では馬車によるパレードがよく見られる。また、日本においては各国から来日した特命全権大使等は、信任状捧呈式のための参内に際して、明治生命館前から宮殿南車寄までの大通りを、宮内庁が差遣わす儀装馬車か自動車どちらかに乗って移動する。ほとんどの大使は騎馬の皇宮護衛官や警視庁警察官によって警護されて馬車に乗って移動することを希望している。→信任状捧呈式の際の馬車列(宮内庁HP)

アメリカ合衆国のアーミッシュは教義で自動車は運転できないため馬車を移動手段としている。

中国の農村部など、発展途上にある地域では21世紀に入ってもいまだに馬車が荷役に使われていることがある。

様々な馬車

厳密な分類がなされているわけではないが、その形状、用途などによって、馬車には様々な呼称がある。

バギー(Buggy) - 1頭立ての軽装馬車
カブリオレ(Cabriolet) - 1頭立ての2輪幌馬車
キャラバン(Caravan) - 大型の幌馬車
キャリッジ(Carriage) - 2頭または4頭立ての4輪馬車
Cariole - 1頭立ての小型馬車
チャリオット(Chariot) - 古代の2輪戦車、または18世紀の4輪軽馬車
コーチ(Coach) - 4頭立ての4輪大型馬車
クーペ(Coupe) - 2人乗りの4輪箱型馬車
ワゴン(Wagon) - 通常2頭立て以上の4輪荷馬車
カート(Cart) - 1頭立ての2輪荷馬車
コネストーガ幌馬車 - 18世紀後半~19世紀に北米で使用された、河川の横断なども考慮された幌馬車

バギー、カブリオレ、クーペ、ワゴンなど、自動車の分類に引き継がれた呼称もある。

★伊香保温泉への道すがら★馬車

2012年08月25日 | ★旅行★国内
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馬車

馬車とは馬や騾馬などの後に車をつけ、人や荷物を運搬する交通の手段である。

馬車がいつ何処で発明されたか明らかではないが、インダス文明の遺跡であるハラッパーからは、轍(わだち)がある道路跡が発掘されている。

紀元前2800~2700年の古代メソポタミアの遺跡から、馬車の粘土模型が発掘されている。この模型は2頭立て2輪の戦車(チャリオット)であった。戦車は古代オリエント世界と古代中国の商(殷の墳墓から戦車と馬の骨が多数出土)から周時代などで広く用いられた。

古代ローマでは戦闘用として戦車が用いられたほか、娯楽として戦車競走が盛んに行われた。現在のローマ市にあるナボーナ広場は当時の戦車競技場の跡地であり、広場全体の形が当時の競技場のまま残されている。映画『ベン・ハー』で描かれた戦車競技が良く知られている。

また、古代ローマの帝政期には、帝国全土にはりめぐらされたローマ街道を用いた郵便馬車制度が整備された。この郵便馬車は4輪であった。ローマ帝国が衰退すると、都市間の道路網の整備が行き届かなくなり、馬車の発展を妨げた。

14世紀のハンガリーでは、紐や鎖で座席を吊り下げた懸架式の馬車が登場し、17世紀にはバネによるサスペンションを備えた馬車が登場した。

1625年、ロンドンに辻馬車が登場。ほどなく、パリにも登場している。辻馬車は、走行時間によって料金が設定されていたが、19世紀にはメーターが導入されたことにより、走行距離によって料金が示されるようになる。このシステムはタクシーに引き継がれた。

1662年、ブレーズ・パスカルはパリで乗合馬車「5ソルの馬車」を創業する。これは現代のバスに相当するもので、世界初の都市における陸上公共交通機関とされる。安価で正確な運行により、好評を博した。

18世紀に入ると、ヨーロッパの主要都市間を結ぶ駅馬車が整備されてくる。例えばパリ-リヨン間の駅馬車であるdiligenceは、夏は5日、冬なら6日で、両都市間を結んだ。

19世紀に馬を動力として鉄道を走る馬車鉄道が発明された。しかし、蒸気機関車が発明されたことから、馬車鉄道は衰退した。蒸気機関車発明後もどこでも自由に移動できる馬車もヨーロッパ社会たとえばイギリス(シャーロック・ホームズ参照)などで盛んに利用された。また日本においても(中世にウシを用いた牛車が存在したものの、その後家畜に車を引かせる習慣はなくなっていた)明治時代(1869年)から東京~横浜間を乗客輸送用として乗合馬車の営業を開始させたのを機に馬車が普及し日本各地で広まり、自動車やバスが普及されるまで存続した。

またアメリカ合衆国では西部開拓が盛んになり、開拓民は幌馬車隊を組んで西部に向け移住していったが、その後、馬車の車体を改造し蒸気機関を搭載した蒸気自動車やガソリン等を燃料にしたエンジンを搭載した自動車が発明されたことにより、馬車は陸上交通機関の主役の座を奪われ、急速に衰退していった。


馬車の現在

移動手段としてはほとんど用いられず、ロバのパン屋などのような商業宣伝や観光地または、儀式や行事などで利用されることが多い。例えば、王皇族の結婚式では馬車によるパレードがよく見られる。また、日本においては各国から来日した特命全権大使等は、信任状捧呈式のための参内に際して、明治生命館前から宮殿南車寄までの大通りを、宮内庁が差遣わす儀装馬車か自動車どちらかに乗って移動する。ほとんどの大使は騎馬の皇宮護衛官や警視庁警察官によって警護されて馬車に乗って移動することを希望している。→信任状捧呈式の際の馬車列(宮内庁HP)

アメリカ合衆国のアーミッシュは教義で自動車は運転できないため馬車を移動手段としている。

中国の農村部など、発展途上にある地域では21世紀に入ってもいまだに馬車が荷役に使われていることがある。

様々な馬車

厳密な分類がなされているわけではないが、その形状、用途などによって、馬車には様々な呼称がある。

バギー(Buggy) - 1頭立ての軽装馬車
カブリオレ(Cabriolet) - 1頭立ての2輪幌馬車
キャラバン(Caravan) - 大型の幌馬車
キャリッジ(Carriage) - 2頭または4頭立ての4輪馬車
Cariole - 1頭立ての小型馬車
チャリオット(Chariot) - 古代の2輪戦車、または18世紀の4輪軽馬車
コーチ(Coach) - 4頭立ての4輪大型馬車
クーペ(Coupe) - 2人乗りの4輪箱型馬車
ワゴン(Wagon) - 通常2頭立て以上の4輪荷馬車
カート(Cart) - 1頭立ての2輪荷馬車
コネストーガ幌馬車 - 18世紀後半~19世紀に北米で使用された、河川の横断なども考慮された幌馬車

バギー、カブリオレ、クーペ、ワゴンなど、自動車の分類に引き継がれた呼称もある。

★伊香保温泉への道すがら★バーベキュー

2012年08月24日 | ★旅行★国内
バーベキューとは、薪、炭、ガスなどの直火によって肉や野菜、魚貝類などを焼く料理、もしくはその調理法や行為を指す。

語源は「丸焼き」を意味するスペイン語のbarbacoa。英語圏ではBBQ(cueがQに置き換わる)やB.B.Q.、Bar-B-Cue、Bar-B-Qと略されることがある。

バーベキューとは、豚や牛のリブや牛のブリスケットなどの柔らかくない肉を、蓋を閉めるなどして115℃程度の比較的低温で数時間から1日かけ蒸し焼きにし、骨から簡単にとれるほど柔らかくなるまで調理した物をいう。南部で豚を長時間かけ丸焼きにして食べる習慣から始まった。

この時、家族だけで食べきれずに野外に多くの人が集まって飲食をともにしたことが、野外での調理、飲食をバーベキューとよぶようになった由来である。

調理時には煙や匂いが大量に出るため、専用の設備や換気煙突などがない場合はたいてい野外で行なわれる。自宅の庭、ベランダやバルコニー以外に、キャンプ場や海岸、川辺、公園などで行うのが一般的で、またそういった調理と食事を野外で楽しむ行事自体もバーベキューと呼ばれる。

アメリカでは年間数百ものバーベキューコンテストがある。調理には時間がかかるので、開催期間は2日間も催される。自宅の庭や、河川の傍やキャンプ場の付近などのレジャーへの外出先で調理を行うことが多い。

バーベキューを料理する人物のことを「ピットマスター」と言う。























バーベキューにはいくつかのタイプがある。
直火焼き

網焼き
間接焼き

食材に火を直接あてない
燻製

煙を出す木材を(場合によっては併用して)燃やす
ロースト

あぶって焼く
遠火焼き

川魚など、赤外線によって焼く

調理器具

器具としては、火格子式のグリルや焼き網など、火(熱気)が素通りするタイプと、鉄板式に大別され、食材を固定するものとして金串などがある。

バーベキュー専門店や個人でも、オリジナルの道具にこだわる人がいる。それらの人は、普通のグリルではなく、金属製グリルやレンガなどで作られたバーベキュー・ピットという竈(かまど)や暖炉に近い造りの物を使う。ドラム缶を加工する場合や、海外ではマンホール用の金属蓋を利用する場合もある。また珪藻土製の角形七輪も増えている。

卓上式のグリルに多いが、底面の断熱用に、コンロに水張りするタイプの方が、水蒸気の作用で、油の多い豚バラや鶏皮、サバやサンマなどの青魚を焼いても炎が上がりにくい。また、焼き上がりにこびり付きや、焦げ付きが少なく、野菜などは特にふっくらと美味であり、また器具自体の汚れも少ない。

バーベキュー後のバーベキューグリルは油汚れや炭の汚れがべっとりと付いていることが多いが、バーベキューの準備段階でグリルの火口を覆うように「BBQお掃除楽ちんシート」といった商品名の厚手のアルミホイルを油汚れが及びそうなところへ敷き詰めれば、汚れはホイルに付着してグリル本体へはほとんど及ばないので、掃除はホイルを剥がすだけで楽でありグリル本体も長持ちする。また焼き網やグリル本体などにバーベキュー前に酢を塗っておくと、食材のタンパク質と熱した金属との間に熱凝着が起こりにくく、比較的掃除が楽である。

なお、自然の中でのバーベキューは、焚き火で地面を傷めたりしないよう適切な調理器具を使うこと、また、器具の汚れを地面や水(河川や湖沼)に流すことなくゴミを持ち帰るなど、環境に配慮することが望まれている(ゴミの持ち帰り、直火の禁止)。大阪の公園や神奈川の川においては、ゴミの投棄・カラオケの騒音・喧嘩・アルコール中毒など問題・事件が発生している。

燃料

燃料は薪、木炭、あるいはバーベキュー専用の固形燃料が主流である。炭の中にヒッコリーやオークなど樹木チップを混ぜ、燻煙を出すことにより燻製風味を付ける手法もある。
日本国内産の黒炭は、不快な煙臭や爆跳も少なく、じっくりとした火力が持続し、焼き上がりに薫製のような風味もかすかにあり、バーベキューに向いている。外国産より多少高価だが、品質が安定しておりバーベキューに適している。なお、保存管理が良くなかった黒炭ほど燃焼初期には爆跳の危険性があるため注意が必要である。

「ラウンドストーブ」といった商品名で販売されている小型の加工ヤシガラ炭は、着火後1分〜数分で調理可能であり1時間ほどで燃焼が終わるため、小規模のバーベキューパーティーの際、使い勝手が良い。また、これを火種として通常の木炭の着火材としても好都合である。
備長炭をはじめとした白炭は、より上質な焼きもの料理が可能であるが、着火が難しく、調理が開始出来るまでの燃焼温度への到達に時間を要し、熾き火に至るまでは爆跳の危険性があり、さらに高価なため、バーベキュー用途には一般的ではない。

オガ炭は白炭系の木炭と似た燃焼の性質を示し、不快な燻煙や、危険な爆跳はほとんど発生せず、また比較的安価であり、近年ホームセンターの店頭やインターネット通販でも扱いが広まっている。しかし白炭同様に火熾ししにくく、一方で火が熾ると4時間ほど燃焼し続ける場合もある為、短時間のバーベキューの場合は消火等での注意が必要である。逆に、バーベキューパーティーが長時間に及ぶ場合は炭を継ぎ足す必要もなく調理可能な火力が持続するため、オガ炭はバーベキュー燃料として好都合な存在である。
欧米産のバーベキュー炭は、日本の炭とは異なり、炭焼き時に木酢液を抜く工程がないため、木酢成分が多く残っており、熾き火になるまで、かなりきつい燻煙がでる。

バーベキュー用と称し大量に流通している格安のマングローブ炭や東南アジア産黒炭などは煙臭や爆跳が酷く、燃焼時に木酢液のような異臭を伴い、食味や口内に違和感や嘔吐感、頭痛を伴わせ、場合によっては数週間もそれが続くこともある[2]。また再生紙で覆い固めた木炭粉のバーベキュー用ブロックなども低質炭が多い。食品用ではなく建築用の木材を使用した安価なものには、燃焼時に有毒ガスを発生させるものもある。

木炭を着火するのはコツが必要であるが、ジェル状着火剤など着火を安易にする商品が木炭に添付されていたり、販売されている。イワタニなどからは木炭着火専用のカセットガスボンベ式トーチバーナーが発売されている。また、火熾し器である「チャコールスターター」を使うと火熾しが安易である。いずれにしても木炭で調理が行なえるようになるのは着火後10〜20分、場合によっては1時間ほど必要で、それを見越したスケジュールが必要となってくる。

味付け

肉類の味付けとして用いられるソースはバーベキューソース(BBQソース)と呼ばれ、トマトケチャップ、ウスターソース、果汁類、ニンニクやショウガなどの様々な材料を混ぜ合わせて作られる。市販のバーベキューソースが多数売られているが、自前のレシピでソースを工夫するところからバーベキューの楽しみは始まっているとして、自作にこだわる者も多い。 

日本でいわゆる「バーベキュー」と称される野外での焼肉風グリルでは、醤油主体のソースや市販の焼肉のたれなどが使われることが多い。

近年はバーベキューグリルに載せる岩塩のプレートも販売されている。塩化ナトリウムは融点が摂氏800.4度なので、このプレートを焼き台として上に肉などを載せて、岩塩の天然の塩味を付けつつ焼きあげる事ができる。

★伊香保温泉への道すがら★香保グリーン牧場

2012年08月23日 | ★旅行★国内
伊香保温泉への道すがら、伊香保グリーン牧場へ立ち寄りました。

グリーン牧場は、明治時代から100年以上にわたって森を大切に育てつづける日本土地山林株式会社の観光事業として、1970年にスタートした所です。

グリーン牧場のコンセプトは、「自然、人、文化とのふれあい」。榛名山麓の緑あふれる自然の中で、動物たちとふれあう。自然と共存する、循環型牧場の仕組みを学び、エコを体験、グリーン牧場は、いつもと違ういろいろな世界をいっぺんに体験できる、未来型の観光牧場です。

シープドッグショー

本場ニュージーランド仕込みのダイナミックなショー。自由に遊ぶたくさんの羊たちを、訓練された牧羊犬が羊飼いのホイッスルを合図に迎えに行きます。牧羊犬の、吠えて、走って、羊たちをまとめる指示行動。目の前に広がる大斜面から駆け降りる羊たちの大群。スケール大で大満足!
後半は4~5頭の羊たちを障害物突破させるシープドッグトライアル。思い通りに羊たちを操る牧羊犬の賢さに感心。
会場を取り囲むロケーションの良さも必見です!

ニュージーランドハンタウェイ(写真6)
たくさんの羊たちをまとめるのに適した牧羊犬。ワンワン吠えたてながら、遠くにいる羊も素早く上手にまとめていきます。

ストロングアイヘディングドッグ(写真7)
1か所にまとめた羊たちを柵に中に導き入れたり、4、5頭の羊を使って行うシープドッグトライアルが上手。狭い場所で吠えると、羊が動転して走ったり暴れたりするから、じっと眼で威嚇しながら羊をコントロールします。

























★榛名湖★国内・旅シリーズ

2012年08月22日 | ★旅行★国内



榛名湖(はるなこ)は、群馬県西部、高崎市榛名山山頂に位置する湖。古名、伊香保沼。

夏季は湖畔がキャンプ場になり、またバスフィッシングのメッカとまで言われている。湖上は遊覧船が就航し、貸しボート、また、スワンボートなどで楽しめる。

湖畔は高峰三枝子唄の「湖畔の宿」のモデルになったこと、及び伊香保温泉から近いことから避暑地としては人気があり、テニスコートやキャンプ場、トテ車による湖畔の遊覧、ロープウェイによる榛名富士参りなどの行楽がある。周辺にはユウスゲ群生地があり、夏には美しい花を咲かせる。

冬季は結氷しワカサギ釣りやスケートなどが楽しめる。榛名の名称は、ワカサギを意味する春の肴(春菜)からといわれている。

なお湖底は背丈の高い藻や水草が中央部まで生い茂っており、これが足にからみつくために地元の人は決して水中に入らない。「榛名湖で溺れたら絶対助からない」と噂される。










































★竹久夢二のアトリエ★榛名湖畔

2012年08月21日 | ★旅行★国内
湖畔の宿記念公園の一角に復元された竹久夢二のアトリエがあります。

外観はいつでも見学出来ますが、9:00~16:00の間は建物の中も見学できます。

内部には竹久夢二の略年表や紹介文、夢二の絵(レプリカ)や榛名湖の写真などが展示されています。

場所 群馬県群馬郡榛名町榛名山847
●1階アトリエ ●2階 和室・厨房






























竹久夢二(1884~1934)は、明治17年(1884年)岡山県邑久郡本庄村(現在の邑久町)に生まれ、その豊かな才能を詩や絵画などの分野に発揮し、明治末期から昭和初期にかけて「大正ロマンの夢二」として多くの人に愛好されました。

晩年榛名湖の風光にひかれ、昭和5年(1930年)地域に根ざした美術工芸品を創作することにより産業の振興を図ろうと、「榛名山美術研究所」設立構想を発表し、榛名湖畔にアトリエ(山荘)を建設しました。

この建物は、当時夢二が建設したアトリエ(山荘)を現存する資料を基に復元したものです。

竹下夢二

榛名山美術研究所建設につき

 あらゆる事物が破壊の時期にありながら、未だ建設のプランは誰からも示されていない。吾々はもはや現代の権力闘争および政治的施設を信用し、待望してはいられない。しかも吾々は生活せねばならない。
快適な生活のためには、各々が最単位の自己の生活から立ててゆかねばならない。まず、衣食住から手をつけるとする。そういう吾々の生活條綱を充たしてくれるために、今の所僅かに山間が残されていた。幸い榛名山上に吾々のため若干の土地が與えられた。美術研究所をそこに建てる所以である。

 吾々は地理的に手近な材料から生活に即した仕事から始めようと思う。吾々は日常生活の必要と感覚は、吾々に絵画、木工、陶工、染色等々の製作を促すであろう。同様の必要と感興をもつ隣人のために、最低労銀と材料費で製作品を別つ頒つことができる。或いは製作品と素材とを物々交換する便利もあろう。

 そこで、商業主義が作る所の流行品と大量生産の粗悪品の送荷を断る。また市場の移り気な顧客を強いて求めないがゆえに、吾々は自己の感覚に忠実であることも出来る。

 こういう心構えから、生活と共にある新鮮な素朴な日用品を作る希望をもつ隣人のために研究所を開放する。

 吾々の教師はあくまで自然である。しかし吾々は既成品を模倣するためでなくに、人が自然から学んだ体験をきくために、時に講演会、講習会を開く。また吾等の製作品を人々に示すために、時に展覧会を開く。

 榛名山美術研究所を設ける所以である。

   1930年5月

榛名山美術研究所 竹久夢二

 昭和6年5月、夢二渡米。

 昭和7年9月、「早く榛名に帰りたい」望郷の念にかられ「青山河」を描いてジャーナリスト坂井氏に送り、夢二は欧州に立つ。

 昭和8年、夢二帰国。

 昭和10年9月、富士見高原療養所で50歳の生涯を閉じ、雑司ケ谷墓地に埋葬される。

文・出典:「私の旅日記」http://members.jcom.home.ne.jp/urawa328/kohan04.htmlから転載。

★伊香保の石段 ★旅シリーズ

2012年08月19日 | ★旅行★国内
急傾斜地に作られた石段の両側に、温泉旅館、みやげ物屋、遊技場(射的・弓道)、飲食店などが軒を連ねている。365段の石段は温泉街のシンボルであり、この界隈は石段街と呼ばれる。石段の下には黄金の湯の源泉が流れ、小間口と呼ばれる引湯口から各旅館に分湯されている。石段の上には伊香保神社が存在する。

石段上の源泉周りは整備されており、源泉が湧出する様子を見ることができる。また石段から源泉までの遊歩道の途中に飲泉所も存在する。源泉の傍には「伊香保露天風呂」が、石段の途中には共同浴場「石段の湯」が存在する。

温泉街と近くの物聞山にある上ノ山公園を結ぶロープウェイ(伊香保ロープウェイ)が存在する。

温泉街の周辺には榛名山や、水沢うどんで有名な水沢観音などが存在する。