旅行、飲食、草花、イベント、乗り物、出来事など。

日々の生活の中から様々な物を写真付きで。

平成最後の旅 信玄ミュージアム

2019年05月31日 | 平成最後の旅 信玄ミュージアム

4月5日開館

甲府市の「信玄ミュージアム」私が訪問したのは4月20日です。

2019年(平成31年)4月、甲府市が開館した甲府市武田氏館跡歴史館は、戦国武将武田氏の歴史や文化を学び活用しつつ、新たな賑わい創出の拠点となるよう図っていくことを目的としている。


甲府市武田氏館跡歴史館(こうふしたけだしやかたあとれきしかん)

山梨県甲府市にある公立博物館である。

敷地は信虎・信玄・勝頼の武田氏三代が居住したゆかりの地である史跡・武田氏館跡(現・武田神社)南側に近接している。


建物は戦国武将武田三代の歴史、城下町の構造や変遷、発掘調査による出土品(約200点)で明らかになった歴史資料など、戦国時代の歴史や文化を中心に展示・紹介する特別展示室。
 

武田氏三代を始めとする、武田氏館跡に関連した人物の移り変わり、戦国時代に栄えた甲府盆地の様子などを展示・紹介する常設展示室で構成されている。


そのほか、昭和初期に建てられた近代和風建築の「旧堀田家住宅」がある、建具やガラスなどは当時のまま保存されている。



1933年(昭和8年)に割烹料亭として利用され、「堀田古城園」と名付けられた。


木戸門・主屋・長屋棟・離れ2棟・茶室で構成されており、主屋はガイダンスやミュージアム機能を備えた展示室として、歴史講座やワークショップの開催など、講座や休憩場所として活用されている。 


2019年(平成31年/令和元年)は、信虎が1519年(永正16年)に甲府に館を移して500年(川田館から躑躅ヶ崎に甲斐国統治の拠点を遷した)になることから、市では、信玄ミュージアムを「開府500年記念事業」と位置づけている。



甲府盆地内の観光地で、県内外を問わずの観光客が一番訪れるのが武田神社(平成29年259万人)であることから、さらに新たな歴史資源、観光資源が設けれたことで、また新たな拠点がつくり出されたことになる。




常設展示室
武田氏三代をはじめ、館跡に関わった人々の紹介や移り変わり等、信玄ミュージアムの見どころをパネルを展示し、わかりやすく理解していただけるように解説しています。











平成最後の旅 武田神社5

2019年05月30日 | 平成最後の旅 武田神社5神楽殿
神楽殿
神楽は、日本の神道の神事において神に奉納するため奏される歌舞。
 

神社の祭礼などで見受けられ、まれに寺院でも行われる。平安中期に様式が完成したとされ、約90首の神楽歌が存在する。
 
 
 
神楽は、神社に「神楽殿」がある場合、そこで行われる事が多い。
一般に、「かぐら」の語源は「神座」(かむくら・かみくら)が転じたとされる。
 
 
神座は「神の宿るところ」「招魂・鎮魂を行う場所」を意味し、神座に神々を降ろし、巫・巫女が人々の穢れを祓ったり、神懸かりして人々と交流するなど神人一体の宴の場であり、そこでの歌舞が神楽と呼ばれるようになったとされる。
 
古事記・日本書紀の岩戸隠れの段でアメノウズメが神懸りして舞った舞いが神楽の起源とされる。アメノウズメの子孫とされる猿女君が宮中で鎮魂の儀に関わるため、本来神楽は招魂・鎮魂・魂振に伴う神遊びだったとも考えられる。
 
神楽は、宮中の御神楽(みかぐら)と、民間の里神楽(さとかぐら)に分けられる。また幾つかの神社では、近代に作られた神楽も行われている。
 
 
 
 
 
榎天神
榎天神についてどこにも詳しい説明がないので詳しくはわかりませんが、榎(えのき)は縁の木とも呼ばれ、縁結びの御利益があるとされます。
 
 
 
 
青崖紅葉セイガイ モミジ)
もみじ「青崖(せいがい)」は別名「赤地錦」、「青海波」、「青玄」、「静涯」。
 
イロハモミジ系の端正な葉形で、芽吹き時の葉色は明るい赤色で、葉脈付近は黄色を帯びる。開葉すると葉脈を中心に中折れし、葉色は葉脈付近からだんだんと緑色に変わる。秋には赤褐色に紅葉する。
 
4月の初旬に明るい紅色の新芽となり秋にも紅葉する。夏の葉は緑色  樹性は強健  新芽は特に美しい
 
 
 
 
 
武田神社の狛犬
台座には「奉献 吉田義輝 昭和13年1月吉日 」とあります。

奉納者の吉田義輝は昭和15年から富国徴兵保険相互会社(富国生命)の二代目の社長になった人です。因みに初代は山梨市で生まれた根津嘉一郎で、東部鉄道の社長としても知られ、鉄道王とも呼ばれた人物です。
 
 
 
 
神社前の商店

平成最後の旅 名水姫の井戸

2019年05月29日 | 平成最後の旅 名水姫の井戸
名水姫の井戸


館跡にはいくつかの古井戸が残っていますが、中でもこの「姫の井戸」は生活の中心になる場所にあり、信玄公ご息女誕生の際、産湯に使用された事からこのように名付けられました。
 
 
 
一名を「茶の湯の井戸」ともいい、この井戸から発掘された茶釜などの品が宝物館に展示されており、当時の生活を知る貴重な手がかりとなっています。
 
 
この茶釜は京よりの賓客をもてなす茶会に使用され、館内で日常に茶をたてる際にも、この井戸の水を使用していました。
 
 
元来、お茶は薬用として我が国にもたらされた事もあり、この水そのものにも延命長寿、万病退散のご利益があるとされています。
 
 
↑ 井戸の周りにはシャガが咲いています。 ↓
 
 
シャガ(射干、著莪、胡蝶花)
アヤメ科アヤメ属の多年草である。
人家近くの森林周辺の木陰などの、やや湿ったところに群生する。
 
 
開花期は4 - 5月ごろで、白っぽい紫のアヤメに似た花をつける。花弁に濃い紫と黄色の模様がある。
根茎は短く横に這い、群落を形成する。草丈は高さは50 - 60 センチ・メートル程度までになり、葉はつやのある緑色、左右から扁平になっている。
 
 
いわゆる単面葉であるが、この種の場合、株の根本から左右どちらかに傾いて伸びて、葉の片面だけを上に向け、その面が表面のような様子になり、二次的に裏表が生じている。
 
 
いつでもご自由に「お水取り」が出来ます。
 
 
 
「武田水琴窟」の「水琴窟」とは、瓶の底に小さな穴を空けたものを土に埋め、わずかな水を流すことによってその水滴が瓶中で反響し、琴のような音を出す仕組みをいいます。
 
 
 
横にある竹に耳を付けると琴のような涼やかな音が広がり、心が清らかになるのを感じることが出来ます。
 
武田水琴窟は「姫の井戸」のすぐ近くにあります。
 
 
 
此処に居ると鶏とアヒルの鳴き声が聞こえるのでそちらへ移動すると烏骨鶏がいた。
 
 
 
烏骨鶏(うこっけい)
ニワトリの品種名である。烏骨(黒い骨)という名が示す通り、皮膚、内臓、骨に到るまで黒色である。羽毛は白と黒がある。成鳥でもヒヨコ同様に綿毛になっている。

足の指が、普通のニワトリと同じ前向き3本に加え、後ろ向きの指が普通のニワトリの1本に対し2本(3本)あり、計5本(6本)あるのも大きな特徴である。
 
 
一般的な鳥類は指の数が4本であり、5本(以上)ある種類は本種のみである。
一般的なニワトリのみならず、鳥類全般から見ても特異な外見的特徴から、中国では霊鳥として扱われ、不老不死の食材と呼ばれた歴史がある。
 
実際、栄養学的に優れた組成を持ちまた美味であるため、現在でも一般的な鶏肉と比較して高価格で取引されている。
 
また、卵も同様の理由により非常に人気が高く、産卵数も週に1個程度と少ないことから、一般的な鶏卵と比較して非常に高価であり、日本では1個500円前後が相場である。
 

商用として飼育するほかにも愛玩用として家庭で飼育される事もある。コンテストなども開かれている。手入れ次第では鶏とは思えないほど非常に綺麗な毛並みとなる。
 
マルコ=ポーロ著「東方見聞録」にもウコッケイに関する記述が見られる。

7月21日は烏骨鶏の日である。
岐阜県の企業である烏骨鶏本舗、デリカスイト、香川県の松本ファーム、東かがわ烏骨鶏ファームの4社が申請、制定された。
 
 
1942年7月21日に烏骨鶏が国の天然記念物に指定されたことが由来。 また、日本にやってきたのは江戸時代である。 性格は非常に大人しく、寿命は10〜15年である。

火曜日のランチ。

2019年05月28日 | グルメ・ランチ冷麦
 
冷麦

昨日(火曜日)は老妻の水泳教室で私のランチは外食となります。
ここ数日、夏日や真夏日が続き食欲減退気味になっていましたのでサッパリしたものをと日本蕎麦屋へ。
 
 
↑ 直ぐ出来るものと言えば冷奴で先ずはビールで喉を潤す ↓
 
 
↑ 東京2020オリンピック・パラリンピック競技大会ゴールドパートナー ↓
 
 
↑ シンプル美味な、わかめだけの酢の物(ビールのお通し) ↓
 
 
 
冷奴(ひややっこ)
豆腐を使った料理の一つ。奴豆腐(やっこどうふ)、略してやっこともいう。
 
 
主に、酒の肴や夏向きの料理として食べられる。冷やした豆腐(絹ごし豆腐、木綿豆腐の双方が使用される)の上に薬味を載せたり、調味料を使用して食べる日本の料理である。
 
豆腐は数センチメートル角か、あるいは近年は一人分の大きさの直方体に切る。
薬味や調味料は様々なものが使用され、薬味は刻みネギ、削り節、おろしショウガ、ミョウガ、青じそのみじん切り、ダイコンおろし他、調味料は濃口醤油、唐辛子味噌、その他のタレなどである。
 
また、オクラ、納豆などを載せて食べる事もある。
 
 
 
板わさ(いたわさ)
日本の料理の一つで、蒲鉾を薄く切ってワサビと醤油を添えたもの。
 
 
 
刺身と同じように、蒲鉾にワサビと醤油を付けて食べる。名称は「板蒲鉾」と「ワサビ」に由来する。
蒲鉾を一番手軽に、かつシンプルに味わうことができる料理とされ、シンプルゆえに素材の味を堪能できる奥深い魅力を持つ。
 
 
 
 
ただし、醤油をつけないほうが蒲鉾本来の味を楽しめるという意見もある。
酒の肴、特に蕎麦屋での肴としてもお馴染みで、店によっては飾り切りがされていたり、ワサビや蒲鉾の質が異なるなど、ささやかながら特色がある。
 
 
江戸風の流儀にこだわって一品メニューを排除し、この板わさなどの数品のみ用意している蕎麦屋もある。
 
 
ひやむぎ(冷や麦、冷麦)とは、
小麦粉から作った麺の一種である。日本で食され、主に乾麺で流通する。
 
 
冷やして食することが多く、清涼感を求めて夏の麺料理として一般的である。
「冷麦」の語の由来はうどんの旧称「熱麦」に対する語であるとされる。後述のように現在は日本農林規格で太さにより素麺(そうめん)などと分類される。
 
 
 
 
食べ方
素麺と同様であり、ゆでて氷水や流水で冷し、ぬめりを取るためもみ洗いをしたのち、めんつゆにつけて食べるのが一般的である。
 
 
ゆでる水には塩を入れない。これは麺に含まれる塩分を出すためである。
細い麺であり他の味が移りやすいため、出来るだけ良い水で洗い、手油を避ける必要がある。
 
 
 
 
めんつゆは醤油、ダシ、砂糖などからなる甘辛いもので(市販品の「そばつゆ」と「そうめん・ひやむぎつゆ」を比較した場合、一般にそうめん・ひやむぎつゆの方が甘味が強く調製されている場合が多い)、食べる前日に作るのがよいとされる。
 
 
ごまだれをめんつゆに入れたりつけ汁として用いるケースもある。
付け合わせには、煮込んだシイタケや錦糸卵等をつける場合もある。
 
 
 
 
 
薬味としては、刻み葱、おろし生姜、胡麻、ミョウガなどが用いられる。他に素麺と同様の食べ方が可能である。
 

平成最後の旅 武田神社3

2019年05月27日 | 平成最後の旅 武田神社3
命名(めいめい)&キラキラネーム

 
人名の命名 現在(日本)
日本では名は戸籍法上の出生の届出によって定められることになる。名に用いることのできる文字は「常用平易な文字」に限られてお、その範囲は法務省令により常用漢字(2136字)、人名用漢字(862字)、片仮名又は平仮名(変体仮名を除く)と定められている(戸籍法施行規則60条)。
 
 
名前に用いることのできる文字には制限があるものの、その読み方には制限はない。漢字の場合、通常の音読みや訓読み(常訓)以外に名乗りと呼ばれる人名にのみ用いられる漢字の伝統的な読み方が用いられることもある。
 
 
例えば「真」の字は、通常、音読みでは「シン」、訓読みでは「ま」あるいは「まこと」の読みしかないが、伝統的な名乗りでは「ただし」や「さね」などの読みでも用いられる(例として菅原道真)。
 
 
さらに、伝統的な名乗りからも離れた読み方が人名に用いられることもある。なお、人名の文字数に制限はない。
 
 
命名された名は命名紙などに清書されて神棚や床の間などに飾られることもある。また、命名軸として掛軸にしたり、命名額として額装して飾られることもある。
 
出産後の贈答品(内祝の品など)に命名紙が添えられることもある。
 
 
 
 
 
 
 
 
キラキラネーム
一般常識から著しく外れているとされる珍しい名前(本名)に対する表現。
 
一般的には、悪魔など名前としては悪意のある単語の名前のことを言う。類似のインターネットスラングにDQN(ドキュン)ネームがある。
 
 
「DQN」とは、軽率そうな者や実際にそうである者、粗暴そうな風貌をしている者や実際に粗暴な者かつ、非常識で知識や知能が乏しい者を指すときに用いる。
 
2010年の調査では、一般的なインターネットスラングであるとみなされている。1994年から2002年までテレビ朝日で放送されていた番組『目撃!ドキュン』が由来とされる。
 
 
目撃ドキュンの内容は、離婚などで生き別れの親子が対面などというものであった。そのため「15歳で結婚して子供が生まれて、20歳になったら離婚して、40歳になったら目撃ドキュンにでている人たち」という意味でDQNと2ちゃんねるを中心に呼ぶようになった。
 
中傷表現が許されないメディアなどでは「キラキラネーム」が好まれるものの、揶揄・侮辱の文脈で用いられがちである点は共通している。
 
 
『キラキラネームの大研究』著者で文筆家の伊東ひとみによると、「キラキラネーム」と呼ばれる名前が出始めたのは1990年代半ば(1995年)ごろからで、2000年代には急激に増加した。
 
常識的に考えがたい名前や、名乗りにない読みをする名前、カタカナ名に音を当てはめたような当て字の多い名前の一部に対し、2000年代に、日本語のインターネットスラングや蔑称・誹謗中傷の一つ
 
 
DQN
ドキュンの派生語として「DQNネーム」という表記がインターネット上で流行した。
 
2010年代に入ると、DQNネームに代わる類似の用語として「キラキラネーム」が用いられ始めた。一説にはベネッセコーポレーション発行の育児雑誌『たまごクラブ』『ひよこクラブ』およびその増刊号の『名づけ特集』の影響もあるといわれる。
 
 
キラキラネームとされる名前には一定の言語的特徴があるとする議論もある一方、京都大学人文科学研究所附属東アジア人文情報学研究センターの安岡孝一は、この論文には不備があると述べている。
 
とはいえ、インターネットなどで流布した珍しい名前には、多くの人が想像だけで言っているものも含まれており、すべてが実在するとは限らない。一部の命名研究家はDQNドキュン
 
 
ネーム・キラキラネームともに中立的な立場に立った名称ではないとして、「珍奇ネーム」という用語を用いている。
 
「DQNネーム」と同様の表現として、評論家の呉智英が命名した「暴走万葉仮名」も存在する。
 

吉田兼好の随筆『徒然草』第百十六段[13]や落語の『寿限無』、本居宣長の随筆『玉勝間』第十四巻にも見られるように、子供に珍しい名前がつけられる現象は鎌倉時代(またはそれ以前)から存在し、名前にかかわる常識・トレンドも時代とともに変化してきた。
 
 
たとえば21世紀には古風な名前の代表とされる女性名の「◯子」について言えば、小野妹子や蘇我馬子など位の高い男性君子や貴族の名前であった時代がある。
 
その後、北条政子のように高貴な女性の名前として使われるようになったが、江戸時代の宗門人別改帳によれば当時の大多数の百姓・町民女性の名前はひらがな二文字(「たね」「きく」「みえ」「くに」「かつ」「はな」「ふみ」など)であり、漢字名ですらなかった(ただし漢字二文字の珍しい名前も中には存在した)。
 
こうした歴史から分かるように、一般女性の名前としての「○子」は、珍しい新鮮な名前、現代でいうキラキラネームとして明治以降に登場し、昭和期までに一般化したものである。
 
また、どんな名前や読みが「キラキラ」「シワシワ」なのかは各個人の主観によるため、人によって定義は異なる。
 
このほか、人間でなくペットとして飼育する犬などに対して、一見しただけでは読みが難しい名前をつけること(「空如亜」と書いて「アショア」と読むなど)が、「キラキラネーム」と呼ばれることもある。
 
林修は、キラキラネームについて「漢字本来の読み方を無視した、読み方の想像ができない名前は固有名詞としての役割を果たしていない」と指摘し、キラキラネームと学力の低さはある程度相関性があると主張しているが、個人的主観であり統計的に優位とはいえない。
 
なお「DQNドキュン」が侮辱や誹謗中傷に該当すると認めた判例がすでにある。人の名前を「DQNネーム」と呼んで侮辱・誹謗する行為がなされた場合、発信者情報の開示や、民法上の不法行為や刑法上の侮辱罪や名誉毀損罪などが問われうる。
 

平成最後の旅 武田神社2

2019年05月27日 | 平成最後の旅 武田神社2
躑躅ヶ崎館



戦国時代の永正16年(1519年)に甲斐守護・武田信虎により居館(躑躅ヶ崎館、武田氏館)が築かれ、家臣団が集住して武田城下町が形成された。
 
 

以来信虎・晴信(信玄)・勝頼三代にわたって武田領国の中心地として機能し天正10年(1582年)3月の武田氏滅亡後もしばらくは政治的中心地であった。
 
 
 
↑ 手水舎の形も菱形 ↓

 
↑ 神楽殿 ↓



 
豊臣大名時代には南方の甲府市丸の内に新たに甲府城が築城され、江戸時代にかけても甲斐統治の政治的中心地となったため、武田氏館は破却された。
 
 
 
館の破却時期は不明であるが、『甲斐国志』によれば要害城が慶長5年(1600年)に破却されていることおから、同時期であると考えられている。
 
 
 
 
これにより城下町も南方に移動し、武田城下町は甲府城下町の一部として吸収される。
江戸時代に武田氏館跡は「古城」「御屋形跡」と呼称され、武田氏時代を偲ぶ名所のひとつとして旅行者が訪れる程度であったが、明治期には史跡保存運動が起こる。
 
 
 
明治初期の「機山公霊社」建設運動
1872年(明治5年)6月、明治新政府は地租改正に際して武田時代の遺制とされる大小切税法の廃止を断行し、これに対して峡東地域の諸村が蜂起し、大小切騒動が発生する。
 
 
 
大小切騒動は鎮圧されるが、首謀者の多くは処罰され、山梨県令・藤村紫朗の主導する県政にも影響を及ぼした。
 


初宮参り
初宮参りとは、赤ちゃんが無事に生誕1か月目を迎えたことを産土神に感謝して報告する行事である。初宮詣とも。通常、単に宮参りというと初宮参りのことを指す。
 
 
 
 
大小切騒動の後に山梨県庁は山梨県民の武田信玄への追慕を障害と認識し、明治初年には『峡中新聞』においては信玄を悪人とする論説を掲載することも行っていた。
 
 
このころ全国的にも自由民権運動が興隆し、山梨県でも反藤村県政の動きとして民権運動が発生する。
 
 

平成最後の旅 武田神社

2019年05月25日 | 平成最後の旅 武田神社

武田神社御鎮座100年・こうふ開府500年記念

↑ ちょうちん1000個点灯 武田神社 創建100周年を記念 ↓

四つ割菱
武田氏の家紋は「四つ割菱」である。すなわち「武田菱」として有名なもので、武田氏の専用なので武田菱の名が起こった。
 
武田氏は割菱ほかに「花菱」も用いたが、花菱は裏紋または控え紋として用いたようで、女性などがやさしさを表わすために多用したようだ。
 
この花菱も菱形を花の文様に変化させたもので、武田氏とその一族の家紋は「菱」で代表されている。
 
 
 
「武田菱」のいわれはさまざまに言いならされているが、かなり古くから武田氏は菱紋を用いていたようだ。菱文様自体は正倉院の御物の裂にもあるが、武田氏が古くより菱文様を紋として用いていたとおぼしき証拠が残されている。
 
 
 
 
 
それは塩山市にある菅田神社に伝えられた武田氏重代の「楯無の鎧」で、この鎧は平安時代の作とみられ、これに割菱・花菱ともに付いているのである。
 
 
これをただちに家紋と断定することはできないが、武田家の重宝に付けられていることは重要な意味があり、平安時代から菱文様は武田氏に密着した紋様であったことはうかがわれる。
 
 
これをただちに家紋と断定することはできないが、武田家の重宝に付けられていることは重要な意味があり、平安時代から菱文様は武田氏に密着した紋様であったことはうかがわれる。
 
 
 
武田神社の入り口に左近の桜と右近の橘があります。
 

「右近の橘、左近の桜」とは、京都御所の「紫宸殿」に植えられた橘と桜を指し、宮中警護の左近衛府・右近衛府が橘と桜の近くに配陣していたことが始まりの言葉、と言われています。
 
 
現在でも雛人形を飾る時に一緒に飾られていますが、橘と桜にはそれぞれの意味があります。
 
 
『太宰治の愛でた桜』

太宰がここを訪れたことを示す看板があり、太宰のその『春昼』が引用されている。
『四月十一日。甲府のまちはずれに仮の住居をいとなみ、早く東京へ帰住したく、つとめていても、なかなかままにならず、もう、半年ちかく経ってしまった。けさは上天気ゆえ、家内と妹を連れて、武田神社へ、桜を見に行く。母をも誘ったのであるが、母は、おなかの工合い悪く留守。武田神社は、武田信玄を祭ってあって、毎年、四月十二日に大祭があり、そのころには、ちょうど境内の桜が満開なのである。四月十二日は、信玄が生れた日だとか、死んだ日だとこあ、家内も妹も仔細らしく説明して呉れるのだが、私には、それが怪しく思われる。サクラの満開の日と、生れた日と、こんなにピッタリ合うなんて、なんだか、怪しい。話がうますぎると思う。神主さんの、からくりではないかとさえ、疑いたくなるのである。』
 
1939年1月8日、
太宰治は、石原美知子と結婚。
同日、山梨県甲府市の新居に移りました。
ここに住んだのは、
太宰治が珍しく安定した暮らしをしていた時期でしたが、
9月1日に、東京の三鷹に転居していますので、
わずかの間の住居でした。
 
 
 
 
「右近の橘」の橘は、葉が季節を問わず生い茂っていることから、古来から「非時の香の木実(ときじくのかくのこのみ)」と呼ばれ、「不老長寿」の象徴、若しくは「生命の木」の象徴として珍重されました。
 
 
 
武田神社(たけだじんじゃ)は、山梨県甲府市古府中町にある神社。
躑躅ヶ崎館の跡地(武田氏館跡)に建てられており、武田信玄を祭神とする。旧社格は県社。
 
 
躑躅ヶ崎館と武田城下町
所在する甲府市古府中町は甲府盆地北縁に所在する。
 
 
戦国時代の永正16年(1519年)に甲斐守護・武田信虎により居館(躑躅ヶ崎館、武田氏館)が築かれ、家臣団が集住して武田城下町が形成された。以来信虎・晴信(信玄)・勝頼三代にわたって武田領国の中心地として機能し天正10年(1582年)3月の武田氏滅亡後もしばらくは政治的中心地であった。
 
 
豊臣大名時代には南方の甲府市丸の内に新たに甲府城が築城され、江戸時代にかけても甲斐統治の政治的中心地となったため、武田氏館は破却された。館の破却時期は不明であるが、『甲斐国志』によれば要害城が慶長5年(1600年)に破却されていることおから、同時期であると考えられている。
 
 
これにより城下町も南方に移動し、武田城下町は甲府城下町の一部として吸収される。江戸時代に武田氏館跡は「古城」「御屋形跡」と呼称され、武田氏時代を偲ぶ名所のひとつとして旅行者が訪れる程度であったが、明治期には史跡保存運動が起こる。
 

平成最後の旅 昇仙峡10

2019年05月24日 | 平成最後の旅 昇仙峡10
県営グリーンライン駐車場へ


渓谷は天神森地区の長潭橋から始まるが、途中の能泉地区までの渓谷沿いは車道が狭く、シーズン中の土日祝日は車両通行規制が行われ歩行者専用になる(平日は上り方向の一方通行)。
 
 
その先の能泉地区から仙娥滝の間が渓谷のハイライトで、観光客の多くは駐車場が整備されている仙娥滝付近を中心に訪れる。
 
 
年間を通して多くの観光客で賑わうが、自家用車で観光に訪れる者も多く、紅葉が見られる観光シーズンの11月の土日は、周辺の道路が渋滞するほど賑わう。
 
 
そのため、公共(県営)駐車場もあり、観光施設や土産物店にも駐車場が併設されている。
施設店舗を利用すれば無料のところがほとんど。
 
 
 
 
 
県営駐車場
バスをご利用の方はバス停の「グリーンライン昇仙峡」で降車します。マイカーでお越しの方は市営駐車場に駐車してください。お食事ができるお店もございますので、ここで休憩することもできます。
 
 

「JR中央本線 甲府駅」で下車し、南口バスターミナル4番乗降口から昇仙峡行きのバスに乗ります。
昇仙峡口(30分)590円/天神森(30分)590円/グリーンライン(40分)820円/滝上(60分)900円

路線バスの詳細情報は 山梨交通 TEL : 055-223-0821 でご確認いただけます。
昇仙峡に到着したら循環乗合バスが便利です。
 
 
↑ 巨峰アイスとミックスアイス ↓
 
 
 
 
昇仙峡渓谷オムニバス
TEL:055-251-8899
昇仙峡地域内において、いわゆる「白タク」(無許可営業の「タクシー」)に乗車し、通常のタクシーよりも多額の料金を請求される事案の通報を受けています。
必ず認可を受けている緑ナンバーの乗り物にご乗車ください。
 
 
 
タクシーをご利用いただく場合、甲府駅で乗ることは比較的容易ですが、昇仙峡からタクシーに乗るためにはお電話が必要になります。
 
以下のタクシー情報をご利用ください。
幸タクシー(24時間営業)
フリーダイヤル0120-38-1666 TEL055-233-1666
 
第一交通グループ(24時間営業)
フリーダイヤル0120-62-5757 TEL055-252-5533
目的地に到着したら地図をご確認ください。
携帯電話は電波の届かない恐れがありますので、地図を携帯することをオススメしています。
 

平成最後の旅 昇仙峡9

2019年05月23日 | 平成最後の旅 昇仙峡9
覚円峰(夢の松島)

 
 
 
↑ 金網を飲み込む木 ↓
 
 
 
 
↑ 覚円峰撮影ポイント ↓
 
 
日本一の渓谷美、昇仙峡の主峰『覚円峰』です。
 

その昔、澤庵禅師の弟子僧侶覚円が畳が数畳敷ける広さの頂上で修行したことが、その名に由来します。
 
 
 
 
花崗岩が風化水食をうけてできたもので、急峻で直立約180メートルあります。
 
遊歩道の途中にある「夢の松島」にて、大迫力の覚円峰を見ることができます。
 
 
「お散歩コース」。歩くのはちょっと苦手だけど、名所だけは見ておきたいなんて方にオススメです。
 
 
 
昇仙峡渓谷ホテル
秩父多摩甲斐国立公園特別区昇仙峡の渓流が敷地を流れる5部屋の隠れ家のようなホテル。
 
昇仙峡を歩いた足を花崗岩の湧水を使用したパブリックバスで癒す、そんな「自然大好きな方」向けの施設です。
 
食事は湧水を使用した自家生簀のイワナのお刺身と塩焼き、富士桜ポーク、ワインビーフ、甲州地鳥
 
 
全国観光地百選 
渓谷の部第一位に選ばれました。この素晴らしい渓谷美が甲府駅から車で20分足らずの場所に存在することも驚異です。
 
 
 
 
 
多くの観光客が紅葉を楽しみに川沿いの遊歩道を歩きます。春・夏は新緑を楽しみ、秋は紅葉を愛でながら、冬はウォーキング・ハイキング・ジョギングコースにいかがでしょうか。
 

平成最後の旅 昇仙峡8

2019年05月22日 | 平成最後の旅 昇仙峡8
 
 
 
長田円右衛門(おさだ-えんえもん)
 
 
↑ 長田円右衛門の碑がある東屋 ↓
 
  
1795-1856 江戸時代後期の農民。
寛政7年1月9日生まれ。甲斐(かい)(山梨県)猪狩(いかり)村の人。
 
 
 
名主で叔父の長田勇右衛門とともに荒川渓谷沿いの甲府と猪狩村間の道路(御岳(みたけ)新道)を計画し,村人の協力をえて天保5年着工,14年完成させた。
 
昇仙峡が世に知られることになり,通行人の休み所をもうけ「お助け小屋」とよばれた。安政3年6月9日死去。62歳
 
 
 
昇仙峡の長田円右衛門
『人と旧跡 山梨県歴史の旅』山梨県観光連盟監修 堤義郎氏著
 
 
山梨、長野両県境の金峰山に水源をもつ荒川の流れがつくり出した昇仙峡は、奇岩とそそり立つ峰々が、四キロにわたって渓谷美をくりひろげる。
 
いまは三段に落ちる仙蛾滝の上からロープウエーで、富士や南アルブスを大観できるが、この渓谷が世に知られるまでに長田円右衛門の残した功績は大きい。
 
むかしは昇仙峡を通って甲府盆地の方へ出るにも、足もとをすくう危なっかしい道がうねっていたから、たやすく人を近づけるところでなかった。
 
 
 
それからおよそ五十年後の天保四年、同じ猪狩村の円右衛門と勇右衛門はこの新道の開発を志した。
 
二人は世話人に選ばれたが、協力者はわずか二十二戸でしかなかった。工事をやりかけたら、費用がかかりすぎてたまらないとか、労力の負担が重いとかで、人びとの間にごたごたが起こった。
 
たいして余裕があるでもない円右衛門は、私財をつぎこんで仕事を進めたが、寄進帳を持っで甲府へも下りて行った。
 
 
 
彼の苦労は十数年もの間続けられ、嘉永年間にようやく一応の工事を終わった。それまでは登る人も少なかった昇仙峡は、こうして次第に知れわたるようになったのである。
 
身を切る寒さをおかし、手足をヒビやアカギレで赤くはれあがらせながら、山を切り、谷をつなぐなどした円右衛門は、離れ去った人びとからあざけりの目で見られるときもあったろう。
しかし、彼は黙々と心をいちずに工事をやりぬいた。
 

晩年の円右衛門は仙蛾滝の下にささやかな接待所をつくり、訪れる人たちにワラジなどを売って暮らしていたそうだ。
 
 
 
 
いまも彼が使用した鉄ビンが残されている。昇仙峡には、この一人の老人のたくましい精神が宿っている。
 
 
 
御岳手打ちそば金渓館
明治35年創業
 
 
 
主峰覚円峰を眺めながらの絶景の場所で御岳手打ちそば・ほうとう・岩魚塩焼き・甘味を楽しみながらお食事出来ます。四季折々を目の前で感じられる一番のスポットで創業100年 手打ちそば(そばうち自家製)
 
 
 
渓谷沿い自家用車で入ることのできる最終地点
昇仙峡三大名勝である覚円峰、天狗岩、夢の松島を目の前にして,大自然のマイナスイオンを存分に浴びながらお食事が楽しめる昇仙峡で唯一のロケーションです。
 
 
また、自家用車で入ることができる最終地点であり、仙娥滝まで徒歩約10分の渓谷が楽しめ、観光の拠点としても最適です。
 
 
 
新芽の季節には鮮やかな緑が輝き、夏には心地よい川風と清々しい渓谷美が心を癒してくれます。また、紅葉の名所である昇仙峡の秋は、当店の自慢である樹齢100年以上のいろはもみじが真っ赤に染まりながら皆様をお出迎え致します。
 
 
 
その時々でいくつもの表情をかえる自然の美、その景観を眺めながら自慢の手打ち蕎麦、甲州名物のほうとう、渓流魚の王様岩魚の塩焼きなどをお楽しみ下さい。
 
 
 

平成最後の旅 昇仙峡7

2019年05月21日 | 平成最後の旅 昇仙峡7
石門


巨大な花崗岩に囲まれた石門(天然アーチ)は先端がわずかに離れスリリングな不安定さを満喫できます。
 
 
石門をくぐりさらに上ると仙娥滝まで後少しです。逆に下ると長田円右衛門の碑まで数分でたどり着きます。
 
 
石門は昇仙峡にある花崗岩が組み合わさったトンネルです。すぐに潜り抜けられてしまうほど短いものですが、大きな岩が不安定に積み重なり、崩れそうで崩れないトンネルということで昇仙峡の見どころの一つになっています。
 
 
 
 
石門は、昇仙峡のシンボルの仙娥滝近くにある天然のトンネルです。積み重なっている岩の先端がわずかに離れていて、まるで今にも崩れ落ちそうに見えます。人為的に作ったものではありません。まさに自然の不思議です。
 
 
 
全は確認されていますので、安心して通れます。撮影スポットにもなっていますが、紅葉シーズンなどは混み合いますので要注意です。
 
 
 
 
 
 
桟道(さんどう)
岩場や崖など通行困難な場所に木材や鉄板などで棚状に足場を組んだもの。
 
 
 
 
ヤマブキ(山吹、棣棠)は、バラ科ヤマブキ属(本種のみの一属一種)の落葉低木。黄金色に近い黄色の花をつける。
 
春の季語。
学名はスコットランドの植物学者のウィリアム・カー(英語版)に由来する。
 
 
低山の明るい林の木陰などに群生する。樹木ではあるが、茎は細く、柔らかい。背丈は1mから、せいぜい2m、立ち上がるが、先端はやや傾き、往々にして山腹では麓側に垂れる。
 
地下に茎を横に伸ばし、群生する。葉は鋸歯がはっきりしていて、薄い。
晩春に明るい黄色の花を多数つける。多数の雄蕊と5~8個の離生心皮がある。心皮は熟して分果になる。

北海道から九州まで分布し、国外では中国に産する。古くから親しまれた花で、庭に栽培される。
 
 
花は一重のものと八重のものがあり、特に八重咲き品種が好まれ、よく栽培される。一重のものは花弁は5枚。 
 
似たもの
シロヤマブキもあるが別属である。

日本では岡山県にのみ自生しているが、花木として庭で栽培される事が珍しくない。こちらは花弁は4枚。
 
 
太田道灌と八重山吹の話はよく知られている。普通は八重咲き山吹には実がつかないことを述べた歌とされるが、「七重八重」を山吹が積み重なる様に咲く様子を述べたと解し、ヤマブキの果実が堅くて食えないので、「山ほど花が咲くのに、食える実がつかないのは情けない」とする解釈もあるらしい。
 
山吹色といえば、オレンジ色と黄色の中間色のことである。往々にして小判の色をこれにたとえる。
 

令和初旅 水上温泉

2019年05月21日 | 令和初旅 水上温泉
赤城大沼 バスツアー
 
 
 
 
貸し切りバスで移動しながら観光や食事、ショッピングなどの目的地を訪ねる形式の企画旅行。
 
参加希望者は事前に予約をしたうえで料金を支払う。バスツアーに使われる貸し切りバスは、路線バスや高速バスとは異なる専用車両が用意されることが多い。
 
通常はバスガイドが同乗し、車両は長時間の乗車にも疲れないように座席やその周辺の装備が豪華につくられている。
 
 
↑ 陽気も良くなり行楽地へ ↓
 
 

参加希望者は事前に予約をしたうえで料金を支払う。バスツアーに使われる貸し切りバスは、路線バスや高速バスとは異なる専用車両が用意されることが多い。
通常はバスガイドが同乗し、車両は長時間の乗車にも疲れないように座席やその周辺の装備が豪華につくられている。
 
 
↑ 最初の休憩地上里S/A キッチンカー ↓


 キッチンカーは、ケータリングカーやフードトラック等と呼ばれ、特に食品の調理を目的とした設備を備える車両の一般名称である。
 
特種用途自動車の一種ではあるが、ほとんどの車両には飲食のための客席を車内に備えられていないため道路運送車両法等に定められる食堂車とは必ずしも言えない。
 
一般に食品の移動販売、ケータリングに用いられるが、陸上自衛隊、警察の機動隊等の調理施設を備えた車両も一般にキッチンカーと呼ばれている。
 
 
 
 
 
 

音響や映像、カラオケ、冷蔵庫、トイレなどのさまざまな設備を備えている場合が多い。なお、目的地で使える切符や入場券などを行き帰りの長距離バスとセットにしたパッケージツアーもある。
 
 
↑ 利根川を経て 最初の見学地「日本絹の里」 ↓


日本絹の里
群馬県立日本絹の里は、繭や生糸に関する資料や群馬の絹製品などの展示、絹を使った染織体験などにより、多くの人々が集い、伝統ある群馬県の蚕糸絹業の足跡と天然繊維であるシルクのすばらしさを紹介します。

 
旧下田邸
書院及び庭園は、箕輪城主長野氏の重臣であった下田大膳正勝の子孫が落城後この地に土着し、代官として居を構えた屋敷跡です。かつて3町歩にも及んだとされる広大な敷地にあった建物のうち、江戸時代の書院が残り、庭園とともに貴重な近世の様式を今に伝えています。
 
 
赤城大沼
群馬県の赤城山の山頂カルデラにある火口原湖で、赤城山のカルデラ湖としては最大のもの。
水系としては利根川に属し、湖水は北西の火口瀬から沼尾川として流出、赤城山の西麓を流れ下って直接利根川に注ぐ。
 
 
半島部の小鳥ヶ島には赤城神社が鎮座する。
 

冬期のワカサギ釣りやスキー・スケート地として知られ、1970年代には関東地方のスキー場として多くのレジャー客を集めた。
バスツアーは大人数で参加する団体旅行のようにみられがちであった。しかし個人で参加するような企画旅行が増え、多種多様なバスツアーが用意されるようになっている。
 
 
 ↑ 赤城神社 ↓
 
 
地域のバス会社と観光協会などが連携して独自色を出し、一般の交通手段では行けないような工業地帯や歴史的な墓所を訪ねるバスツアーなどが人気を得ている。
 
また、2011年(平成23)3月の東日本大震災の後には、岩手県や宮城県の被災地へ行き、地元の人の体験談を聞く復興支援バスツアーが企画された。このツアーは参加費の一部が、参加者の訪問した地域へ復興のために寄付される仕組みになっている。
 
 
↑ 大沼湖畔 ↓

 
日本の旅行業法上は「募集型企画旅行」という用語が用いられ、同用語は旅行契約書などで用いられている。
 
旅行業者がパンフレットやインターネットサイトなどで宣伝して旅行者を募集しているので、それを見た一般人が旅行代理店へ行き、説明を受け、旅行契約書に署名をし、パンフレットなどに記載されていた代金を現金やカードなどで一括して払う。
 
 
 
あとは、指定された日時・場所に集合場所に行き、他の一般の旅行者とともに集団となり、旅行業者の従業員の指示にしたがって行程表(スケジュール)どおりに移動・宿泊・観光を行い、解散場所で解散することになる。
 

ただし、実施条件として申込者の下限数があらかじめ設定されていてそれが注意書きなどで説明されていることがあり、申込者数がその数を極端に下回ると、旅行は実施されなくなることがある。
 

平成最後の旅 昇仙峡6

2019年05月18日 | 平成最後の旅 昇仙峡6
賽銭

↑ 名水百選 ↓
 
神社仏閣はもとより、パワースポットの水溜りや石仏・注連縄、路傍の道祖神などにも御賽銭とみられる硬貨が投げ入れられたり差し込まれたりされているのを良く見かけます。
 
 
 
↑「岩の隙間」に硬貨が差し込まれている。↓
 
賽銭とは、祈願成就のお礼として神や仏に奉納する金銭のこと。元は金銭ではなく幣帛・米などを供えた。
 
「賽」は「神から福を受けたのに感謝して祭る」の意味。「祭る・祀る」の語義は「飲食物などを供えたりして儀式を行い、神を招き、慰めたり祈願したりする」。
散銭ともいうが、金銭を供えるようになったのは後世であり、古くは米が神仏に供えられた。
その形態は、神前や仏前に米を撒く「散米」「散供・御散供・打撒」や、洗った米を紙に包んで供える「おひねり」だった。
↑ めまい岩と昇仙橋 ↓
金銭が供えられるようになったのは中世以降であり、庶民に貨幣経済と社寺への参詣が浸透しはじめた時期である。
 
そして、参詣が一般化したことで都市の風習として、賽銭をあげることが流行になった。
しかし、現在のように賽銭箱が置かれるようになったのは近世以降である。また、地域によっては長らく米が供えられていた。
 
参拝者は賽銭箱に金銭を投入した後、神社なら2拝2拍手1拝、寺院なら合掌し、目を閉じながら神仏への願い事やお礼を心の中で唱える。
 
賽銭箱が存在していない地蔵や神体の前にも、時おり参拝者によって賽銭が置かれることがある。
博物館に展示されている仏像、神像の前にも賽銭が置かれていることもあり、「賽銭をあげないでください」と注意書きしてある場合もある。
 
賽銭は願いを聞いてもらう対価ではないとする説もあり、日本書紀の「罪を素戔嗚尊に負わせ、贖罪の品々を科して差し出させた」というところから自身の罪を金銭に託して祓うとする説(浄罪箱)と、賽銭箱に硬貨を入れる音で罪祓う(鈴と同じ)とする説がある。
↑ 昇仙橋から下流を ↓ 昇仙橋から上流を
 歴史
古来神仏に祈願する場合、主として五穀を紙に包み奉納した。
 
貨幣経済の進展に伴い米・雑穀よりも銭貨が増え、しかもそのまま神前に置かれたので自然発生的に銭貨を受ける賽銭箱が生まれた。
 
戦国時代の僧侶快元の日記である『快元僧都記』によると、1540年(天文9年)に散銭櫃(さんせんびつ)なる箱が鶴岡八幡宮に置かれたという記述があり、これが賽銭箱が記録に残る日本最古のものとされる。
 
室町時代に伊勢参宮や本山詣が庶民に広がり、賽銭を奉る風習が定着したといわれる。
 
 
 
賽銭箱
初詣時期の参拝客に対応するため、拝殿の前の敷地を区切り賽銭入れとしている。
通常、賽銭箱の形状は長方形で、中央に向かって2枚の板が斜めに取り付けられた構造になっており、多くの場合、上部は桟(梯子状)で覆われて中の金銭に手が届かない構造になっている。
 
 
↑ 流れと淀み ↓
 
 
最近では鍵付で引き出し式のものが多い。屋根付あるいは脚付のものもある。材質は、圧倒的に木製が多い。初詣をする人が多い社寺では、正月期間だけ特大の賽銭箱を設ける。
 
 

なお、最近では、賽銭箱を無理にこじ開けたり、賽銭箱をそのまま持ち出したりする被害(いわゆる『賽銭泥棒』)もあるため、そういった被害にあわないために金属製の賽銭箱なども使用されている。
2014年からは、一部神社にて電子マネーによる賽銭が試行されている。
 
 
この場合の賽銭箱は、白木の箱に電子マネーの端末が設置されたものとなる。
賽銭箱形の貯金箱が観光地でよく売られている。
19〜20日、令和初旅のためブログの更新は有りません。

平成最後の旅 昇仙峡5

2019年05月17日 | 平成最後の旅 昇仙峡5
仙娥滝


↑ 仙娥滝へ ↓




↑ 仙娥滝入口付近にいた外国人たちがいた ↓


仙娥滝(せんがたき)は山梨県甲府市の昇仙峡にある滝。日本の滝百選に選定されている。
 
 
 
滝の名である「仙娥」とは、中国神話に登場する月に行った女性嫦娥のことであり、ひいては月を意味する言葉である。
 
 
 
富士川水系の荒川上流にある、山梨県を代表する景勝地の一つ昇仙峡の最奥部に位置する。
 
 
 
 
昇仙峡のシンボルである覚円峰の麓にある。この滝は地殻変動による断層によって生じた。
 
 
 
花崗岩の岩肌を削りながら落下している滝で落差は30mである。駐車場から徒歩約5分の場所にあり、秋の紅葉シーズンには数多くの観光客が訪れる。
 
 
 
 
 
昇仙峡一帯は山梨県の主要産業である水晶など宝石を扱う店も多く、パワーストーンのお店や博物館なども数多くあります。また、トレッキングやハイキングコースも充実しています。
 
 
 

 
かつて昇仙峡一帯は修験道の修行場であった「霊山」でした。ここは数多くのパワースポットが存在する有名なエリアです。
 

平成最後の旅 昇仙峡4

2019年05月16日 | 平成最後の旅 昇仙峡4
 
昇玉堂


巨大な水晶玉と不動明王像が祀られている祠。「鈴結び」という願掛けがあり、「鈴結び」は金運上昇や商売繁盛の「金の鈴 仕事結び」と、無病息災や健康祈願の「銀の鈴 健康結び」があります。
 
 
↓ 日本一大きな水晶玉直径80cmで、重さは450kg
 
 
併せて「水晶絵馬」という願掛けがあり、昇玉堂内のご神体に願掛けをすることができます。
 
 
 
 
パワースポットは、一言でいうと地球上に点在する特別な場所のことです。訪れるだけでパワーを感じ、英気を養うことが出来る場所を、総じてパワースポットと呼びます。
 

パワースポットは、昔から修行の場や信仰の対象として人々の間で大事にされてきました。パワースポットに神社仏閣が多いのも、かつては信仰の対象の場所だったからです。
 
 
 
 
昇仙峡おもかる石
愛と癒しをもらたす美の石「紅水晶」
①石を持ち上げて重さを覚える
②石に両手を当てて願いを込める
③もう一度石を持ち上げる
④軽く感じれば、その願い叶うでしょう。
 

↑ 昇仙峡おもかる石 紅水晶 ↓
 
 
 ↑ 翡翠 ↓
 
 
 
 
↑ 他愛もない旧態依然のキャッチコピーと工芸加工用の原木 ↓
 
 
 
「布袋の願いも三度まで」
福々しい笑顔にぷっくらしたお腹、
富が入った大きな袋で親しまれている布袋様。
願う者には三つの福を呼ぶ神とされています。
「壱」「弐」「参」三つの願札に叶えてほしい願いを順番に書きこんで貼っていました。
 

蛙(かなえる)仙人
立札には
『私に願えば、叶わぬ願いなどない』と。
昇仙峡で数多くの願いを叶えてきた。
 

「かなえる仙人」
無事かえる
若がえる
お金がかえる
福をむかえる
 
 
最近、若い女性だけでなく、家族連れなどパワースポットと呼ばれる場所に足を運ぶ人が増えてきました。昇仙峡は、「日本一の渓谷美」と言われ、都内から日帰りで行ける観光地ですが、実はパワースポットの宝庫です。