旅行、飲食、草花、イベント、乗り物、出来事など。

日々の生活の中から様々な物を写真付きで。

梅雨と花

2019年07月19日 | ★花シリーズ★
アサザ(浅沙、阿佐佐)
ミツガシワ科アサザ属の多年草。ユーラシア大陸の温帯地域に分布し、日本では本州や九州、稲美町などに生育する。
水路や小河川、池に生育する。浮葉植物であることから、波浪が高い湖沼には通常、生息しない。
 
池や水路の護岸工事や水質汚濁などにより、各地で個体群が消滅、縮小している。
アサザの遺伝解析の結果、ほとんどの自生地が1つないし2つのクローンで構成され、種子を作るために必要な異なる2つの花型が生育するのは霞ヶ浦だけとなっていて、日本にわずか61個体しか残存していないことがわかったとされる。
しかしながらこの研究は、霞ヶ浦以外では1カ所で1サンプルしか採取していないところがあるなどサンプリングに偏りがあることから、さらなる調査が必要である。
 
上記研究によれば、その内20個体が霞ヶ浦に生育していて、霞ヶ浦にしか残されていない霞ヶ浦固有の遺伝子が存在するとしている。
そして、霞ヶ浦では近年生育環境が悪化し、非常に高い絶滅の危機に瀕しているとの意見がある一方で、周辺の水路での自生が報告されている。
 
局所個体群が急激に減少しはじめた1996年から2000年と2004年以降は、霞ヶ浦の水位が高く維持されるようになった年であり、何らかの関連性があると考えられているとする意見もある。

独り飯

2019年07月17日 | 飲食物・麺類
 
火曜日は老妻のスイミングスクールで昼間は留守にしている。
不定期ではあるが、メンバーによる食事会が有り今日は其の日である。
昼はカレーとナンを食べたが、夜は馴染みの居酒屋で独り飯となりました。
 
 
居酒屋
酒類とそれに伴う簡単な料理を提供する飲食店で、日本式の飲み屋である。
 
バーやパブなどは洋風の店舗で洋酒を中心に提供しているのに対し、居酒屋は和風でビールやチューハイ、日本酒などを提供している店が多く、バーやパブに比べると料理の種類や量も多い。
 
装飾や提供する飲食類は和風のことが多いが、あえて洋風にすることにより他店との差別化を図る店もある。
 
また、新鮮な魚介類を提供していることを強調するため店内に活魚用の生け簀を作る店や、カウンターを作って目の前で調理をしてみせる店など、様々な工夫を凝らした店が多い。
チェーン店においてはセントラルキッチンにおいて調理済みの料理を提供する店が多いが、近年は「店内調理」を前面に出してセールスポイントとするチェーンも少なくない。
 
 
 
 
 
居酒屋の歴史
日本の居酒屋
古事記に登場する逸話や歌から、8世紀初頭までには定着していた。
 
「造酒司(みきのつかさ)」と呼ばれる役所の管轄の基、醸酒料としての米が租税として徴収された733年の記録が残っている。
 
797年に書かれた続日本紀には、761年に葦原王が居酒屋で酔って殺人事件を起こした記録が残っている。ただしこの時は大陸の言葉である「酒肆(しゅし)」と書かれていた。
 
奈良時代になると貨幣経済も始まり、寺院などで酒の醸造と提供が始まり、神社関連も醸造を行うようになる。
 
やがて平安時代から室町時代にかけて民間業者が醸造を行うようになり「醸造屋」と呼ばれるようになった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「醸造屋」は当初、貴族階級の富裕向けであり、庶民の飲酒行為は、811年の規制法等によって、祭り以外の飲酒が規制されていた。
醸造屋が全国に波及するのは、11世紀頃と言われている。
 
鎌倉時代になると貨幣経済が都市部で本格化し、武士階級に酒を提供する醸造屋が現れた。
これらは「好色家」と呼ばれ、酒類の提供だけでなく売春業も行っていたようである。
 
酒を巡ってのトラブルも多発したため、1252年(建長4年)の10月には、酒壺の破棄指令が出たほどである。
 
その後鎌倉時代の末期になると、ようやく商人階級に酒類を提供する醸造屋が登場する。
室町時代になると醸造屋は一定の権力を持ち、幕府から課税対象とみなされるようになる。
 
この頃の醸造屋は同時に金貸しをやっており、庶民に対して積極的に金を貸すと同時に、酒類も提供していた。
 
また室町時代から、醸造と提供の分離が始まり、酒の提供に特化した「酒屋」や茶も出す「茶屋」が登場するようになる。
 
その後戦国時代になると各大名が領内の経済強化のために酒屋や茶屋を積極的に保護した。
都市部や街道沿いには庶民相手の居酒屋が建つようになる。
 
居酒屋の本格的な発展は江戸期頃になる。酒の量り売りをしていた酒屋(酒販店)で、その場で酒を飲ませるようになり、次第に簡単な肴も提供するようになった。
 
酒屋で飲む行為を「居続けて飲む」ことから「居酒」(いざけ)と称し、そのサービスを行う酒屋は売るだけの酒屋と差別化するために「居酒致し候」の貼紙を店頭に出していた。
 
現在でもこうした酒販店に付属する形式の立ち飲みスタンドは残存しており、近隣住民の気軽な社交場として機能している例も見られる。
 
他にも煮売屋が酒を置くようになったことに始るもの、また屋台から発展したものなどの別系統もある。
 
 
江戸は男女比率が極端に男性に偏っており、一人住まいの独身男性が多かったことから酒が飲めて簡便に食事も取れる居酒屋は大いに広まっていった。
 
一方農村部は最後まで居酒屋の普及が遅れ、18世紀後半まで待たなくてはならなかった。
明治時代になると文明開化の名の下、ビールなど洋酒が流入し、1899年には銀座に富裕層向けの「恵比寿ビアホール」が設立された。
 
その後、カフェやキャバレー等の洋風居酒屋が相次いで流入した。1939年には、ビール生産量が戦前のピークを迎えている。
 
1944年、決戦非常措置要綱により多くの飲食店やカフェーが閉店に追い込まれ、一方で1人ビール1本または日本酒1合に限る公営の国民居酒屋が登場した。
 
戦後の1960年を境に日本酒と洋酒の消費量が逆転することになった。
 
 
 
 
1970年代頃までは居酒屋といえば男性会社員が日本酒を飲んでいる所というイメージが強かったが、近年は女性にも好まれるようにチューハイやワインなど飲み物や料理の種類を豊富にした。
 
店内装飾を工夫したお店が多くなり、女性だけのグループや家族連れを含め、誰でも気軽に利用できる場所というイメージが定着しつつある。
 
特に1980年代頃から居酒屋のチェーン店化が進んだ。このことで、居酒屋は安く、大人数が集まることができ、少々騒いでもよく、様々な人の好みにあわせて飲み物や料理を選べるというメリットを持つようになった。
 
このため、学生・会社員・友人同士などのグループで「簡単な宴会」を催す際の会場としてよく用いられている。
 
チェーン店を中心に基本的には低価格で気軽に飲食できることを売りにしている店が多く、そのため男女に関わらず広い層を顧客としている。
 
 
 

火曜日のランチ

2019年07月16日 | ★食べ物・インド★
カレーとナン
日本に於けるインド料理屋の大きなナンは本場インドには存在しない。
 
 
 
 
 
 
カレー
多種類の香辛料を併用して食材を味付けするというインド料理の特徴的な調理法を用いた料理に対する英語名。
 
転じて、それを元にしたヨーロッパ系の料理や、同様に多種の香辛料を併用して味付けされる東南アジアなどの料理も指す。
 
日本では明治時代に当時インド亜大陸の殆どを統治していたイギリスであったため、イギリス料理として伝わった。
 
それを元に改良されたカレーライス(ライスカレーとも)は洋食として普及している。
インド系、東南アジア系、洋食系の何れも現在では国際的に人気のある料理のひとつとなり、ヨーロッパや北米、中南米、アフリカ、オセアニアなど、世界中でカレー文化が根付いている。
 
 
 
 
インド
インド料理は香辛料を多用するため、外国人の多くはインド料理の煮込み料理を「カレー」と認識している。
 
しかし外国人がカレーと呼ぶインドの煮込み料理は、サーグ、サンバール、コルマ、ダールなど、それぞれに固有の名称があり、「カレー」という料理はない。
 
ただし、インドの観光客向けのレストランやインド国外のインド料理店では便宜上、メニューに「○○カレー」という表記をしていることも多い。
 
これは、旧宗主国のイギリス人がインド料理をカレーと総称して世界に伝えたことがおもな理由である。
 
インド固有の言語には「カレー」という言葉はない。ただしドラヴィダ語族には野菜・肉・食事・おかずなどを意味する「カリ」(タミル語i)という言葉があり、それが英語で「curry」と表記されるようになったと言われている。 
ナン
インド、パキスタン、中央アジアのタジキスタン、中国新疆ウイグル自治区、ウズベキスタン、アフガニスタン、イラン、クルディスタンなどで食べられるパンである。
 
語源はペルシア語。平たく楕円形で、大きな草履のような独特の形をしていて、所々ぽこぽこ膨れているものが多い。
 
インドのものは他国と異なり、二等辺三角形あるいはへら型をしている。
パキスタンやウイグルのナンは丸いものが多い。
 
ウイグルのギルデ・ナン(girde nan)は中央に穴があいており、形はベーグルとよく似ている。
 
小麦粉と塩、水、酵母を主材料とする。国によってはヨーグルト、牛乳、油脂、時には鶏卵、少量の砂糖、スパイス類も入ることがある。
 
 
 
キーマカレー
キーマカレーのキーマはヒンディー語で細切れ肉・ひき肉のことで、ひき肉で作るカレー料理が『キーマカレー』です。
 
調理法などの細かい決まりはなく、ひき肉や細切れ肉を使ってカレー料理を作ればキーマカレーと言えます。
 
インドでは、宗教や地域によって調理方法や素材が違い、味もそれだけ種類があるので、一言にキーマカレーと言っても色々な味が楽しめます。
バターチキンカレー
玉ねぎを使わずに、バター・トマト・タンドリーチキン用のヨーグルトマリネソースで作られているカレーが『バターチキンカレー』です。
 
世界でもっとも有名なインドカレーとも言われている種類でもあります。
 
インドのデリーでは、ライスに合うように作られるなど工夫を凝らしたバターチキンカレーが多くあるのも特徴的です。
 
 
 
ダール・タドカ
ダール・タドカは、インドが誇る豊富な種類の豆を使って作られた『豆カレー』です。
 
肉を使わないで作るので、ベジタリアンの人でも食べられることから『インドの国民食』としても知られています。
 
ダールは豆、タドカは完成直前に熱々のスパイスと油を加える北インドの料理テクニックのことです。シンプルなメニューなので、豆や野菜を自由にアレンジして作られています。

令和元年七月の旅・熱海二日目

2019年07月15日 | ★旅行★国内
 
 
寝具
人生の3分の1を占めるといわれる睡眠。寝具とは、人の睡眠に供するための道具である。
寝具は、睡眠の際に外気によって奪われる熱を遮断( → 断熱)し、暖かく寝るための、あるいは睡眠時にこれを妨げる害虫などの害を遮断するための物である。
 
ヒトという動物は元々、熱帯〜亜熱帯にかけての気温に即した身体構造をしており、目が覚めている時間では、身体の恒常性維持を行う自律神経の働きで、ある程度の体温調節が効き、また衣類を着用することで体温調節を行っている。
 
しかし就寝時には自律神経の働きは鈍り、また活動時には動き易く暖かい着衣も、寝ているときには些か窮屈である。このため寝具が必要となると考えられる。
 
朝食
朝に摂る食事のことである。朝餉(あさげ)、朝飯(あさめし)、朝御飯(あさごはん)とも。英語風にブレックファーストやブレックファスト、ブレイクファーストとも言う。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
宿泊施設の朝食
ホテル等で提供される、コンチネンタルブレックファストは、基本的に温かい食べ物がない。たとえば、ロールパン、バター、サラダ、フルーツ等である。飲み物に関しては、紅茶やコーヒーなどが付くことがある。
 
一方、アメリカンブレックファストは温かい食べ物が提供される。たとえば、トースト、スクランブルエッグ等である。
 
 
 
 
 
 
日本の旅館での標準的な献立を中心に、客間で客それぞれに配膳する、いわゆる「部屋食」が正式な給仕法である。
 
しかし、平成期に入った頃から効率化のため高級な施設以外では、食堂でビュッフェ形式の朝食を提供することが多くなった(俗に「朝食バイキング」と呼ばれる)。
 
また、食堂で客それぞれに配膳する形式も存在する。日本のホテルでは以前から高級な施設ではルーム・サービスのアメリカンブレックファストと、食堂でのビュッフェ形式を選択出来る。
 
それ以外のクラスでは食堂でのビュッフェ形式のみが提供される。低料金で素泊まり中心のホテルでは、ごく簡単な食事をサービスとして提供することもある(パン、飲み物程度)。
 
この辺りは世界的にも朝食の内容に関して、お国柄や個人差が大きく出る部分もあり、先に上げた英国でも、外国人観光客が泊まるようなホテルでは、少なくともコンチネンタルとブリティッシュ(アメリカン)のどちらかのスタイルが選べる様式が見られる。
 
 
 
 

令和元年七月の旅・熱海~初島

2019年07月14日 | ★食べ物・和食★
夕餉を終えて
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
部屋に戻り夕景を見る。
 
 
 
 
 
二日目早朝AM4:20
 
 
 
熱海港
静岡県熱海市和田浜南町にある地方港湾。初島・伊豆大島航路の定期船の発着場がある他、沖合いの埋め立て地に大規模な海釣り施設が整備されており、「釣り文化促進モデル港」に指定されている。
 
サンレモ公園
北西部、親水公園の第4工区から直結した場所にある公園。国道135号を挟んで北西向にマリンスパあたみがあり、道路の進行方向の都合上、公園側に路線バスの「マリンスパあたみ」バス停がある。
 
1976年(昭和51年)11月10日に、熱海市がイタリア・サンレモ市と国際姉妹都市提携を結んだことを記念して、1982年(昭和57年)12月10日に開園した。当時の市長・内田滋による由来説明文が園内に設置されている。
 
一角に彫刻付きの噴水を配置してイタリア風を演出しているものの、それ以外は電話ボックス、公衆トイレ、ブランコ・滑り台などの遊具が配置された、一般的な公園と似た仕様になっている。
 
また一角には坪内逍遥作詞の「熱海市歌」の碑も建てられている。
南東隣に「熱海港定期船乗り場」がある。
 
 
 
 
 
 
熱海初島航路
初島へ約25分の船旅
静岡県唯一の有人離島「初島」。
 
南国の花々が咲き乱れるようなデザインが特徴の「イル・ド・バカンス 3世号」(最大868名収容)と、2014年3月にデビューした、海向きのペアシートやグループ向けのボックスシートなども完備。
バリアフリー対応の「イル・ド・バカンス プレミア号」(最大605名収容)が就航し、熱海港から約25分で初島へ渡ることができます。
 
 
 
 
1日9便、就航しています。 乗車券は、往復で大人2600円、小人1300円です! 片道30分で、到着します。 海が、荒れると欠航も有ります。 最終は、5時20分です。
 
初島(はつしま)は、静岡県熱海市に属する島。伊豆半島東方沖の相模灘に浮かび、静岡県の最東端でもある。
 
古い文献などでは波島(はしま)、端島(はしま)、波津幾島(はつきしま)との表記もある。
熱海市本土から南東に約10 kmの位置にあり、人口193人、114世帯である。住民のほとんどは島の北部に位置する宮の前地区に居住している。
 
富士急行(富士急マリンリゾート)が熱海港と伊東港(2019年3月末日で廃止)からの定期航路を開設している。
 
 
 
 
ヘリコプターのチャーターも可能。東京ヘリポートから初島まで約30分。料金は3名で20万円程度。

令和元年七月の旅・熱海で会席 其の二

2019年07月12日 | ★食べ物・和食★
 
会席料理
 
 
 
 
 

宴会や会食で用いられるコース形式の日本料理。 連歌や俳句の会席で、本膳料理を簡略化したもの。
 
献立に従って、一品ずつ食べていく「喰い切り」のものと、宴会時の配膳方式のものと2種類の傾向があり、いずれも一品料理ではない。
 
(和食用語「喰い切り」 会席料理ではこれが主流である。すべての献立を一つの膳に載せて出す形式に対して、客の進み具合を見て一品ずつ出す懐石流のやり方。)
 
 
 
 
献立
会席料理の献立は、一汁三菜が基本である。
現在の三菜は懐石にならい、刺身・膾、吸物・煮物、そして焼物・焼魚とすることが多い。
さらにお通し・揚げ物・蒸し物・和え物・酢の物などの肴が加えられ、最後に飯・味噌汁・香の物、水菓子となる。
 
 
 
 
 
 
 
献立の例
先付(さきづけ)・・・ 前菜
椀物(わんもの)・・・ 吸い物、煮物
向付(むこうづけ)・・・ 刺身、膾
鉢肴(はちざかな) ・・・ 焼き物、焼魚
強肴(しいざかな) ・・・ 炊き合せ等
止め肴 ・・・ 原則として酢肴(酢の物)、または和え物
食事 ・・・ ご飯・止め椀(味噌汁)・香の物(漬物)
水菓子 ・・・果物
ご飯、止め椀、漬物は同時に供される。
 
ただし上記以外にも油物(揚げ物)や蒸し物、鍋物が出ることがある。油物が供される場合には一般に強肴のあとである。
 
飲み物は基本的に日本酒、または煎茶である。近年はほうじ茶やコーヒーが出されることもある。
明治時代以降は肉も出される。
 
 
シチューなどの洋食の皿が交えられたり、デザートとして洋菓子が供されたり、ご飯の代わりに蕎麦やうどんが出されることもあり、上記のような献立の流れに必ずしもとらわれるものではない。
 
料亭や料理旅館で供される一般的な流れを記す。なお、店によって若干の違いがある。
 
 
 
 

令和元年七月の旅・熱海で会席

2019年07月11日 | ★食べ物・和食★
 
上げ膳据え膳


日々の生活で我が老妻は、家族のために所謂「御三どん」を余儀なくしている。
御三どん(おさんどん)とは、台所などで働く下女、または台所仕事のこと。
 
語源
諸説あるが、一般的には江戸時代、三とは「三女」の意を指し、女性に使われることの多い名だった。
 
そこから、接頭辞の「御」と人を呼ぶ際に使われる接尾辞の「どん」がくっつき、御三どんと呼ばれるようになった。
 
「どん」とは上方で殿と呼ばれていたものが音変化したものである。 また、古くは、大奥の奥にある下女のいる「御三の間」にちなんでいるという説、かまどを意味する「御爨」にかけたことばだとする説などがある。
 
 
 
上げ膳据え膳
上げ膳据え膳の「上げ膳」は、食事の片付け(配膳をいう場合もある)を、「据え膳」は食事の用意を意味する。
 
「上げ膳据え膳」といえば、食事をふくめた家事全般を他の人にやらせている王様のような生活をさす。
せずにはいられなくなっている。
 
逆に、「料理は重労働だから」という理由で、料理以外の家事全般を男性に「上げ膳据え膳」させ、女王生活を満喫している女性もあると聞く。(出典・笑える国語辞典)
 
 
 
 
 
 
 
 
病院食も上げ膳据え膳だが
一般的に病院内で入院している患者に対して提供される食事(給食)のことである。
 
似たような言葉に病人食があるが、病人食は病院内外を問わず病気療養中の人に提供される食事のことを指し、病院食とは異なる。
 
一般の食事と異なり、各々の病院で、個々の入院患者の病状や体質(食物アレルギーなど)に応じて、カロリーや栄養分(高タンパク、低タンパクなど)が処方される。歯応えのあるものを避け、味付けが薄く、香辛料などの刺激物を控える傾向がある。
 
個々の入院患者への対応から、かつては管理栄養士指導の下に病院内で調理される場合が多かったが、調理法の改善やコストの点から、外部のセントラルキッチンへの移行や外部委託が進んでいる。
 
 
 
 
 
 
 
 
 

花の美術館・月下美人

2019年07月10日 | ★花シリーズ★
 
山陽メディアフラワーミュージアム
月下美人とはメキシコの熱帯雨林地帯を原産地とするサボテン科クジャクサボテン属の常緑多肉植物である。日本で多く流通しているクジャクサボテには交配種が多いが、これは原産地からそのまま導入された原種である。
 
 
絶滅のおそれのある野生動植物の種の国際取引に関する条約(通称: ワシントン条約)の附属書IIの適用対象である。

葉状茎の丈が1mから2mにまで達するとつぼみの形成が見られる。花は、夜に咲き始め翌朝までの一晩でしぼみ、めしべに他家受粉が起きなければ散ってしまう。
 
花冠は20-25cm程度であり、白い。香りが強いこと、夜間開花すること、小型哺乳類の訪花に耐える強度を持つこと、花粉と花蜜が虫媒花よりも多いこと、それらは生態学的に送粉シンドロームのコウモリ媒花の特徴に一致する。
 
これは原産地の新大陸の熱帯地域において花蜜食・花粉食を示す一部のヘラコウモリ科の小型コウモリ類媒介受粉への適応と考えられている。
 
ゲッカビジンは日本での栽培下では6~11月に咲き、この季節に株の体力が十分に回復すれば2~3ヵ月後にもう一度咲くことができる。
つぼみは初期は垂れ下がっているが開花直前になると自然に上を向いて膨らみ、夕方に芳香を漂わせはじめる。これもコウモリがホバリングをしながらやや下を向き、舌を伸ばして花蜜と花粉を摂食する行動との共進化と考えられている。
 
開花中の花、開花後のしぼんだ花ともに食用にでき、咲いている花は焼酎につけると保存できる。台湾ではスープの具として使われる。
 

茎のほとんどは昆布状の扁平な葉状茎になっており、またしばしば株元から細長い鞭状の茎を伸ばす。
 
葉状茎の縁は波打っており、その凹部のくぼんだ点に産毛状に退化した刺(これが真の葉)を持つ刺座(サボテン科特有の点状にまで短縮した短枝)が位置する。成長点はここと茎頂にあり、これらの箇所から新しい茎(長枝)やつぼみが生じる。
 
 
 
 
果実
古くから日本に普及していた株は、原産地から導入されたたった1つの株から挿し木や株分けで増やされた同一クローンであり、受粉に際して自家不和合性を示す特性があるため人工授粉してもほとんど果実が実ることはなかった。
 
しかし1980年代に東京農業大学の研究グループが原産地から野性の別のクローンを持ち帰り、増殖、普及させたため今日では複数のクローンが幾つもの園芸業者によって国内流通しており、これらの間でコウモリに代わって人間が人工授粉してやれば容易に成熟した果実が得られる。
 
成熟した果実は表面が赤く内部の果肉は白くて黒い胡麻状の種子が数多く散在し紡錘形で大きく、近縁種である同じ熱帯雨林原産の着生サボテンであるドラゴンフルーツに似た外見を持ち甘い。
 
そのため古くから日本で栽培されてきたもの以外のクローンを園芸業者が販売する際、家庭用果樹として宣伝し「食用月下美人」の商品名をつけることが多い。
↑ 開花写真は後日我が家近隣のお宅にて撮影 ↓

火曜日のランチ うどん

2019年07月09日 | 火曜日の定食冷し中華
讃岐うどんはなまる

本日は、スクーターを駆って買い物に出掛けた。

正午を過ぎ買い物を終えて、フードコート (隣接する多様な飲食店のブース及びセルフサービス形式の食事のための屋台共有スペースを提供する屋内型広場)へ。
 
麺類の中で暫く「うどん」を食べていなかったので「讃岐うどんはなまる」へ。
はなまるうどんは、株式会社はなまるが展開しているセルフ式の讃岐うどんのチェーン店。吉野家グループに属する。
 
 
 
 
うどんの本場である香川県の讃岐に端を発して創業し、2017年現在全国に約420店舗を持つ。
社名は創業者の前田英仁が幼少時に「はなまる」を貰えなかったので、「お客様からはなまるを頂きたい」という思いから採用した。
 
なお静岡県東部地方を中心に出店している『惣菜屋 はなまる』などを運営している『はなまるフードサービス』とは無関係である。
 
衣料卸売業の株式会社エイジェンス(現・株式会社ヒューマンネット)とリサイクル業の株式会社フォー・ユーの共同出資(出資比率60:40)で2001年に香川県高松市で設立された。
 
 
↑ クーターで来ているからノンアルコールビールを ↓
 
 
 
 
 
 
2004年に吉野家ディー・アンド・シー(現・吉野家ホールディングス)と資本・業務提携を行い関連会社(33.4%出資)となり、2006年5月には子会社(51%出資)に、2012年12月には完全子会社となっている。
 
店舗内では、1杯150円(2019年3月19日の料金改定により税抜130円から値上げ。2000年の創業時は税抜き100円。)から食べられた。
 
最初にダシをかけたうどんを渡し、それに天ぷらやネギなどのトッピングなどを自分でのせていく「セルフうどん」システム(一部店舗では逆の場合もある)を導入。
 
 
 
 
 
 
 
創業以来、香川県高松市に本社を置いていたが、2005年7月に当時の東京本部に本社を移転した。移転前の本社は高松市伏石町字狃麈796番地1 丸忠第五ビルにあった。
 
うどんの麺は自社工場で生麺を生産しており、1玉にレタス1個分の食物繊維を含む「はなまる食物繊維麺」に変更し、ヘルシー志向に合わせている。
 
だしは、瀬戸内海産の煮干しを中心に、ウルメイワシ節、サバ節などで作っただしに、香川県産しょう油をブレンドしたものである。
 
 
 
 
 
 

令和元年七月の旅・熱海温泉

2019年07月08日 | ★旅行★国内
熱海温泉(あたみおんせん)
静岡県熱海市にある温泉である。日本の三大温泉の一つとも言われる。
 
 
 
歴史
熱海は歴史的にも古い温泉であり、およそ1500年前の仁賢天皇の時代、海中から熱湯が噴き出し、魚が爛れ死ぬのを近郷の者が発見、以来「熱い海」であることから、熱海と名付けられたとされる。
 
また、天平宝字の頃に箱根権現の万巻上人が、この「熱い海」のために不漁に苦しむ漁民たちを救済すべく、祈願により源泉を海中から現在の山里に移したという伝説も残されている。
 
江戸時代初期の慶長9年(1604年)、徳川家康が7日間湯治で逗留した記録がある(『徳川実紀』)。
 
以来、徳川将軍家御用達の名湯として名を馳せ、徳川家光以降に、熱海の湯を江戸城に献上させる「御汲湯」を行わせた。
 
 
 
 
明治以降は文人墨客が多く訪れ、また多くの作品がこの地を舞台に描かれた。最も代表的な作品は、尾崎紅葉の『金色夜叉』であり、この作品によって熱海の名は全国的に知られることとなった。
 
国道135号沿いに登場人物である貫一・お宮の像がある。他に永井荷風の『冬の日』や林芙美子の『うず潮』などがある。
 
昭和30年代は新婚旅行の代表的な行き先で、白いドレスに白のスーツケースを持った、それと分かるアベックで賑わった。
 
高度経済成長期に入ると団体旅行を誘致するようになり、昭和40年代は年間450万人以上が宿泊していた。
 
そのうち男性客目当てのストリップ劇場や風俗店が増え、歓楽街が形成された。
これによるイメージの低下や、1964年の東海道新幹線開通を皮切りとした新幹線網の整備で東京から遠方の温泉地にも容易に出かけられるようになったことも重なり、家族連れの客離れが進んだ。
 
バブル崩壊後は団体客が減少。休館する旅館が目立つようになり、町に寂れた印象を与え、更に客離れが進むという悪循環に陥った。
 
当時老舗であった「つるやホテル」(平成13年閉館)などの大型ホテルの廃業がそれに拍車をかけた。

こうした長期低落傾向が、東日本大震災(2011年)を底に反転し、熱海復活として注目されている。
 
熱海駅と旅館・ホテル街を結ぶ位置にある熱海銀座商店街で空き店舗が増えた。
東京からのUターン者や地元住民、市が青空市開催と意欲ある店主の誘致、業態転換などで再生させた。
 
首都圏の西隣で新幹線駅がある元々の有利さは健在で、旅館・ホテル業界も花火大会などで、個人・小グループ客にとっての魅力向上に努めたことも奏功した。
 
近年の新幹線通勤の広がりに伴い、高額所得者が熱海に温泉付の自宅を構えて東京都内へ新幹線通勤する光景も多く見られるようになっている。
 
 
 
 
歓楽街の代名詞
かつて熱海温泉が日本を代表する歓楽温泉として栄華を誇ったことから、他地方の同様なあるいは有名な温泉街や温泉郷が「○○の熱海」と宣伝したり、そう呼ばれたりしたことがある。
 
これらの温泉街も熱海温泉と同様に、バブル経済の崩壊、レジャーの多様化などの事情により客離れが進み、現状の温泉街を評して「かつて『○○の熱海』と呼ばれた××温泉は……」との文脈で語られる例も見られるようになった。
 
その一方で、「山陰の熱海」を名乗る皆生温泉のように、否定的・消極的な意味を伴わず、普通に宣伝文句として用いている例もある。
 
特殊な例として、磐梯熱海温泉は、開湯時の領主が伊豆出身であることから借名されたものであり、当地とのゆかりのある名称となっている。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

令和元年七月の旅・熱海で七夕

2019年07月07日 | ★イベント★
七夕祭り


↑ 熱海駅構内 ↓





中国大陸、日本、韓国、台湾、ベトナムなどにおける節供、節日の一つ。五節句の一つにも数えられる。
 
日本の七夕祭りは、新暦7月7日や月遅れの8月7日、あるいはそれらの前後の時期に開催されている。
 
日本の「たなばた」は、元来、中国での行事であった七夕が奈良時代に伝わり、元からあった日本の棚機津女(たなばたつめ)の伝説と合わさって生まれた。
 
「たなばた」の語源は『古事記』でアメノワカヒコが死にアヂスキタカヒコネが来た折に詠まれた歌にある「淤登多那婆多」(弟棚機)又は『日本書紀』葦原中国平定の1書第1にある「乙登多奈婆多」また、お盆の精霊棚とその幡から棚幡という。
 
日本では、雑令によって7月7日が節日と定められ、相撲御覧(相撲節会)、七夕の詩賦、乞巧奠などが奈良時代以来行われていた。
 
その後、平城天皇が7月7日に亡くなると、826年(天長3年)相撲御覧が別の日に移され、行事は分化して星合と乞巧奠が盛んになった。
 
 
 
↑ 宿泊ホテルロビーの七夕飾り ↓
 
 
 
 
乞巧奠(きこうでん、きっこうでん、きっこうてん、きぎょうでん)は乞巧祭会(きっこうさいえ)または単に乞巧とも言い、7月7日の夜、織女に対して手芸上達を願う祭である。
 
古くは『荊楚歳時記』に見え、唐の玄宗のときは盛んに行われた。この行事が日本に伝わり、宮中や貴族の家で行われた。
 
宮中では、清涼殿の東の庭に敷いたむしろの上に机を4脚並べて果物などを供え、ヒサギの葉1枚に金銀の針をそれぞれ7本刺して、五色の糸をより合わせたもので針のあなを貫いた。
 
一晩中香をたき灯明を捧げて、天皇は庭の倚子に出御して牽牛と織女が合うことを祈った。また『平家物語』によれば、貴族の邸では願い事をカジの葉に書いた。
 
二星会合(織女と牽牛が合うこと)や詩歌・裁縫・染織などの技芸上達が願われた。江戸時代には手習い事の願掛けとして一般庶民にも広がった。なお、日本において機織りは、当時もそれまでも、成人女子が当然身につけておくべき技能であった訳ではない。
 
 
 
 
 
 
 
 
天の川
川崎青少年センタープラレタリウム
生田緑地のなかにある自然系の博物館です。「自然 体験」「天文体験」「科学体験」の3つの感動体験をテーマにしています。世界最高水準の 星空を映し出すプラネタリウム「メガスターⅢフュージョン」が有ります。
 
MEGASTAR-Ⅲ FUSION(メガスター・スリー・フュージョン)
有限会社大平技研と公益財団法人日本科学技術振興財団共同事業体が開発製作した最新のプラネタリウムです。
 
 
 世界最高の星空と言われているMEGASTARの最新機種で、科学館のために新規開発された次世代型の特別仕様機で、肉眼では見えない星までをも描き出します。
 
これまでのMEGASTARの星空の美しさに加えて、星空のリアルさ、自然さを追求。精密な星の明るさの差や、色をより忠実に再現します。
 
 日本語で「融合」を意味する「FUSION」の名には特別な意味が含まれています。それは、美しく精緻な星空を描き出す光学式プラネタリウムと、あらゆる映像や空間表現を可能にするデジタルプラネタリウムの技術を文字通り融合させ、これまでにない宇宙像を再現するテクノロジーです。
 
光学式プラネタリウムとデジタルプラネタリウムを併用する従来の技術を超えて、FUSION プラネタリウムは、新たな投影方式による特質を備え、世界最高水準のリアルな星空を投影します。
 
ドームスクリーンに再現される無数の星たちがすべて色を備えて精緻にきらめき、空を巡り、やがて山の稜線の彼方に自然に消えていく風景を投影でき、今までのプラネタリウムで果たせなかった、本物の夜空で体験するような空気感を再現できます。
 
 
↑ 1MEGASTAR-Ⅲ FUSION(メガスター・スリー・フュージョン)と天の川 ↓
 
 

令和元年七月の旅・熱海で昼食2

2019年07月06日 | ★イベント★
辛味大根蒸籠蕎麦
辛味大根(からみだいこん)
ダイコンの品種。別名は吹散大根。京野菜の一つであり、「京の伝統野菜」に指定されている。
また、小ぶりで辛味の強いダイコンの総称とされる事もある。
 
 
 
 
 
 
 
 
特徴
葉も根も小かぶによく似た形状で、直径4 - 5cm、30-50gほどの大きさとなる。葉柄の基部は紫色を呈する。9月に播種を行い、11月上旬から12月中旬に収穫する。
 
根部は強い辛味があり、肉質が緻密で水分が少ないため、大根おろしにすると蕎麦の薬味に最適とされる。
ワサビのように非常に強くさわやかな辛味臭を有し、辛味成分である4-メチルチオ-3-ブテニルイソチオシアネートを他のダイコンの2倍以上含む一方で、水分や還元糖の含有量は他品種よりも少ない。
 
 
 
歴史と栽培地域日本では元禄の頃から京都の原谷高原で栽培が始まり、江戸時代には香辛野菜として盛んに利用されていた。
 
また、原谷が原産地であり、元禄から宝永にかけて現在の北区鷹峯で栽培が始まったともいう。
近代以降は需要とともに生産が減少し、昭和初期に10戸ほどだった栽培農家は1980年代には1戸のみとなっていた。
 
近年では、京都市が特産そ菜保存圃を設置して鷹峯の農家に栽培を委託しており、7戸が栽培を行っている。
 
 
蒸籠蕎麦
お品書きによく見かける「もり蕎麦」と「ざる蕎麦」。手打ちの専門店などでには「せいろ蕎麦」と書かれていることがあります。
 
三つの蕎麦のの違いをご存じですか。
地方では昔から太打ちの田舎蕎麦が食べられて来ました。製粉技術が現代のように洗練されておらず手挽きの石臼による挽きぐるみでは、そば殻などのつながりの妨げとなる異物も多く、細く打つと千切れてしまうのです。
 
 
 
 
 
 
蒸籠蕎麦とは
江戸時代に小麦粉をつなぎに使ったニ八蕎麦(にはちそば)の技術が確立されるまで、十割蕎麦は茹でるとちぎれやすく、それ以前の江戸では和菓子屋さんがお饅頭を蒸す片手間に蒸籠で蒸し蕎麦を出していました。
 
大工や荷役労働者、運搬の仕事など肉体労働が多かった江戸では、正式な食事は白米を炊いたご飯を食べて、蕎麦は間食や夜食として食べられていたのです。
 
ススっと短時間で食べられるお蕎麦は、気が短くて、ええ格好しいの江戸っ子の気風に合っていたのでしょう。
 
 
 
 
 
 
 
ざる蕎麦とは
ざる蕎麦を始めて出したお蕎麦屋さんは、江戸時代に深川にあった『伊勢屋』というお店です。
海苔をのせ始めたのは明治以降で、専用の汁を使っていたそうです。今ではざる汁を別に作る店は少なくなっており、海苔の有無だけが「もり」「ざる」の違いとなっているようです。
 
「ざる蕎麦」と「せいろ蕎麦」は同じもの?
「ざる」も「せいろ」も調理道具ですね。今では本来の役割を越えて蕎麦を華やかに盛る器として使われています。
 
塗り物の器にスノコを敷いて盛るスタイルが現代のせいろ蕎麦の姿ですが定義は曖昧になりつつあり、ざるに盛っても「せいろ」と称しているお店もあります。
 
 
もり蕎麦は、また別のもの?
もり蕎麦の由来
小麦粉をつなぎに使うニ八蕎麦の登場で、グルテンの恩恵によって細切りにしても切れずに茹でることが可能になりました。
 
ところが当時は現代のように、つゆは猪口(ちょこ)につけるのではなく皿盛りにした蕎麦の上からまわしかける「ぶっかけ」スタイルでした。
 
 
ざるを器に使うようになったのは、江戸中期以降のことです。
結局3つの蕎麦の違いって?
改めて整理してみますと、もり蕎麦は皿盛りが語源ですが現代では塗り物のせいろに盛られることが多く、基本的に海苔は掛けません。
 
せいろ蕎麦は蒸し器のせいろに盛られたのが語源ですが、近年は器の種類は問わなくなって来ていて、手打ちの専門店によく使われる名称。
 
 
ざる蕎麦は、大衆的なお店では海苔掛けそばを指しますが、手打ちの専門店などでは海苔は掛けずに本当のざるに盛るお店もあります。 出典・macaro-ni.jp > TOP > トレンドニュース > 雑学・豆知識。
 

令和元年七月の旅・熱海で昼食

2019年07月05日 | 令和の旅 那須塩原温泉
そば処利久庵
和風モダンなこだわりのおそば屋さん
自家製粉石臼挽きの蕎麦と豊富な酒の肴が楽しめる「そば処 利休庵」。
 
 
 
 
熱海の観光客と地元住民の買い物どころとして長年栄えてきた繁華街の「熱海銀座商店街」。

戦後直ぐに建てられた建物が現在も店舗として利用されており、昭和の面影を色濃く残し、懐かしさを感じさせるその佇まい。
 
長い歴史を持つ商店街だけに老舗も多く、熱海の名産品である干物専門店や和菓子屋など、50店舗程の商店が軒並み揃います。
 
利久庵店内は落ち着いた雰囲気の店内はずっしりと重みのある古民家を移築したような造りです。
 
 
 
 
老妻は「大和芋とろろ蕎麦」を。
大和芋(やまといも)は、ヤマノイモ科のつる性多年草の芋で、奈良県在来のツクネイモの品種である。
 
関東などでは、イチョウ芋を「やまと芋」と呼ぶが、奈良県産の大和いもは粘り気の強いげんこつ型黒皮ツクネイモで、別の品種である。
 
県内で古くから栽培されきた伝統野菜の一つとして、奈良県 により「大和野菜」に認定されている。
 
 
 
 
特徴
芋が球形をしたものをツクネイモ群と称し、表皮が黒いものは大和いも、白いものは伊勢いもと呼ばれるが、いずれも中身は白色である。凹凸が少なく形が整い、品質に優れている。
 
肉質が緻密でナガイモの中では最も粘り気が強く、食感が濃厚である。摺り下ろして放置しても変色しない。
 
産地
土質を選び、乾燥をきらうので、栽培が難しく、産地は限られる。現在は奈良県御所市の葛城山麓を中心に栽培され、産地の地名を取って「櫛羅(くじら)いも」とも呼ばれる。

その他に天理市などで栽培されている。
 
利用法
優れた品質から、高級料理の食材として珍重され、薯蕷饅頭やかるかんなど和菓子の原料に用いられる。
 
摺りおろしてとろろごはんにしたり、汁ものに落として餅のような具(落とし汁)にしたりする。揚げ物にしても美味しい。
 
摺りおろしただけでは粘りが強い場合、溶き卵や吸い物出汁で伸ばしたりするが、本場の奈良県では、卵と味噌汁を加えて摺りのばし、「とろろ汁」にすることが多い。
 
 
主産地御所市の葛城高原ロッジでは、大和いもを摺りおろして鍋の出汁で伸ばし、鍋の具材に絡めて食べる「山芋鍋」を味わえる。
 
皮をむいて薄切りにし茹でてから田楽味噌をつけて軽く焼くと、他の芋とは違った味わいのある味噌田楽になる。
 
大和いもは親芋の下に子芋ができる姿から、円満な家庭と重ねて「めでたいいも」とか「孝行いも」とも呼び、おせち料理の煮物にも使われる。
 
 
 
 
薯蕷蕎麦(とろろそば)
とろろ(擂り下ろした薯蕷芋)を入れた蕎麦つゆや、擂り粉木で薯蕷をすりながら蕎麦つゆを割り入れて作ったとろろ汁をつけ汁にして食べるもりそば。
 
または、かけ蕎麦に薯蕷や薯蕷汁をかけたもの。いずれも卵黄やうずらの卵を割り落とし、ねぎ・のり・わさびなどを添える。
 
温かい蕎麦は「やまかけ蕎麦」ともいう。
 
 
 
 
↑ お通しは板わさ ↓
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令和元年七月の旅・熱海鉄道

2019年07月04日 | ★イベント★
熱海軽便鉄道7号機
国鉄熱海線(現東海道本線)開業前の明治40年から大正12年まで、熱海=小田原間を25kmを2時間40分で走っていた軽便鉄道の機関車。
↑ 熱海駅前に保存されている熱海鉄道7号蒸気機関車(駅前改装前) ↓ 駅前改装移設後
 
関東大震災によってこの路線は廃止されたが、各地の鉄道建設工事で活躍し神戸市の国鉄鷹取工場内で標本車として展示されていたものを熱海市が払い下げを受け修復。
 
交通記念物として展示されている。その低重心な形状から「へっつい機関車」とも呼ばれた。
1907年、池貝鉄工所製。1976年にJR東日本より準鉄道記念物に指定されている。
 
↑ 熱海鉄道7号蒸気機関車 ↓
 
 
 
 
 
 
 
 
 
熱海鉄道とは、
現在の東海道本線が開業する前、小田原と熱海の間を結んでいた軽便鉄道線である。
ここでは、その前身となる人車軌道の豆相人車鉄道(ずそうじんしゃてつどう)についても記述する。
 
熱海は古くから温泉の町として知られていたが、この辺りは地形が険しく、東海道本線も当初は熱海を通らず現在の御殿場線のルートを取るなど、交通の不便な場所でもあった。
 
そのため、この地に鉄道を敷設する運動が地元民などから起こるようになった。丁度、国府津駅前から小田原町(現、小田原市)内まで小田原馬車鉄道(1900年に路面電車化し、1920年廃止)という馬車鉄道が開通していた。
 
それと連絡する形で当初は普通の鉄道を敷設しようとしたが、資金が集まらなかったため事業家雨宮敬次郎の発案により人力で車両を押す人車軌道に規格を変更し、雨宮と地元有志が共同で豆相人車鉄道を設立して1895年から1900年にかけて漸次開通させた。
 
これは営業的には高運賃(全線の運賃は工夫の賃金1日分だったといわれる)を取ったこともあって成功したが、原始的であり押し手の賃金も高額となることから、社名を熱海鉄道と改めて1907年に蒸気機関車牽引の軽便鉄道へ切り替えた。
 
翌年には、営業が不振であったことから雨宮が設立した大日本軌道に買収され、同社の小田原支社管轄となる。

その後、東海道本線のルートを丹那トンネルの開削などによって、御殿場経由から現行の熱海経由に変更することが発表されると、大日本軌道では、勝負にならないとして補償も兼ねて一切の設備車両を1920年に国へ売却した。
 
買収後は熱海軌道組合を新たに設立し、施設一切を国が同組合に貸し付け、職員は組合が雇用する形で運営され、主に丹那トンネル建設作業員の輸送手段として運行された。
 
そして、1922年に新東海道本線の小田原駅 - 真鶴駅間が「熱海線」の名で開業すると、その並行区間を廃止して残存区間で営業を継続したが、翌年に発生した関東大震災で壊滅的な打撃を受け、そのまま廃止となった。
なお、その翌年となる1924年には熱海線は予定通り熱海駅までの開業を果たし、1934年には丹那トンネルが開通して熱海線は東海道本線へ改められた。
 
↑ 大正時代の熱海鉄道蒸気機関車 ↓
 
豆相(ずそう)人車鉄道
人車鉄道、小田原~熱海を走る(写真16)
かつて、人間が客車を押すという世界的にも珍しい鉄道が、小田原~熱海間を走っていました。
 
明治28年7月に熱海~吉浜間で営業を開始し、翌29年3月に熱海~小田原間が開通しました。当時、熱海は温泉宿約30軒ほどの保養地で、政財界の大物や文人が盛んに訪れていました。
 
しかし、東京・横浜方面から熱海に至るには海沿いの険しい道(熱海街道)を歩くか、駕籠か人力車を利用していました。
 
そこで、熱海の旅館業主を中心に地元有志や京浜の実業家等が小田原熱海間に鉄道計画を興し、経費も安価であったことから人車鉄道を建設しました。
 
豆相人車鉄道と呼ばれ、小田原熱海間25.6km。駕籠で約6時間かかっていたところを約4時間で走りました。

豆相人車鉄道は、1車両に客は平均6人、それを2~3人の車夫が押していました。
6両編成で、小田原熱海間を日に約6往復し、急な上り坂になると、客も降りて一緒に押したというのどかな風景も見られました。
 
雨宮敬次郎を社長とする豆相人車鉄道株式会社として事業に当たっていましたが、明治41年8月に軽便鉄道に転身し、約3時間の所要時間になりました。
 
しかし、大正12年に起きた関東大震災によって軌道は寸断され、復旧を断念。翌13年に鉄道事業の幕を閉じました。
(写真14・15・16はウェブサイトより拝借)
↑ 湯河原吉浜付近での豆相人車

令和元年七月の旅・熱海

2019年07月03日 | ★イベント★
熱海駅前再開発
ここ数年、熱海駅と駅周辺の再開発が進められており、既にバスターミナルとタクシー乗り場、駅前広場、新しい駅舎の供用が始まり、古い駅舎が完全に取り壊されました。
 
 
ここ数年、熱海駅と駅周辺の再開発が進められており、既にバスターミナルとタクシー乗り場、駅前広場、新しい駅舎の供用が始まり、古い駅舎が完全に取り壊されました。
 
 
 
 
2代目駅ビル
ラスカ熱海は、茅ヶ崎、平塚、小田原で駅ビル「ラスカ」を手がけるJR東日本傘下の「湘南ステーションビル」が運営。建物は地上3階建てで、店舗面積は約2,600㎡。
 
2010年3月末で営業を終了した初代熱海駅ビル「熱海駅デパート」と旧駅舎を建て替える形で建設され、観光地の玄関口にふさわしい明るく開放感のある駅ビルとなる。
成城石井から土産物店まで36店舗が出店
 
 
 
 
 

ラスカ熱海のコンセプトは「New Atami Style」。
熱海・伊豆初出店となる高品質食品スーパー「成城石井」や、イオン傘下のドラッグストア「ハックエクスプレス」、100円ショップ「キャンドゥ」、R&M resortが運営するベーカリーカフェ「Bakery&Table」、JR東日本グループが運営する駅カフェ「ベックスコーヒー」など36店舗が出店。
 
 
 
 
また、地元熱海の土産物店も数多く出店しており、“伊勢海老の干物”で有名な「釜鶴ひもの店」や“七尾たくあん”でお馴染み「岸 朝次郎商店」などの人気店も軒を連ねる。