旅行、飲食、草花、イベント、乗り物、出来事など。

日々の生活の中から様々な物を写真付きで。

令和元年七月の旅・熱海で七夕

2019年07月07日 | ★イベント★
七夕祭り


↑ 熱海駅構内 ↓





中国大陸、日本、韓国、台湾、ベトナムなどにおける節供、節日の一つ。五節句の一つにも数えられる。
 
日本の七夕祭りは、新暦7月7日や月遅れの8月7日、あるいはそれらの前後の時期に開催されている。
 
日本の「たなばた」は、元来、中国での行事であった七夕が奈良時代に伝わり、元からあった日本の棚機津女(たなばたつめ)の伝説と合わさって生まれた。
 
「たなばた」の語源は『古事記』でアメノワカヒコが死にアヂスキタカヒコネが来た折に詠まれた歌にある「淤登多那婆多」(弟棚機)又は『日本書紀』葦原中国平定の1書第1にある「乙登多奈婆多」また、お盆の精霊棚とその幡から棚幡という。
 
日本では、雑令によって7月7日が節日と定められ、相撲御覧(相撲節会)、七夕の詩賦、乞巧奠などが奈良時代以来行われていた。
 
その後、平城天皇が7月7日に亡くなると、826年(天長3年)相撲御覧が別の日に移され、行事は分化して星合と乞巧奠が盛んになった。
 
 
 
↑ 宿泊ホテルロビーの七夕飾り ↓
 
 
 
 
乞巧奠(きこうでん、きっこうでん、きっこうてん、きぎょうでん)は乞巧祭会(きっこうさいえ)または単に乞巧とも言い、7月7日の夜、織女に対して手芸上達を願う祭である。
 
古くは『荊楚歳時記』に見え、唐の玄宗のときは盛んに行われた。この行事が日本に伝わり、宮中や貴族の家で行われた。
 
宮中では、清涼殿の東の庭に敷いたむしろの上に机を4脚並べて果物などを供え、ヒサギの葉1枚に金銀の針をそれぞれ7本刺して、五色の糸をより合わせたもので針のあなを貫いた。
 
一晩中香をたき灯明を捧げて、天皇は庭の倚子に出御して牽牛と織女が合うことを祈った。また『平家物語』によれば、貴族の邸では願い事をカジの葉に書いた。
 
二星会合(織女と牽牛が合うこと)や詩歌・裁縫・染織などの技芸上達が願われた。江戸時代には手習い事の願掛けとして一般庶民にも広がった。なお、日本において機織りは、当時もそれまでも、成人女子が当然身につけておくべき技能であった訳ではない。
 
 
 
 
 
 
 
 
天の川
川崎青少年センタープラレタリウム
生田緑地のなかにある自然系の博物館です。「自然 体験」「天文体験」「科学体験」の3つの感動体験をテーマにしています。世界最高水準の 星空を映し出すプラネタリウム「メガスターⅢフュージョン」が有ります。
 
MEGASTAR-Ⅲ FUSION(メガスター・スリー・フュージョン)
有限会社大平技研と公益財団法人日本科学技術振興財団共同事業体が開発製作した最新のプラネタリウムです。
 
 
 世界最高の星空と言われているMEGASTARの最新機種で、科学館のために新規開発された次世代型の特別仕様機で、肉眼では見えない星までをも描き出します。
 
これまでのMEGASTARの星空の美しさに加えて、星空のリアルさ、自然さを追求。精密な星の明るさの差や、色をより忠実に再現します。
 
 日本語で「融合」を意味する「FUSION」の名には特別な意味が含まれています。それは、美しく精緻な星空を描き出す光学式プラネタリウムと、あらゆる映像や空間表現を可能にするデジタルプラネタリウムの技術を文字通り融合させ、これまでにない宇宙像を再現するテクノロジーです。
 
光学式プラネタリウムとデジタルプラネタリウムを併用する従来の技術を超えて、FUSION プラネタリウムは、新たな投影方式による特質を備え、世界最高水準のリアルな星空を投影します。
 
ドームスクリーンに再現される無数の星たちがすべて色を備えて精緻にきらめき、空を巡り、やがて山の稜線の彼方に自然に消えていく風景を投影でき、今までのプラネタリウムで果たせなかった、本物の夜空で体験するような空気感を再現できます。
 
 
↑ 1MEGASTAR-Ⅲ FUSION(メガスター・スリー・フュージョン)と天の川 ↓
 
 

令和元年七月の旅・熱海で昼食2

2019年07月06日 | ★イベント★
辛味大根蒸籠蕎麦
辛味大根(からみだいこん)
ダイコンの品種。別名は吹散大根。京野菜の一つであり、「京の伝統野菜」に指定されている。
また、小ぶりで辛味の強いダイコンの総称とされる事もある。
 
 
 
 
 
 
 
 
特徴
葉も根も小かぶによく似た形状で、直径4 - 5cm、30-50gほどの大きさとなる。葉柄の基部は紫色を呈する。9月に播種を行い、11月上旬から12月中旬に収穫する。
 
根部は強い辛味があり、肉質が緻密で水分が少ないため、大根おろしにすると蕎麦の薬味に最適とされる。
ワサビのように非常に強くさわやかな辛味臭を有し、辛味成分である4-メチルチオ-3-ブテニルイソチオシアネートを他のダイコンの2倍以上含む一方で、水分や還元糖の含有量は他品種よりも少ない。
 
 
 
歴史と栽培地域日本では元禄の頃から京都の原谷高原で栽培が始まり、江戸時代には香辛野菜として盛んに利用されていた。
 
また、原谷が原産地であり、元禄から宝永にかけて現在の北区鷹峯で栽培が始まったともいう。
近代以降は需要とともに生産が減少し、昭和初期に10戸ほどだった栽培農家は1980年代には1戸のみとなっていた。
 
近年では、京都市が特産そ菜保存圃を設置して鷹峯の農家に栽培を委託しており、7戸が栽培を行っている。
 
 
蒸籠蕎麦
お品書きによく見かける「もり蕎麦」と「ざる蕎麦」。手打ちの専門店などでには「せいろ蕎麦」と書かれていることがあります。
 
三つの蕎麦のの違いをご存じですか。
地方では昔から太打ちの田舎蕎麦が食べられて来ました。製粉技術が現代のように洗練されておらず手挽きの石臼による挽きぐるみでは、そば殻などのつながりの妨げとなる異物も多く、細く打つと千切れてしまうのです。
 
 
 
 
 
 
蒸籠蕎麦とは
江戸時代に小麦粉をつなぎに使ったニ八蕎麦(にはちそば)の技術が確立されるまで、十割蕎麦は茹でるとちぎれやすく、それ以前の江戸では和菓子屋さんがお饅頭を蒸す片手間に蒸籠で蒸し蕎麦を出していました。
 
大工や荷役労働者、運搬の仕事など肉体労働が多かった江戸では、正式な食事は白米を炊いたご飯を食べて、蕎麦は間食や夜食として食べられていたのです。
 
ススっと短時間で食べられるお蕎麦は、気が短くて、ええ格好しいの江戸っ子の気風に合っていたのでしょう。
 
 
 
 
 
 
 
ざる蕎麦とは
ざる蕎麦を始めて出したお蕎麦屋さんは、江戸時代に深川にあった『伊勢屋』というお店です。
海苔をのせ始めたのは明治以降で、専用の汁を使っていたそうです。今ではざる汁を別に作る店は少なくなっており、海苔の有無だけが「もり」「ざる」の違いとなっているようです。
 
「ざる蕎麦」と「せいろ蕎麦」は同じもの?
「ざる」も「せいろ」も調理道具ですね。今では本来の役割を越えて蕎麦を華やかに盛る器として使われています。
 
塗り物の器にスノコを敷いて盛るスタイルが現代のせいろ蕎麦の姿ですが定義は曖昧になりつつあり、ざるに盛っても「せいろ」と称しているお店もあります。
 
 
もり蕎麦は、また別のもの?
もり蕎麦の由来
小麦粉をつなぎに使うニ八蕎麦の登場で、グルテンの恩恵によって細切りにしても切れずに茹でることが可能になりました。
 
ところが当時は現代のように、つゆは猪口(ちょこ)につけるのではなく皿盛りにした蕎麦の上からまわしかける「ぶっかけ」スタイルでした。
 
 
ざるを器に使うようになったのは、江戸中期以降のことです。
結局3つの蕎麦の違いって?
改めて整理してみますと、もり蕎麦は皿盛りが語源ですが現代では塗り物のせいろに盛られることが多く、基本的に海苔は掛けません。
 
せいろ蕎麦は蒸し器のせいろに盛られたのが語源ですが、近年は器の種類は問わなくなって来ていて、手打ちの専門店によく使われる名称。
 
 
ざる蕎麦は、大衆的なお店では海苔掛けそばを指しますが、手打ちの専門店などでは海苔は掛けずに本当のざるに盛るお店もあります。 出典・macaro-ni.jp > TOP > トレンドニュース > 雑学・豆知識。
 

令和元年七月の旅・熱海鉄道

2019年07月04日 | ★イベント★
熱海軽便鉄道7号機
国鉄熱海線(現東海道本線)開業前の明治40年から大正12年まで、熱海=小田原間を25kmを2時間40分で走っていた軽便鉄道の機関車。
↑ 熱海駅前に保存されている熱海鉄道7号蒸気機関車(駅前改装前) ↓ 駅前改装移設後
 
関東大震災によってこの路線は廃止されたが、各地の鉄道建設工事で活躍し神戸市の国鉄鷹取工場内で標本車として展示されていたものを熱海市が払い下げを受け修復。
 
交通記念物として展示されている。その低重心な形状から「へっつい機関車」とも呼ばれた。
1907年、池貝鉄工所製。1976年にJR東日本より準鉄道記念物に指定されている。
 
↑ 熱海鉄道7号蒸気機関車 ↓
 
 
 
 
 
 
 
 
 
熱海鉄道とは、
現在の東海道本線が開業する前、小田原と熱海の間を結んでいた軽便鉄道線である。
ここでは、その前身となる人車軌道の豆相人車鉄道(ずそうじんしゃてつどう)についても記述する。
 
熱海は古くから温泉の町として知られていたが、この辺りは地形が険しく、東海道本線も当初は熱海を通らず現在の御殿場線のルートを取るなど、交通の不便な場所でもあった。
 
そのため、この地に鉄道を敷設する運動が地元民などから起こるようになった。丁度、国府津駅前から小田原町(現、小田原市)内まで小田原馬車鉄道(1900年に路面電車化し、1920年廃止)という馬車鉄道が開通していた。
 
それと連絡する形で当初は普通の鉄道を敷設しようとしたが、資金が集まらなかったため事業家雨宮敬次郎の発案により人力で車両を押す人車軌道に規格を変更し、雨宮と地元有志が共同で豆相人車鉄道を設立して1895年から1900年にかけて漸次開通させた。
 
これは営業的には高運賃(全線の運賃は工夫の賃金1日分だったといわれる)を取ったこともあって成功したが、原始的であり押し手の賃金も高額となることから、社名を熱海鉄道と改めて1907年に蒸気機関車牽引の軽便鉄道へ切り替えた。
 
翌年には、営業が不振であったことから雨宮が設立した大日本軌道に買収され、同社の小田原支社管轄となる。

その後、東海道本線のルートを丹那トンネルの開削などによって、御殿場経由から現行の熱海経由に変更することが発表されると、大日本軌道では、勝負にならないとして補償も兼ねて一切の設備車両を1920年に国へ売却した。
 
買収後は熱海軌道組合を新たに設立し、施設一切を国が同組合に貸し付け、職員は組合が雇用する形で運営され、主に丹那トンネル建設作業員の輸送手段として運行された。
 
そして、1922年に新東海道本線の小田原駅 - 真鶴駅間が「熱海線」の名で開業すると、その並行区間を廃止して残存区間で営業を継続したが、翌年に発生した関東大震災で壊滅的な打撃を受け、そのまま廃止となった。
なお、その翌年となる1924年には熱海線は予定通り熱海駅までの開業を果たし、1934年には丹那トンネルが開通して熱海線は東海道本線へ改められた。
 
↑ 大正時代の熱海鉄道蒸気機関車 ↓
 
豆相(ずそう)人車鉄道
人車鉄道、小田原~熱海を走る(写真16)
かつて、人間が客車を押すという世界的にも珍しい鉄道が、小田原~熱海間を走っていました。
 
明治28年7月に熱海~吉浜間で営業を開始し、翌29年3月に熱海~小田原間が開通しました。当時、熱海は温泉宿約30軒ほどの保養地で、政財界の大物や文人が盛んに訪れていました。
 
しかし、東京・横浜方面から熱海に至るには海沿いの険しい道(熱海街道)を歩くか、駕籠か人力車を利用していました。
 
そこで、熱海の旅館業主を中心に地元有志や京浜の実業家等が小田原熱海間に鉄道計画を興し、経費も安価であったことから人車鉄道を建設しました。
 
豆相人車鉄道と呼ばれ、小田原熱海間25.6km。駕籠で約6時間かかっていたところを約4時間で走りました。

豆相人車鉄道は、1車両に客は平均6人、それを2~3人の車夫が押していました。
6両編成で、小田原熱海間を日に約6往復し、急な上り坂になると、客も降りて一緒に押したというのどかな風景も見られました。
 
雨宮敬次郎を社長とする豆相人車鉄道株式会社として事業に当たっていましたが、明治41年8月に軽便鉄道に転身し、約3時間の所要時間になりました。
 
しかし、大正12年に起きた関東大震災によって軌道は寸断され、復旧を断念。翌13年に鉄道事業の幕を閉じました。
(写真14・15・16はウェブサイトより拝借)
↑ 湯河原吉浜付近での豆相人車

令和元年七月の旅・熱海

2019年07月03日 | ★イベント★
熱海駅前再開発
ここ数年、熱海駅と駅周辺の再開発が進められており、既にバスターミナルとタクシー乗り場、駅前広場、新しい駅舎の供用が始まり、古い駅舎が完全に取り壊されました。
 
 
ここ数年、熱海駅と駅周辺の再開発が進められており、既にバスターミナルとタクシー乗り場、駅前広場、新しい駅舎の供用が始まり、古い駅舎が完全に取り壊されました。
 
 
 
 
2代目駅ビル
ラスカ熱海は、茅ヶ崎、平塚、小田原で駅ビル「ラスカ」を手がけるJR東日本傘下の「湘南ステーションビル」が運営。建物は地上3階建てで、店舗面積は約2,600㎡。
 
2010年3月末で営業を終了した初代熱海駅ビル「熱海駅デパート」と旧駅舎を建て替える形で建設され、観光地の玄関口にふさわしい明るく開放感のある駅ビルとなる。
成城石井から土産物店まで36店舗が出店
 
 
 
 
 

ラスカ熱海のコンセプトは「New Atami Style」。
熱海・伊豆初出店となる高品質食品スーパー「成城石井」や、イオン傘下のドラッグストア「ハックエクスプレス」、100円ショップ「キャンドゥ」、R&M resortが運営するベーカリーカフェ「Bakery&Table」、JR東日本グループが運営する駅カフェ「ベックスコーヒー」など36店舗が出店。
 
 
 
 
また、地元熱海の土産物店も数多く出店しており、“伊勢海老の干物”で有名な「釜鶴ひもの店」や“七尾たくあん”でお馴染み「岸 朝次郎商店」などの人気店も軒を連ねる。
 
 

今日の一枚

2019年06月29日 | ★イベント★
梅雨と傘
7月1~2日は、旅行のためブログの更新は有りません。
 
 
梅雨
北海道と小笠原諸島を除く日本、朝鮮半島南部、中国の南部から長江流域にかけての沿海部、および台湾など、東アジアの広範囲においてみられる特有の気象現象。
5月から7月にかけて来る曇りや雨の多い期間のこと。雨季の一種である。
 

雨・雪・日光などが体に当たらないよう、頭上に広げ差しかざすもの。竹や金属などの骨に紙や布などを張り、柄をすえて開閉ができるようにしたもので、「笠」と区別するために「さしがさ」ともいう。「笠」とは同語源である。
 
「傘」は、上から降下してくるものに対して直被しないように防護する目的の用具で、一般には手に持って差しかけて使う用具の総称をさし、頭部に直接かぶって使う用具である「笠」と区別される。
なお、ガーデンパラソルやマーケットパラソルなど携行を目的としない特殊な傘もあり、これらは地面に立てたり吊ったりして用いる。
 
傘は現代においては、雨や雪などの降水時に体や持ち物を濡らさないために使うほか、夏季の強い日射を避けるために使うことも多い。
 
日本書紀には百済聖王(聖明王)の使者が552年に欽明天皇へ幢幡を献上したと書かれている、当初は主に日射を避ける「日傘」として用いていたが、その後日本独自の構造的進化も見られ、降水に対して使うことが多くなっていった。

こどもの日

2017年05月04日 | ★イベント★


こどもの日とは、日本における国民の祝日の一つ。日付は5月5日である。

祝日法2条によれば、「こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝する」ことが趣旨である。1948年に制定。ゴールデンウィークを構成する日の一つである。






制定の経緯
5月5日は古来から端午の節句として、男子の健やかな成長を願う行事が行われていた。大正時代には「児童愛護デー」として活動を行っていた団体が存在し、国会にこどもの日を祝日とする請願が寄せられた際にも、5月5日を希望するものが多かったためである。



端午の節句
端午は五節句の一。端午の節句、菖蒲の節句とも呼ばれる。日本では端午の節句に男子の健やかな成長を祈願し各種の行事を行う風習があり、現在ではグレゴリオ暦(新暦)の5月5日に行われ、国民の祝日「こどもの日」になっている。

少ないながら旧暦や月遅れの6月5日に行う地域もある。尚、中国語圏では現在も旧暦5月5日に行うことが一般的である。



端午の意味
旧暦では午の月は5月にあたり(十二支を参照のこと)、この午の月の最初の午の日を節句として祝っていたものが、のちに5が重なるこの月の5日が端午の節句の日になったという。

「端」は物のはし、つまり「始り」という意味で、元々「端午」は月の始めの午の日のことだった。後に、「午」は「五」に通じることから毎月5日となり、その中でも数字が重なる5月5日を「端午の節句」と呼ぶようになったともいう。

同じように、奇数の月番号と日番号が重なる3月3日、7月7日、9月9日も節句になっている。





風習とその由来
この日を端午とする風習は、紀元前3世紀の中国、楚で始まったとされる。楚の国王の側近であった屈原は人望を集めた政治家であったが失脚し失意のうちに汨羅江に身を投げることとなる。

それを知った楚の国民たちはちまきを川に投げ込み魚達が屈原の遺体を食べるのを制したのが始まりと言われている。
































★お月見★行事

2012年10月13日 | ★イベント★
月見とは、月、主に満月を眺めて楽しむこと。観月(かんげつ)とも称する。

呼称

この夜の月を「中秋の名月(ちゅうしゅうのめいげつ)」と呼ぶ。

「仲秋の名月」という表現もあるが、これだと「陰暦8月の月」を指し、十五夜の月に限定されなくなる。「仲秋」とは、秋を初秋(旧暦7月)、仲秋(同8月)、晩秋(同9月)の3つに区分した場合、旧暦8月全体を指す。対して「中秋」とは「秋の中日」=陰暦8月15日のみを指す。

加えて、中秋の夜に雲などで月が隠れて見えないことを「無月(むげつ)」、中秋の晩に雨が降ることを「雨月(うげつ)」と呼び、月が見えないながらもなんとなくほの明るい風情を賞するものとされる。また、俳諧では8月14日~15日、16日~17日の夜をそれぞれ「待宵(まつよい)」「十六夜(いざよい)」と称して、名月の前後の月を愛でる。

日付

秋分は北半球では、太陽と月の角度により、月の(地球から見た)位置が観月に最も適している。秋分は旧暦では旧暦8月にあたる。実際の新暦での日付は、秋分(9月23日ごろ)の前後半月の1ヶ月の期間の中で変動する(具体的には8月15日 (旧暦)#対照表を参照)。

しかし、日本の関東以西では、この時期、晴天に恵まれる確率は低い。

南米の日系人社会でも、日本と同様に十五夜の月を中秋の名月として観月する。ただし、南半球では春であり、月の位置も観月に適してはいない。

十五夜の日は満月の日に近い日ではあるが、必ずしも両者は一致するものではなく、むしろ異なる場合の方が多い。その差は最大で2日である。
















各地の風習

日本

中国から仲秋の十五夜に月見の祭事が伝わると、平安時代頃から貴族などの間で観月の宴や、舟遊び(直接月を見るのではなく船などに乗り、水面に揺れる月を楽しむ)で歌を詠み、宴を催した。また、平安貴族らは月を直接見ることをせず、杯や池にそれを映して楽しんだという。

現代では、月が見える場所などに、薄(すすき)を飾って月見団子・里芋・枝豆・栗などを盛り、御酒を供えて月を眺める(お月見料理)。この時期収穫されたばかりの里芋を供えることから、十五夜の月を特に芋名月(いもめいげつ)と言う地方もある。

沖縄ではふちゃぎ(吹上餅)を作って供える。

仏教寺院では、豊作を祈る満月法会を催すところもある。

また戦前から昭和中期にかけて(ところにより今日でも)は、各家に供えてある月見団子や栗、柿、枝豆、芋、菓子類を近所の子どもたちがそこの家人に見つからないように(見つけても見ない素振り)捕って回りその年の収穫を皆で祈る(祝う)風習がある。(お月見泥棒)。

中国

十五夜の月を鑑賞する慣習は中国に由来する。

中国、韓国、台湾では中秋節として盛大に祝う。中秋節は祝日となっている。中国では当日、月餅を食べながら月を観る慣習があったが、近年は月餅はひと月以上前から知人に配るようになったため、中秋当日までに月餅は食べ飽きてしまい、中秋当日には売れ残りを恐れて安売りされるという現象も起きている。

台湾

台湾では中秋節は重要な民俗行事であり、全台湾が休日となる。月見をして月餅や文旦を食べる習慣がある。地区的な文化としては、美濃区の客家のアヒルを殺して食べる習慣や、宜蘭の小麦粉を練って中に黒糖を塗って焼いた「菜餅」を食べる習慣がある。また、台湾南部ではおもちや火鍋を食べる風習もある。

1980年代中期から、当日屋外でバーベキューをするなどの別の楽しみ方が増えている。その起源は諸説あるが、広告代理店の影響であるとか、月見の最中に腹が減るからだと言われている。この習慣は、この年代の経済発展と生活の西洋化が、伝統的な民俗習俗にまで影響を及ぼしたと思われる。

韓国

韓国では旧暦8月15日を秋夕(チュソク)といい、その前日と翌日が公休日(祝日)となる。このため、多くの企業、施設も休みとなり、帰省する者も多い。先祖の墓参りをし、新米で「松片(ソンピョン)」という餅を作り、祖先に感謝を捧げてお供えをする。また知り合いに贈り物を贈り合う。このため英語では、コリアン・サンクスギビングデーという。

八月十五夜以外の月見

九月十三夜

八月十五夜の月に対して「後(のち)の月」と呼ばれる。十三夜は日本独自の風習と言われている。ちょうど食べ頃の大豆や栗などを供えることから、この夜の月を豆名月(まめめいげつ)または栗名月(くりめいげつ)と呼ばれる。

江戸時代の遊里では、十五夜と十三夜の両方を祝い、どちらか片方の月見しかしない客は「片月見」または「片見月」で縁起が悪いと遊女らに嫌われた。二度目の通いを確実に行なうために、十五夜に有力な客を誘う(相手はどうしても十三夜にも来なければならないため)風習があった。

その他の夜

天候次第で月を見られない場合もあるので地方によっては月待ちという風習があり、十七夜以降を立待月(たちまちづき)、居待月(いまちづき)、寝待月(ねまちづき)、更待月(ふけまちづき)、という。二十三夜待ちまでを行う地域が多くを占めたが、二十六夜待ちまで行う地域があり、月光に阿弥陀仏・観音・勢至の三尊が現れる、という口実を付けて月が昇る(深夜2時頃)まで遊興に耽った。この風習は明治時代に入ると急速に廃れていったようだ。出典・ウィキペディアフリー百科事典。

★石川遼と記念撮影できる!?★東京・丸の内の“ベンチアート”イベントとは

2012年09月16日 | ★イベント★
プロゴルファーの石川遼選手やチャップリンと記念撮影できちゃう!? そんなユニークなイベントが、9月6日~10月14日(日)に東京・丸の内で開催されている。

丸の内に歴史上の偉人たちが出現しているのは、「ベンチアートin丸の内」というイベント。丸の内商店会がパートナーシップを締結する、ロンドンの「ボンドストリート」にあるベンチオブジェからヒントを得て実現したもので、丸の内仲通りを中心に有楽町と大手町を結ぶ約1.2kmにわたって、ブロンズ像が設置されている。

製作にあたり、本人に近付けるべく身長やポーズ、しぐさなどをも再現。プロゴルファーの石川遼は、ポケットにゴルフボールを入れるなど創意工夫し、1体の原型製作につき約2週間を費やしたのだとか。こだわりを持って製作されたブロンズ像は、そのリアルさから迫力満点だ。この機会に、丸の内で憧れの人と記念撮影しちゃおう!

丸の内仲通りを歩いていたら、あそこのベンチに坂本竜馬が座っていた! そんなサプライズが楽しめる「ベンチアートin丸の内」は、2012年9月6日に丸ビルが10周年を迎えることを記念するイベントだ。






























有楽町と大手町をつなぐ丸の内仲通り1.2kmを中心に、20体の等身大の彫像がベンチに座る。その意外性に驚きつつ、街への親しみと丸の内10年の歴史を感じてもらおうというもの。丸の内仲通りは、ロンドン有数の高級ショッピングストリート「ボンドストリート」とパートナーシップ協定を結んでいるが、ボンドストリートにあるベンチオブジェからヒントを得て企画された。

このイベントのために特別に作成された20体の彫像は、まず粘土で原型を作成し、石膏で型を取り、樹脂を流し込んで成形し、ブロンズ色(一部は手彩色)に塗られている。細部に至るまでこだわった造作で、人物の特徴を的確に表しているところも見どころだ。

人物の選考にあたっては、西洋美術史からサブカルチャーまで造詣が深く、テレビ番組「出没! アド街ック天国」の出演者としても知られる山田五郎氏がキュレーターを務める。丸の内の基礎を築いた徳川家康、三菱創業者の岩崎弥太郎とも親交があった坂本竜馬などの歴史上の人物から、プロゴルファーの石川遼、大リーガーの松井秀喜、オリンピックメダリストの卓球選手の福原愛など現在活躍中のアスリートや、所ジョージをはじめとする人気タレントや仮面ライダーやリカちゃんなどのキャラクターまで、バラエティ豊かな面々が選び出されている。
また、「丸の内オアゾ」エントランスには、レンガ造りの東京駅駅舎を設計した明治・大正期の建築家・辰野金吾が、「三菱一号館広場」には、文明開化の明治日本に近代建築を導入し、三菱一号館も手掛けたジョサイア・コンドルが座るベンチが設置される。

当時の最先端技術と自らの理想を投入して造り上げた建築物が、この街で愛され続けていることを建築家がどんな思いで見つめているのか、彼らの隣に座って想像を巡らしてみるのも楽しいだろう。

このベンチアートの期間は「丸の内仲通りガーデニングショー(2012年9月29日(土)~10月14日(日))」の時期と一部重なり、美しい花とみどりで彩られるガーデニング作品とベンチアートが隣接して展示されるスペースもある。10月1日にはJR東京駅丸の内駅舎の外観復元工事が完成。また、10月14日には国際フォーラムで、日本で48年ぶりとなるIMF(国際通貨基金)総会が開かれ、外国の関係者も多く来街することから、大手町・丸の内・有楽町地区は華やかな雰囲気に包まれるだろう。

各人物のプロフィールが掲載されているガイドマップを手に、お気に入りの彫像を探しに出かけてみてほしい。握手するもよし、肩を組んでみるもよし。清々しい空気の中、偉人たちと一緒にランチを食べてみるもよし。プロレスのジャイアント馬場をかたどった像では、そのボリューム感に圧倒されるかもしれない。

2012年10月1日からは、夕暮れの丸の内仲通りの街路樹に美しいシャンパンゴールドの光が揺れるイルミネーションもはじまる。夜のあかりに照らし出される彫像の陰影も、また一興。彫像たちが醸し出す雰囲気を味わい、触れ合いながらの街歩き。この秋は、丸の内でアート体験をしてみよう。

アルベルト・アインシュタイン/Albert Einstein
西郷隆盛/Takamori Saigo
宝塚歌劇/Takarazuka Revue
リカちゃん/Licca-chan(doll)
仮面ライダー1号/Masked Rider 1
所ジョージ/George Tokoro
チャールズ・チャップリン/Charles Chaplin
徳川家康/Ieyasu Tokugawa
ジョサイア・コンドル/Josiah Conder
石川 遼/Ryo Ishikawa
ジャイアント馬場/Baba Giant
美空ひばり/Hibari Misora
福原 愛/Ai Hukuhara
白鵬/Hakuho
坂本龍馬/Ryoma Sakamoto
鈴木福/Huku Suzuki
小栗旬/Shun Oguri
辰野金吾/Kingo Tatsuno
松井秀喜/Hideki Matsui
芦田愛菜/Mana Ashida
主催 =ベンチアート in 丸の内実行委員会(東京都/千代田区/一般社団法人千代田区観光協会/一般社団法人大手町・丸の内・有楽町地区まちづくり協議会/NPO法人 大丸有エリアマネジメント協会)協力 =三菱地所株式会社