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平成最後の旅 武田神社2

2019年05月27日 | 平成最後の旅 武田神社2
躑躅ヶ崎館



戦国時代の永正16年(1519年)に甲斐守護・武田信虎により居館(躑躅ヶ崎館、武田氏館)が築かれ、家臣団が集住して武田城下町が形成された。
 
 

以来信虎・晴信(信玄)・勝頼三代にわたって武田領国の中心地として機能し天正10年(1582年)3月の武田氏滅亡後もしばらくは政治的中心地であった。
 
 
 
↑ 手水舎の形も菱形 ↓

 
↑ 神楽殿 ↓



 
豊臣大名時代には南方の甲府市丸の内に新たに甲府城が築城され、江戸時代にかけても甲斐統治の政治的中心地となったため、武田氏館は破却された。
 
 
 
館の破却時期は不明であるが、『甲斐国志』によれば要害城が慶長5年(1600年)に破却されていることおから、同時期であると考えられている。
 
 
 
 
これにより城下町も南方に移動し、武田城下町は甲府城下町の一部として吸収される。
江戸時代に武田氏館跡は「古城」「御屋形跡」と呼称され、武田氏時代を偲ぶ名所のひとつとして旅行者が訪れる程度であったが、明治期には史跡保存運動が起こる。
 
 
 
明治初期の「機山公霊社」建設運動
1872年(明治5年)6月、明治新政府は地租改正に際して武田時代の遺制とされる大小切税法の廃止を断行し、これに対して峡東地域の諸村が蜂起し、大小切騒動が発生する。
 
 
 
大小切騒動は鎮圧されるが、首謀者の多くは処罰され、山梨県令・藤村紫朗の主導する県政にも影響を及ぼした。
 


初宮参り
初宮参りとは、赤ちゃんが無事に生誕1か月目を迎えたことを産土神に感謝して報告する行事である。初宮詣とも。通常、単に宮参りというと初宮参りのことを指す。
 
 
 
 
大小切騒動の後に山梨県庁は山梨県民の武田信玄への追慕を障害と認識し、明治初年には『峡中新聞』においては信玄を悪人とする論説を掲載することも行っていた。
 
 
このころ全国的にも自由民権運動が興隆し、山梨県でも反藤村県政の動きとして民権運動が発生する。