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平成最後の旅 昇仙峡8

2019年05月22日 | 平成最後の旅 昇仙峡8
 
 
 
長田円右衛門(おさだ-えんえもん)
 
 
↑ 長田円右衛門の碑がある東屋 ↓
 
  
1795-1856 江戸時代後期の農民。
寛政7年1月9日生まれ。甲斐(かい)(山梨県)猪狩(いかり)村の人。
 
 
 
名主で叔父の長田勇右衛門とともに荒川渓谷沿いの甲府と猪狩村間の道路(御岳(みたけ)新道)を計画し,村人の協力をえて天保5年着工,14年完成させた。
 
昇仙峡が世に知られることになり,通行人の休み所をもうけ「お助け小屋」とよばれた。安政3年6月9日死去。62歳
 
 
 
昇仙峡の長田円右衛門
『人と旧跡 山梨県歴史の旅』山梨県観光連盟監修 堤義郎氏著
 
 
山梨、長野両県境の金峰山に水源をもつ荒川の流れがつくり出した昇仙峡は、奇岩とそそり立つ峰々が、四キロにわたって渓谷美をくりひろげる。
 
いまは三段に落ちる仙蛾滝の上からロープウエーで、富士や南アルブスを大観できるが、この渓谷が世に知られるまでに長田円右衛門の残した功績は大きい。
 
むかしは昇仙峡を通って甲府盆地の方へ出るにも、足もとをすくう危なっかしい道がうねっていたから、たやすく人を近づけるところでなかった。
 
 
 
それからおよそ五十年後の天保四年、同じ猪狩村の円右衛門と勇右衛門はこの新道の開発を志した。
 
二人は世話人に選ばれたが、協力者はわずか二十二戸でしかなかった。工事をやりかけたら、費用がかかりすぎてたまらないとか、労力の負担が重いとかで、人びとの間にごたごたが起こった。
 
たいして余裕があるでもない円右衛門は、私財をつぎこんで仕事を進めたが、寄進帳を持っで甲府へも下りて行った。
 
 
 
彼の苦労は十数年もの間続けられ、嘉永年間にようやく一応の工事を終わった。それまでは登る人も少なかった昇仙峡は、こうして次第に知れわたるようになったのである。
 
身を切る寒さをおかし、手足をヒビやアカギレで赤くはれあがらせながら、山を切り、谷をつなぐなどした円右衛門は、離れ去った人びとからあざけりの目で見られるときもあったろう。
しかし、彼は黙々と心をいちずに工事をやりぬいた。
 

晩年の円右衛門は仙蛾滝の下にささやかな接待所をつくり、訪れる人たちにワラジなどを売って暮らしていたそうだ。
 
 
 
 
いまも彼が使用した鉄ビンが残されている。昇仙峡には、この一人の老人のたくましい精神が宿っている。
 
 
 
御岳手打ちそば金渓館
明治35年創業
 
 
 
主峰覚円峰を眺めながらの絶景の場所で御岳手打ちそば・ほうとう・岩魚塩焼き・甘味を楽しみながらお食事出来ます。四季折々を目の前で感じられる一番のスポットで創業100年 手打ちそば(そばうち自家製)
 
 
 
渓谷沿い自家用車で入ることのできる最終地点
昇仙峡三大名勝である覚円峰、天狗岩、夢の松島を目の前にして,大自然のマイナスイオンを存分に浴びながらお食事が楽しめる昇仙峡で唯一のロケーションです。
 
 
また、自家用車で入ることができる最終地点であり、仙娥滝まで徒歩約10分の渓谷が楽しめ、観光の拠点としても最適です。
 
 
 
新芽の季節には鮮やかな緑が輝き、夏には心地よい川風と清々しい渓谷美が心を癒してくれます。また、紅葉の名所である昇仙峡の秋は、当店の自慢である樹齢100年以上のいろはもみじが真っ赤に染まりながら皆様をお出迎え致します。
 
 
 
その時々でいくつもの表情をかえる自然の美、その景観を眺めながら自慢の手打ち蕎麦、甲州名物のほうとう、渓流魚の王様岩魚の塩焼きなどをお楽しみ下さい。