湖畔の宿記念公園の一角に復元された竹久夢二のアトリエがあります。
外観はいつでも見学出来ますが、9:00~16:00の間は建物の中も見学できます。
内部には竹久夢二の略年表や紹介文、夢二の絵(レプリカ)や榛名湖の写真などが展示されています。
場所 群馬県群馬郡榛名町榛名山847
●1階アトリエ ●2階 和室・厨房
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竹久夢二(1884~1934)は、明治17年(1884年)岡山県邑久郡本庄村(現在の邑久町)に生まれ、その豊かな才能を詩や絵画などの分野に発揮し、明治末期から昭和初期にかけて「大正ロマンの夢二」として多くの人に愛好されました。
晩年榛名湖の風光にひかれ、昭和5年(1930年)地域に根ざした美術工芸品を創作することにより産業の振興を図ろうと、「榛名山美術研究所」設立構想を発表し、榛名湖畔にアトリエ(山荘)を建設しました。
この建物は、当時夢二が建設したアトリエ(山荘)を現存する資料を基に復元したものです。
竹下夢二
榛名山美術研究所建設につき
あらゆる事物が破壊の時期にありながら、未だ建設のプランは誰からも示されていない。吾々はもはや現代の権力闘争および政治的施設を信用し、待望してはいられない。しかも吾々は生活せねばならない。
快適な生活のためには、各々が最単位の自己の生活から立ててゆかねばならない。まず、衣食住から手をつけるとする。そういう吾々の生活條綱を充たしてくれるために、今の所僅かに山間が残されていた。幸い榛名山上に吾々のため若干の土地が與えられた。美術研究所をそこに建てる所以である。
吾々は地理的に手近な材料から生活に即した仕事から始めようと思う。吾々は日常生活の必要と感覚は、吾々に絵画、木工、陶工、染色等々の製作を促すであろう。同様の必要と感興をもつ隣人のために、最低労銀と材料費で製作品を別つ頒つことができる。或いは製作品と素材とを物々交換する便利もあろう。
そこで、商業主義が作る所の流行品と大量生産の粗悪品の送荷を断る。また市場の移り気な顧客を強いて求めないがゆえに、吾々は自己の感覚に忠実であることも出来る。
こういう心構えから、生活と共にある新鮮な素朴な日用品を作る希望をもつ隣人のために研究所を開放する。
吾々の教師はあくまで自然である。しかし吾々は既成品を模倣するためでなくに、人が自然から学んだ体験をきくために、時に講演会、講習会を開く。また吾等の製作品を人々に示すために、時に展覧会を開く。
榛名山美術研究所を設ける所以である。
1930年5月
榛名山美術研究所 竹久夢二
昭和6年5月、夢二渡米。
昭和7年9月、「早く榛名に帰りたい」望郷の念にかられ「青山河」を描いてジャーナリスト坂井氏に送り、夢二は欧州に立つ。
昭和8年、夢二帰国。
昭和10年9月、富士見高原療養所で50歳の生涯を閉じ、雑司ケ谷墓地に埋葬される。
文・出典:「私の旅日記」http://members.jcom.home.ne.jp/urawa328/kohan04.htmlから転載。
外観はいつでも見学出来ますが、9:00~16:00の間は建物の中も見学できます。
内部には竹久夢二の略年表や紹介文、夢二の絵(レプリカ)や榛名湖の写真などが展示されています。
場所 群馬県群馬郡榛名町榛名山847
●1階アトリエ ●2階 和室・厨房
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竹久夢二(1884~1934)は、明治17年(1884年)岡山県邑久郡本庄村(現在の邑久町)に生まれ、その豊かな才能を詩や絵画などの分野に発揮し、明治末期から昭和初期にかけて「大正ロマンの夢二」として多くの人に愛好されました。
晩年榛名湖の風光にひかれ、昭和5年(1930年)地域に根ざした美術工芸品を創作することにより産業の振興を図ろうと、「榛名山美術研究所」設立構想を発表し、榛名湖畔にアトリエ(山荘)を建設しました。
この建物は、当時夢二が建設したアトリエ(山荘)を現存する資料を基に復元したものです。
竹下夢二
榛名山美術研究所建設につき
あらゆる事物が破壊の時期にありながら、未だ建設のプランは誰からも示されていない。吾々はもはや現代の権力闘争および政治的施設を信用し、待望してはいられない。しかも吾々は生活せねばならない。
快適な生活のためには、各々が最単位の自己の生活から立ててゆかねばならない。まず、衣食住から手をつけるとする。そういう吾々の生活條綱を充たしてくれるために、今の所僅かに山間が残されていた。幸い榛名山上に吾々のため若干の土地が與えられた。美術研究所をそこに建てる所以である。
吾々は地理的に手近な材料から生活に即した仕事から始めようと思う。吾々は日常生活の必要と感覚は、吾々に絵画、木工、陶工、染色等々の製作を促すであろう。同様の必要と感興をもつ隣人のために、最低労銀と材料費で製作品を別つ頒つことができる。或いは製作品と素材とを物々交換する便利もあろう。
そこで、商業主義が作る所の流行品と大量生産の粗悪品の送荷を断る。また市場の移り気な顧客を強いて求めないがゆえに、吾々は自己の感覚に忠実であることも出来る。
こういう心構えから、生活と共にある新鮮な素朴な日用品を作る希望をもつ隣人のために研究所を開放する。
吾々の教師はあくまで自然である。しかし吾々は既成品を模倣するためでなくに、人が自然から学んだ体験をきくために、時に講演会、講習会を開く。また吾等の製作品を人々に示すために、時に展覧会を開く。
榛名山美術研究所を設ける所以である。
1930年5月
榛名山美術研究所 竹久夢二
昭和6年5月、夢二渡米。
昭和7年9月、「早く榛名に帰りたい」望郷の念にかられ「青山河」を描いてジャーナリスト坂井氏に送り、夢二は欧州に立つ。
昭和8年、夢二帰国。
昭和10年9月、富士見高原療養所で50歳の生涯を閉じ、雑司ケ谷墓地に埋葬される。
文・出典:「私の旅日記」http://members.jcom.home.ne.jp/urawa328/kohan04.htmlから転載。