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武器 ゼロ戦 靖国神社 御霊 笑顔

2021年09月14日 | ★美術館★

遊就館(ゆうしゅうかん)は、靖国神社境内に併設された、同社の祭神ゆかりの資料を集めた宝物館(博物館法の適用外)。幕末維新期の動乱から大東亜戦争(太平洋戦争)に至る戦没者、国事殉難者を祭神とする靖国神社の施設として、戦没者や軍事関係の資料を収蔵・展示している。1882年(明治15年)に開館した、日本における「最初で最古の軍事博物館」。


★MOA美術館★

2012年05月02日 | ★美術館★
MOA美術館 (エムオーエー) は、静岡県熱海市にある私立美術館である。


日本・東洋の古美術が中心の美術館であり、財団法人エム・オー・エー美術・文化財団が運営している。

世界救世教の教祖・岡田茂吉(おかだもきち、1882年 - 1955年)の蒐集した日本・東洋の古美術品が、この美術館のコレクションの中心になっている。






開館の経緯
岡田は1952年(昭和27年)、箱根美術館を開設した。同美術館は現在も、日本陶磁器専門の美術館として箱根強羅にある。

岡田の没後の1957年(昭和32年)に、姉妹館として熱海美術館(のち「救世熱海美術館」と改称)が開館した。この熱海美術館は収蔵品の質・量に比して展示施設が貧弱であったため、新美術館の開館が望まれていた。岡田の生誕100周年にあたる1982年(昭和57年)を機に、現在のMOA美術館が開館した。「MOA」とはMokichi Okada Associationの頭文字である。

岡田を教祖とする世界救世教では、自然との共生とともに、芸術の美を享受することを重要な信仰上の柱としている。岡田の美術品収集は、太平洋戦争終戦後から没年の1955年までの短期間に集中的に行われた。MOA美術館の代表的収蔵品として知られる、野々村仁清『色絵藤花図茶壺』は、1955年、岡田がその死の直前に旧・長尾美術館から購入したものである。当時死の床にあった岡田は、茶壺入手の報せを聞いて満足そうであったという。

美術館は岡田茂吉が教団の聖地として箱根神仙郷と同時期に造園を始めた熱海瑞雲郷の敷地内に建設されており、救世神殿や救世会館などの諸施設が併設されている。敷地内にはその他、約360本の紅白梅を始め、桜、ツツジ(約40種類3,600本)、アジサイ、萩などが植えられ、季節の花を楽しむことが出来るようになっている。
エスカレーター - エントランスから丘の上にある美術館本館までは、長大な地中エスカレーターを乗り継いで上る。エスカレーターの壁面や天井は照明が刻々と変化し、色が変わるようになっている。エスカレーターの途中に「円形広場」があり、催し物などに使用されている。

ムア広場 - 本館前の、相模灘を望む広場。ヘンリー・ムーア(当館では「ムア」と表記)のブロンズ彫刻『王と王妃』が設置されていることからこの名がある。













MOA美術館 「黄金の茶室」

2012年05月02日 | ★美術館★
「黄金の茶室」は史上に著名な太閤の黄金の茶室を復元したもので、豊臣秀吉が天正14年、京都御所に組立式の黄金の座敷を運び、自ら茶を点じて正親町天皇に献じた、その当時の諸記録に基づいた忠実な復元です。黄金の茶室は、豊臣秀吉が造らせた平三畳の随所に黄金が施された茶室である。


茶室の概要
壁・天井・柱・障子の腰をすべて金張にし、畳表は猩々皮、縁(へり)は萌黄地金襴小紋、障子には赤の紋紗が張られていたとされる。また使用にあたっては黄金の台子・皆具が置かれたという。


容易に運搬可能な組み立て式の茶室であり、御所や名護屋城など各所に運び込まれて披露された。また、北野大茶湯でも披露されている。


千利休の監修と伝えられる。


豪華絢爛な点、権力誇示に使用された点、組立て式である点など、あらゆる点において通常の茶室建築とは一線を画しており、その醜美には賛否両論あるものの、数ある茶室の中でも最も名の知られたものの一つである。
写真は復元された黄金の茶室(2011年12月18日撮影)


茶室は、茶事の主催者(主人、亭主)が客を招き、茶を出してもてなすために造られる施設である。日本庭園の中に造り、露地を設けるのが一般的であったが、近年ではホテルや公会堂、商業ビルの一角などに造られることもある。また茶道部があるために、キャンパス内の片隅に茶室を構えている大学も多い。


茶道の稽古をしたり、茶を楽しむために炉が切ってある和室(畳のある部屋)も一般に茶室と呼ばれるが、本項では主に四畳半以下の草庵風茶室について述べる。


草庵風茶室

草庵風茶室は、田舎屋風の素朴な材料(丸太、竹、土壁など)を使って造られた。縁側からの採光を土壁でさえぎり、そこに必要に応じて「窓(下地窓、連子窓、突き上げ窓など)」をあけることにより光による自在な演出が可能となった。一間を基本としていた床の間も部屋の広狭、構成に応じて四尺、五尺とバリエーションを増し、そのデザインも、「室床」「洞床」「壁床」「踏み込み床」など、多様な展開を見せる。室内には中柱を立て亭主座と客座の結界とした。こうして狭い空間の中に客と亭主が相対する、濃密な空間が生まれた。


利休以前

足利義政が東山に建てた(慈照寺)東求堂には四畳半の部屋があり、茶室の元祖と言われることがある。また、村田珠光が市中の草庵として四畳半の茶室を造った。


千利休の茶室

茶室を独自の様式として完成させたのが千利休である。利休は侘び茶の精神を突き詰め、それまでは名物を一つも持たぬ侘び茶人の間でしか行われなかった二畳、三畳の小間を採り入れ、にじり口をあけた二畳の茶室を造った。なお、二畳と言うアイデアが秀吉のものなのか、利休のものなのかについては諸説ある。
茶室待庵(国宝)は千利休の作とも言われるが、侘び茶の境地をよく示している。


にじり口は、千利休が河内枚方の淀川河畔で漁夫が船小屋に入る様子を見てヒントを得た、とされる。しかし、にじり口の原型とみられる入り口は、武野紹鴎の時代の古図にも見られ、また商家の大戸に明けられた潜りなど同類の試みは多種見られることから、利休の発明とは言えない。


利休は一方で、秀吉の依頼で黄金の茶室を造っている。これは解体して持ち運びできるように造られていた。黄金の茶室は秀吉の俗悪趣味として批判されることが多いが、草庵の法に従って三畳の小間であり、それなり洗練されたものも持っている。黄金の茶室も利休の茶の一面を示しているという見方もある。

利休後の展開

古田織部、小堀遠州らも茶室を造っている。茶室は小さな空間であるが、様々なパターンがあり、多様な展開を見せている。利休の孫宗旦は究極の侘びを追求して、利休が試みてすぐ廃した一畳台目という極小の茶室を生み出した。これに対して、古田織部、小堀遠州、織田有楽斎、金森宗和ら大名茶人は、武家の格式を持つ書院風茶室や小間と言えど三畳前後のゆとりのある茶室を生み出した。千家歴代もそれぞれに新たな茶室を好んでいるが、その試みは必ずしも宗旦が目指した侘びに徹したものとはなっていない。

茶室は小規模でもあり、解体して他の場所で再建することも比較的容易である。現に如庵(国宝)は、京都の建仁寺から東京の三井家、大磯の三井家別荘、犬山の名鉄有楽苑、と度々移築されている。また「写し」と称して、名席と評される茶室を模して建てられることもしばしばある。

茶室の概要

仮に茶室が単独でポツンと建てられていたら殺風景なものである。茶室に至るまでの空間の演出が大切である。

客がいきなり茶室に通されることはなく、まず寄り付きや座敷などへ案内される。庭へ出て小さな門をくぐる。茶室までの通り道は、飛び石を配した露地となっていて亭主の心遣いにより打ち水が打たれている。途中の待合に腰掛があり、ここでしばらく待つ。迎えでた亭主の合図に従い客は茶室へと向かう。茶室の前につくばいがあり、ここで手水を使う。茶室には、にじり口という小さな入口から、頭をかがめて体を入れる。にじり口に入ってまず目に入るのが床の間である。墨蹟窓からの光に照らされた床には、四季に合わせた掛け軸、花があしらわれている。通常床前が上座であり正客席となる。夏には風炉が置かれ、冬には炉が切られ、そこが亭主の座る手前座である。手前のための明り取りとして風炉先には下地窓が開けられている。客が着座すると亭主が勝手口から出てきて挨拶をし茶事が始まる。天井は低く、窓からの光も必要最小限に絞られて、主客ともに茶事に集中する。懐石を戴いた後一旦露地に退出するが、また茶室に戻り、まず濃茶を一同回し飲み、ついで薄茶を味わった後、客はこの一期一会の場から静かに退出する。

にじり口には頭を下げなければ入れないので、貴人を迎える場合のため、にじり口とは別に貴人口(立ったまま入れる普通の障子戸)を設けることも多い。給仕のために勝手口とは別に給仕口をもうける事もある。

建築史上の意義

わび茶を信奉する十六世紀の茶人が民家を芸術の原形として関心を持ち、その中に寂びた美をみつけて芸術という高さにまでに昇華させ、茶室建築と数寄屋建築を生みだすにいたった。
最小の空間の中に豊かな広がりが与えられており、日本建築の特色あるジャンルになっている。
住宅建築に影響を与え、いわゆる数寄屋造りを生んだ。
出典:ウィキペディア フリー百貨辞典より。