北海道僻地医療問題は相変わらず深刻です…。
名前の通り霧の多い霧多布岬がある浜中町もその一つ。
そんな過疎の地で47年間、小さな診療所の医師として携わった方が故 道下俊一先生。
札幌北大からあえて地方へ。
十勝沖地震。津波の惨事。
厳しい冬。整っていない診療用具。それはそれは大変だったそうです。
そんな長年にわたる診療記が話題になりテレビドラマにもなりました。主人公の医師役はやはり北海道出身の水谷豊さん。
もちろん私も見ましたよ。
書籍に書かれていましたが、機器不足でレントゲンを撮ることができなかったそうです。
そこで昭和24年の夏の終わり、坊主頭で学生服を着た定時制高校に通う素直で手塚治虫ファンの少年を採用したそうです。女性スタッフだけの中で現像から検査、彼は運搬などを一生懸命真面目にこなしてとても喜ばれたそうです。
先生の息子さんの誕生日のこと。皆はオモチャ、三輪車、絵本なでをプレゼント。でも少年はお金がないから色紙に「のらくろ」「冒険ダン吉」を見事なタッチで描いてお祝いしてくれました。
それが評判を呼び釧路病院機関紙の表紙やカットを任されることに。少年は嬉しそうに楽しそうにペンを走らせていたそうです。
高校卒業の際「このまま、この診療所にいてもいいですか?」と少年。
先生は「それも一つの選択だ。でもこのままだとずっと雑用係だぞ。
私は君の漫画の才能は素晴らしいと思う。何のコネもないから紹介はできないが1回挑戦してみなさい。それで駄目ならばいつでもここに帰ってきなさい。」「でも東京に行かなければならないです」「若いんだからやりなおしはきく。やってみろ!」
そう言って励まし送り出した。
そしてその後、音信不通となり10年が経過。
そんなある日、少年から一枚のハガキが届いたそうです。
「先生、なんとか米の飯が食べれるようになりました」
本名ではないからずっと気づかなかったけれど、何とその時には日本中で爆発的な人気を博していた「ルパン三世」の作者モンキーパンチがその少年だったのです!
モンキーパンチさんは取材を受ける度に「今の自分があるのは道下先生のおかげ。最初に私の絵を認めて評価してくれた人だった」と語っていだそうです。
故郷の浜中町をいつまでも愛して町おこしにも協力してくれていたモンキーパンチさん。あのルパン三世の作者が道産子だと知った時は私もビックリしました。と同時に誇らしい気持ちにもなりましたね。
峰不二子ちゃんはずっと憧れの女性です。テレビの特番で知りましたが、モンキーパンチさんの学生時代のクラスメイトが不二子ちゃんのモデルなんだそうですね。その方が出演していたけど、上品なお婆ちゃんでしたよ。
そんなモンキーパンチ先生が肺炎で亡くなったそうです…
初代銭形警部のベテラン声優さん、故 納谷悟朗さんも函館出身なんですよ!