共生の小路ーこの時代に生きる私たちの社会に、警鐘とひかりを見いだす人々の連帯の輪をここにつくりましょう。

社会福祉の思想は次第に成熟されつつあった。しかし、いつのまにか時は崩壊へと逆行しはじめた。

官房機密費に群がる御用言論人実名が明らかに

2012年02月04日 19時50分04秒 | Weblog
植草一秀の『知られざる真実』

2010年5月 7日 (金)

米国、官僚、大資本が支配する日本。その手先として跋扈(ばっこ)する利権政治屋とマスゴミ。この五者を政官業外電悪徳ペンタゴンという。


竹下登元首相が、小沢一郎氏攻撃を主目的として「三宝会」という偏向報道結社を主宰したことが明らかにされている。
TBSがニュース番組のアンカーとして起用した後藤謙次氏は「三宝会」の世話人を務めていた人物である。
小泉政権以降、メディアの偏向が急激に激しさを増した。
テレビ番組が改編され、政権を批判する論客が画面から排除された。
情報統制時代に台頭した人物が多数存在する。情報偏向番組が著しく増加した。
政権交代が実現したいま、メディア浄化を実現しなければならない。事業仕分けが実施されているが、抜け落ちている機関が存在する。NHKである。NHK受信料はNHK設立根拠法に基づく規定によって定められている。
視聴者の資金によってNHKが成り立っているのなら、NHKの運営に視聴者の声が反映されなければならないはずだ。
第二次大戦後、GHQの方針により、放送委員会が組織された。放送委員会はNHK会長の人事権を保持するなど、強い権限を付与された組織だった。
放送委員会は1947年に、政府から独立した機関としての放送委員会を特殊法人として設立する提案を放送委員会法案要綱として策定した。しかし、GHQの対日占領政策が大転換したために、雲散霧消してしまった。
本来は、全国の放送聴取者から選挙で選ばれた30ないし35名の委員が放送委員会を組織して、政治から独立したNHKを実現するはずであった。
ところが、日本の民主化措置は腰砕けとなり、吉田茂首相が主導して電波三法が制定され、NHKは政治権力の支配下に置かれることになった。
NHKの料金体系も予算も、政治の管理下に置かれることになった。その結果、NHKは視聴者の視点に立つのではなく、永田町・霞が関に顔を向けて運営されるようになった。
視聴者からの料金収入で経営を賄う以上、事業仕分けの対象にNHKを組み込み、視聴者の意向を反映する意思決定形態導入を検討するべきである。
政権交代によって実現しなければならない重要課題に、マスメディア浄化=マスゴミ撲滅を掲げねばならない。
民間放送の偏向問題について、野中広務元官房長官が極めて重要な事実を摘示された。この問題を山崎行太郎氏がブログで取り上げられ、さらに副島隆彦氏が、改めて『学問道場』で取り上げられた。
偏向報道問題を斬るうえで、この斬り口がもっとも分かりやすい。情報工作を行う上での鉄則は、痕跡を残さないことだが、この斬り口で点検するなら、工作活動の痕跡が鮮明に確認できる。官房機密費の非公開が永遠に持続すると考えたのだろう。


中略


 副島隆彦氏が「今日のぼやき」で紹介された新聞報道の一部を転載させていただく。
●「機密費、評論家にも 野中元長官、講演で証言」
琉球新報 2010年4月23日 
 野中広務元官房長官は、23日に那覇市内で開かれたフォーラムの基調講演の中で、自身が長官在任中(1998年7月~99年10月)、先例に従い、複数の評論家に内閣官房報償費(機密費)から数百万円を届けていたことを明らかにした。
 野中氏は講演で「言論活動で立派な評論をしている人たちのところに盆暮れ500万円ずつ届けることのむなしさ。秘書に持って行かせるが『ああ、ご苦労』と言って受け取られる」と述べ、機密費からの提供が定期的にあったことを明かした。
 野中氏は自民党政権時代に、歴代の官房長官に慣例として引き継がれる帳簿があったことにも触れ「引き継いでいただいた帳簿によって配った」と明言。その上で「テレビで立派なことをおっしゃりながら盆と暮れに官邸からのあいさつを受けている評論家には亡くなった方もいる」と指摘した。一方で機密費の提供を拒否した評論家として田原総一朗氏を挙げた。
 官房長官の政治的判断で国庫から支出される機密費は、鳩山内閣が昨年11月に内閣として初めて2004年4月以降の小泉内閣から現在までの月別支出額を公表したが、使途については明かしていない。
<用語>内閣官房報償費(機密費)
「国の事業を円滑に遂行するために状況に応じて機動的に使う経費」とされる。国庫からの支出は年間約12億円で、使途の不透明さが問題視されており、民主党は2001年に一定期間後の使途公表を義務付ける法案を国会に提出した。
●「野中広務氏が講演で暴露」
朝日新聞 2010年5月1日
「言論活動で立派な評論をしている人たちのところに盆暮れ500万円ずつ届けることのむなしさ」
 野中広務元官房長官は、23日に那覇市内で開かれたフォーラムの基調講演の中で、自身が長官在任中(1998年7月~99年10月)、先例に従い、複数の評論家に内閣官房報償費(機密費)から数百万円を届けていたことを明らかにした。野中氏は講演で
「言論活動で立派な評論をしている人たちのところに盆暮れ500万円ずつ届けることのむなしさ。秘書に持って行かせるが『ああ、ご苦労』と言って受け取られる」
と述べ、機密費からの提供が定期的にあったことを明かした。
 野中氏は自民党政権時代に、歴代の官房長官に慣例として引き継がれる帳簿があったことにも触れ、「引き継いでいただいた帳簿によって配った」と明言。
その上で「テレビで立派なことをおっしゃりながら盆と暮れに官邸からのあいさつを受けている評論家には亡くなった方もいる」と指摘した。
野中「(政治)評論をしておられる方々に、盆暮れにお届けするというのは額までみんな書いてありました。まあ、あいさつ程度のことですけども、盆暮れやってるのを見て、ああ、こんなことをせなならんのかなと。あんだけテレビで正義の先頭を切るようなことを言っている人が、こんな金を平気で受け取るのかなと思いましたね。」
一方で機密費の提供を拒否した評論家として田原総一朗氏を挙げた。
(ここまで『副島隆彦の学問道場』様からの転載)
官房機密費から言論人への資金提供については、過去にも報道されたことがあったが、明確に責任は問われなかった。
政権交代が実現し、官房機密費の使途公開が進展し始めている。
田原氏は官房機密費を受け取らずに偏向報道を展開していたのであり、官房機密費がすべてではないが、少なくとも官房機密費を受け取って発言を行っていた人々は、その道義的責任を追及されるとともに、発言内容を根本から再検証しなければならないことになる。
鳩山政権は言論人に対するこれまでの資金提供のすべてを全面公開するべきである。この全面公開が腐敗しきった日本の言論空間浄化の第一歩になることは間違いない。



小沢一郎攻撃メディア談合組織「三宝会」


2010年2月21日 (日)


小沢一郎氏に対するメディアの集中攻撃が続いている。何も知らない市民は悪徳ペンタゴンの情報工作の罠に嵌ってしまう。竹下元首相が組織した小沢一郎氏攻撃の談合組織である「三宝会」の暗い影は、いまも日本の情報空間を大きく歪めているのである。
平野貞夫氏の著書
『平成政治20年史』販売元:幻冬舎
 わが友・小沢一郎 販売元:幻冬舎
を読んで、小沢一郎氏の実像を正しく認識することが求められる。
 「日々坦々」様が2月18日付産経新聞サイトに掲載された平野貞夫氏に対するインタビュー記事を掲載されたので、以下にその内容を転載させていただく。
「鳩山政権の混迷が批判されている原因は、民主党議員が昨年8月30日の歴史的意義を理解していないことです。120年の日本の議会政治史で、初めて有権者によって行われた政権交代なのです。民主党議員はあれよあれよという間の政権交代だったから、その意義を深く考えていない。
これは私と小沢(一郎)さんとで一致している意見なのですが、鳩山政権は日本で初めて民衆が作った国家権力で、昨年の衆院選は無血革命だったといえます。権力を握ってきた自民党、官僚はそれを失ったわけですから、認識して危機感を持っていますが、肝心の民主党議員が認識していない。
民主党議員は官僚支配を変えると言いますが、そのためには知恵を出さなくてはだめです。本当に変えるためには官僚を説得して共通の認識を持ち、丁寧にやっていくべきです。官僚と戦うべき時は戦わなければなりませんが、それは根本の問題でやるべきで、端っこの問題で国民の人気を取ろうと官僚いじめのようなことはやっちゃいけません。
鳩山政権の問題は「政府は鳩山、党は小沢」と分けて口を出さないようにしたことです。これは実は民主党のドロドロした権力闘争によるものなんです。反小沢グループが小沢さんを政策協議にかかわらせないようにした。それで一番困っているのは鳩山(由紀夫)さんです。鳩山さんは小沢さんも含め主要な人とよく話をしていけばいい。
民主党だけでなく、与野党含め親小沢か反小沢かというレベルのことが対立軸になっているのは、日本の政治にとって深刻な問題です。それを助長させているのは渡部恒三(元衆院副議長)さんですよ。その影響を受けた民主党の反小沢グループが、渡部さんの実態を知らないのがまた問題です。渡部さんは自民党田中派時代からトラブルメーカーでしたが、言葉巧みにいろんな人に取り入り生き延びてきました。渡部さんは「小沢さんとは友達だ」と言いながら、意図的に小沢さんの評判を落とそうとしている。そのことに民主党議員も国民も気づいてほしい。
親小沢の人にも言いたい。「小沢独裁」と言われますが、私たちは新進党、自由党時代、小沢さんと徹底的に議論しました。今の民主党議員は小沢さんを孤立させてます。堂々と議論を仕掛ければ、きちっと対応する人ですよ。小沢さんは腰を引いてお世辞を言う人は嫌いなんです。それを小沢さんの威を借りて自分の力に利用しようとする。反小沢も親小沢も国会議員として自立できてません。
(政治資金規正法違反事件で)小沢さんは不起訴となりましたが、当然です。私は政治行動をともにしてきましたが、小沢さんは不正なカネをもらったことは一切ありません。検察の捜査は不正なカネをもらったはずだということが前提でした。検察は民衆が官僚政治を打破するために作った政権を、本格政権にしようとしている小沢さんの政治的暗殺をもくろんだわけです。これと同じことは戦前、帝人事件(注)で行われました。軍部と検察が組んだファッショだったのですが、その結果、日本は戦争に突き進んでしまいました。
一方、起訴された石川(知裕衆院議員)さんに対する議員辞職勧告決議案が出されましたが、憲法違反の可能性が高い。憲法上、有権者に選ばれた国会議員の身分は重く、政治資金規正法の虚偽記載で問われるものではない。実は政治資金規正法には虚偽記載の構成要件が書かれていないんです。しかし、検察はこの法律を利用して立件した。戦前の特高警察と同じ手法です。
民主党が夏の参院選で単独過半数を獲得したら、新しい国の柱を作るべきです。ひとつは健全な市場経済システム、共生社会をどう作るか。政策では納税者番号制などで所得や格差を是正しなければなりません。その後は年金、医療制度を確立して社会福祉目的税を創設することです。
安全保障の確立も重要です。米国とともに国連という世界の警察機構を整備し、日本も世界の平和秩序のために各国と同じことをする必要があります。小沢さんの「日米中正三角形論」が批判されてますが、それは単に比喩(ひゆ)であって、目くじらを立てる話じゃありませんよ。米国も中国も大事だということです。今の政治家で日米関係の重要性を一番分かっているのは小沢さんです。(聞き手 高橋昌之)
ひらの・さだお 昭和10年生まれ。35年、法政大学大学院修了後、衆院事務局入りし、前尾繁三郎議長秘書などを経て、平成4年に参院選高知選挙区初当選。小沢一郎・現民主党幹事長とは、5年に自民党を離党して新生党を結成、新進党、自由党と政治行動をともにしてきた。16年に政界を引退したが、小沢氏の懐刀として知られる。
帝人事件 昭和9年、帝人(帝国人造絹絲)株をめぐる贈収賄事件で、帝人社長や大蔵省次官ら16人が起訴され、当時の斎藤実内閣は総辞職に追い込まれた。その後、12年になって起訴は虚構で犯罪はなかったという理由で被告は全員無罪となった。立件は政界右翼と軍部が検察を使って行った策謀との説もある。斎藤内閣の総辞職以降、軍部の独走体制は強まった。」
(ここまで「日々坦々」様からの引用)




小沢一郎氏攻撃メディア談合組織「三宝会」②

2010年2月20日 (土)


昨日、民主党の小沢一郎氏に対するメディア攻撃の談合組織である「三宝会」についての記事を掲載した。まったく気付かなかったが、「Electronic Journal」様が2月18日付記事「三宝会/小沢潰しを狙う組織」(EJ第2756号)を掲載されていた。そのなかで平野貞夫氏の著書『平成政治20年史』を紹介されていた。驚くべき偶然であるが、「Electronic Journal」様の記事について言及できなかったことをお詫びしたい。
「Electronic Journal」様がすでに紹介されているが、平野貞夫氏は昨年8月に『わが友・小沢一郎』を出版された。総選挙を目前にして、小沢氏の実像を国民の前に明らかにした。
『わが友・小沢一郎』にも「三宝会」についての言及がある。以下に該当部分を転載する。
「村山首相が政権を投げ出し、橋本龍太郎が後継首相となるや、竹下は自分の意に反して政治改革を進め、自民党を壊そうとする小沢を潰すため、「三宝会」なる組織を作った。設立の目的は
「情報を早く正確にキャッチし、(中略)、行動の指針とするため、(中略)立場を異にする各分野の仲間だちと円滑な人間関係を築き上げていく」
というものだった。
 メンバーは最高顧問に竹下、政界からは竹下の息がかかった政治家、財界からは関本忠弘NEC会長ら6人、世話人10人の中で5人が大于マスコミ幹部、個人会員の中には現・前の内閣情報調査室長が参加した。
 要するに新聞、テレビ、雑誌などで活躍しているジャーナリストを中心に、政治改革や行政改革に反対する政・官・財の関係者が、定期的に情報交換する談合組織だ。この三宝会が最も機能したのが「小沢バッシング」で、ここに参加したジャーナリストのほとんどが現在でも小沢批判を繰り返している。「三宝会」の活動の成果は、日本中に小沢は「剛腕」「傲慢」「コワモテ」「わがまま」「生意気」などと、政治家としてマイナスのイメージをまき散らしたことだ。それでも小沢は政界で生き残つているのだが・・・・・・。」
 この文章のすぐ後に
「「小沢はカネに汚い」は本当か」
と題する文章が続くので、併せて紹介する。

「もうひとつ、小沢が誤解されている難題に、田中、竹下、金丸とつながる「政治資金」の問題がある。これについても、意図的な情報操作が続いているので、私なりに誤解を解いておきたい。
 平成5年6月、小沢と羽田孜氏が率いる「改革フォーラム21」(羽田派)が自民党を離党して、「新生党」を結成した時、結党準備をしていた私は、「新党で政治改革を断行するには指導者に問題があってはならない」と思った。そこで、友人の法務省(検察庁)幹部に、念のため羽田氏と小沢にカネの疑惑がないか、いわゆる身体検査を要請した。もちろん、本人たらには内緒だ。2日後、回答があり、「2人とも金銭問題をはじめ、心配はいらない。新しい日本をつくるため頑張ってくれ」との激励まで受けた。
 私は安心して結党準備を進めたが、その中で小沢が「政治資金」に厳しい考えをもっていることを実感した。ちょうど経団連が政治献金を停止した直後だったが、改革派の事務総長が「組織としてではなく、個人として経団連方式の献金先を紹介する」と好意を示してくれた。小沢にこれを報告すると小沢はこう言った。
「頼みたいところだが、改革を看板としている。丁重にお断りしてください」
 それで私はその日の内に、経団連事務総長に会って断った。その帰り、玄関で毎日新聞の社会部記者とすれ違った。そうしたら、翌朝の毎日新聞に「平野参院議員が経団連に献金要請」と書かれた。その記事を見た羽田新生党党首と細川護煕日本新党代表に個別に呼ばれ、私が「本当は献金を断りに行ったんです」と説明したら2入からはこう言われたのである。
「どうして相談してくれなかったのか。断ることはなかったのに・・・・・」
 もうひとつある。
 高知のゼネコン「大旺建設」の役員である私の従弟から電話で「新生党の小沢さんに期待している。結党祝いに3000万円寄付したい」との申し入れがあった。これも小沢に報告したが、小沢からは、こう返された。
「大旺建設は経営状態が悪いと聞いている。寄付してもらうことは心苦しい」
 それで、わたしは断った。
 これらの例でも、小沢の政治資金に対する感性が理解できよう。」
 私は平野貞夫氏をよく存じ上げているが、小沢一郎氏の側近として活動を続けてこられた唯一無二の存在であり、歴史の事実を平野氏ほど正確に記述されてきた政治家はほかにいない。
 小沢一郎氏に対するさまざまな評価が世間に流布されているが、小沢氏の実像に迫ろうとするなら、まずは平野氏の記述する小沢一郎氏を読むことが第一歩であろう。
 小沢氏の側近であり続けたことで、その点を割り引く必要はあるかも知れないが、平野氏の著作の最大の特徴は、歴史の事実をありのままに記述されている点にある。小沢氏に対して論評を試みるなら、まずは歴史の事実を正確に知ることが第一歩になるべきで、その意味で平野氏の著作に目を通すことは不可欠である。



対小沢一郎氏激烈メディア攻撃黒幕「三宝会」

2010年2月19日 (金)

平野貞夫氏が『平成政治20年史』で「三宝会」について言及されたことを、「Aobadai Life」様が2009年5月16日付記事

「後藤キャスターは秘密組織・三宝会の世話人だった。」

に記されている。

 「三宝会」は竹下元首相の指示で1996年につくられたもので、新聞、テレビ、週刊誌、政治家、官僚、評論家が集まり、自民党にとって最大の脅威だった小沢一郎氏をメディアの力で抹殺する作戦が行われたのである。
 この「三宝会」の最高顧問は竹下登氏であり、
世話人に、
高橋利行 読売新聞 世論調査部長
後藤謙次 共同通信 編集委員
芹川洋一 日本経済新聞 政治部次長
佐田正樹 朝日新聞 電子電波メディア局局長付
湯浅正巳 選択出版
福本邦雄 (株)フジインターナショナルアート 社長
などが名前を連ねる。

 法人会員には、
全国朝日放送(株)、(株)ホリプロが名を連ね、
 個人会員の企業別会員数は、
朝日新聞(5名)、毎日新聞(3)、読売新聞(3)、日経新聞(3)、共同通信(3)、
TBS(1)、日本テレビ(2)、フジテレビ(1)、テレビ朝日(2)、
講談社(2)、文芸春秋(3)、プレジデント(1)、選択(1)、朝日出版社(1)
等となっている。
 2006年4月に小沢一郎氏が民主党代表に就任した。本ブログで繰り返し指摘してきているように、悪徳ペンタゴンは小沢一郎氏を最重要危険人物と認定し、2006年4月以降、一貫して小沢氏に対する執拗な攻撃、失脚工作を重ねてきている。
 そのなかで、特筆すべきは、メディアが連携して小沢氏攻撃を拡大させてきたことと、検察権力が不正に政治利用されてきたことである。
 小沢氏に対するメディアの集中攻撃の原点が「三宝会」にあると見て間違いないだろう。
 上記名簿のなかに、読売新聞世論調査部長とニュースキャスターを務めている後藤謙次氏の名前があることに特段の留意が必要だろう。
 メディアは政治権力により支配され、コントロールされてきたのだ。政権交代は実現したが、旧権力である悪徳ペンタゴンは、権力の喪失に執拗に抵抗している。メディア、検察などの組織内に、旧権力の走狗が多数潜んでおり、旧権力の走狗として、反政権交代の工作活動をいまなお展開しているのだと考えられる。
 メディア・コントロールの実働部隊としての「三宝会」の詳細を明らかにすること、この「三宝会」と現時点での反鳩山政権活動を展開するマスメディアとの関わりを、じっくりと時間をかけて検証する必要がある。
 主権者国民は、まず、政治権力による情報操作、メディア・コントロールが現実に実行されてきた現実を知り、その現実を直視するところからスタートしなければならない。現実を直視することにより、世界の歪んだ実相が見えてくるのであり、主権者国民として取るべき対応が明らかになってゆくのだ。
 現在の政治状況を平成20年の歴史のなかに正確に位置付けるためにも、平野貞夫氏の著書『平成政治20年史』を改めて熟読する必要があると思われる。
(追補)本ブログ2月15日付記事、2月16日付記事に、森喜朗氏の政治団体「経済政策懇談会」代表者石川俊夫氏について、「地獄への階段」様が石川氏が森ビル株式会社六本木ヒルズ運営本部タウンマネジメント室課長職にあることを調べられたことを「父さんの日記」様が紹介された旨の記述を掲載した。
 この点に関して、森ビル株式会社より同社の石川俊夫氏が「経済政策懇談会」代表者でなく、「経済政策懇談会」代表者とは別人であるとの連絡をいただいた。この連絡を受けて本ブログの該当部分を削除するとともに、事実と相違する記事の紹介によって関係者にご迷惑をお掛けしたことを謝罪申し上げます。



障害者が輝く組織が強い

2012年02月04日 18時08分51秒 | Weblog
社会福祉法人が育てた「現代アート」の新星たち 共同スタジオ「アトリエ インカーブ」《前編》

2010年4月1日 木曜日
高嶋 健夫


 経済の成長戦略が問われる日本。そのためには、新たな付加価値を創り出していく企業の存在が不可欠だ。そこでカギを握るのは、企業を支える人材にほかならない。

 どうやって1人ひとりの能力を最大限に引き出すか――。この解の1つが、「ダイバーシティ(多様性)」だ。年齢や性別などバックグラウンドの異なる人材が互いの立場を尊重しながら議論する中から生まれる「集合知」が、組織に創造性や活力をもたらすという考え方である。

 実際、日本企業でも女性や外国人を登用する動きが出始めている。ただ、見逃されている層がある。「障害者」だ。

 法定雇用率1.8%(従業員56人以上の民間企業の場合)をクリアしている企業は、2009年6月現在いまだ45.5%に留まる。本当の意味で障害者を「戦力化」できている企業は稀なのが現状だ。多くの企業経営者や人事担当者にとって、障害者雇用は「渋々ながら取り組んでいる義務」あるいは「やむを得ず支払っている社会コスト」というのが本音であろう。

 だが、「障害のある社員」が生産や販売、顧客対応、さらには商品企画・開発の現場で、「即戦力」として企業に貢献しているケースは少なくない。健常者にはない斬新な着眼点や発想力を持つ彼らの働きは、社内に刺激を与え、組織を活性化する。それにより、障害者の活躍の場がさらに広がる。こんな好循環が、企業パフォーマンス向上に結びつき、新たな企業価値を創り出している。

 「なぜ、彼らはうまくやっているのか?」。本コラムでは、障害者雇用の最前線の取材を通じて、「企業におけるダイバーシティ=人材力を最大限に発揮する経営」の真髄を探っていく。

 大阪市の南端、平野区瓜破(うりわり)。地下鉄谷町線喜連瓜破(きれうりわり)駅から車で10分ほど走った大和川の護岸沿いの住宅地に、現代美術界が注目する新進気鋭のアーティスト集団の活動拠点がある。共同スタジオ「アトリエ インカーブ」だ。

 運営しているのは社会福祉法人素王(そおう)会(今中博之理事長)。ここは知的障害のある人のための「指定生活介護事業所」、いわゆる通所施設なのだ。現在ここには「絵を描くことが大好き」な24人の知的障害者が通っている。それぞれが思い思いに絵筆を取り、自由なスタイルで自分が描きたい絵画の制作に明け暮れている。

 そんな福祉施設の活動の中から、コンテンポラリーアートの世界で脚光を浴びる作品が続々と生み出され、ニューヨークをはじめとする国内外の有力画廊が作品を取り扱う「新進作家」が何人も誕生している。中には、1点数百万円もの値が付く作品もあるほどだ。

 アトリエ インカーブのアーティストたちの作品は、世間の人々が一般に抱くような“知的障害者が描いた上手な絵”といった固定観念をはるかに突き破り、「芸術作品」として斯界に確固たる地位を築いているのである。

 ある人は「現代アートの奇跡」とまで言う。けれども、それは偶然の産物ではなく、ある社会起業家の挑戦から生まれた成果なのである。一言にまとめるなら、「既存の社会システムの仕組みを巧みに組み合わせて、“障害者のチカラ”を引き出す1つの社会実験」と言えるかもしれない。

 まずは、その急成長の軌跡を追ってみよう。

ニューヨークで脚光を浴びた

 最初に火の手が上がったのは5年前、現代美術の聖地・ニューヨークだった。2005年、アトリエ インカーブに所属するアーティストたちの作品を収録したCD-ROMを複数の有力画廊に送ったのがきっかけだった。

 反応は早かった。すぐさま、新進作家の発掘で定評のある大手画廊、フィリス・カインド・ギャラリーから「ぜひ、うちで扱わせてほしい」というオファーが入った。

 ニューヨークでは正式な美術教育を受けていない作家による「アウトサイダーアート」として高く評価され、アートフェアへの招聘、『ニューヨーク・タイムズ』紙をはじめとするマスコミの取材が相次いだ。

 評判は燎原の火のように広がり、その後、彼らの作品はサンフランシスコ、東京、さらにはパリと、世界各地の大手画廊でも扱われるようになっていった。

 これを契機に、美術館やギャラリーでの作品展も開催されるようになる。アトリエ インカーブの名が日本国内でブレークしたのは、2008年1月に大阪市港区のサントリーミュージアム[天保山]が企画・主催した「現代美術の超新星たち――アトリエ インカーブ展」。5人の所属アーティストの作品約60点を集めた国内初の単独展として開催され、12日間の期間中に約6000人の来場者を集めたほか、マスコミの取材件数が同ミュージアム開館以来の新記録を作るという大きな反響を呼んだ。

 この作品展で本格デビューしたのは、次の5人の作家たちだ。彼らがアトリエ インカーブを代表するアーティストと言っていい。

寺尾勝広さん
 1960年生まれ。父親が経営する鉄工所で溶接工として働いた経験から、鉄をモチーフにした個性的な作品を次々と発表。アトリエ インカーブの作家の中では最も早くから注目され、高い人気を誇る。

湯元光男さん
 1978年生まれ。主に建築物や虫、鳥などを題材にして、色鉛筆を使った緻密で幻想的な作風を確立している。

新木友行さん
 1982年生まれ。大好きな格闘技をモチーフに、色鉛筆によるドローイングやCG(コンピューターグラフィクス)で、大胆にデフォルメした独特の躍動美を描く。

吉宗和宏さん
 1984年生まれ。細部をそぎ落とした人物像や造形など、独自の色彩表現で絵画、版画から立体造形までを手掛けるマルチプレーヤー。

武田英治さん
 1980年生まれ。雑誌広告に現れた文字やデザインをモチーフに、独自の構図を丹念に描き出す作風で人気を集める。


 サントリーミュージアム展の成功によって、同じ年の2月には東京・六本木の国立新美術館のギャラリーで新木友行さんの個展「PURORESUMAN(プロレスマン)」が開かれるなど、その後も年間数回のペースで作品展開催が続くようになった。

続々と画壇デビュー

 そして今年2月には、新たなステージを迎える。浜松市美術館で7人の作品を集めた同館主催による「アトリエ インカーブ展」が開催され、既に売れっ子作家に成長した寺尾さんや新木さんらに続いて、新たに塚本和行さん、信谷弘光さん、北池裕一さんの3人の作家が本格的な画壇デビューを果たしたのである。


“規格外”の障害者福祉施設

 もっとも、こうした華々しい評価は決して、向こうから一方的にやって来たというわけではない。明確な理念と戦略によって着実に歩を進めてきた「仕掛け人」がいる。

 素王会の理事長で、アトリエ インカーブのエグゼクティブディレクターでもある今中博之氏その人だ。自身も軟骨形成不全症による下肢障害があり、大学でインテリアデザインを専攻。商業施設の内装などディスプレー分野で最大手の乃村工藝社勤務を経て、想いを持って同アトリエを立ち上げた社会起業家である。

 今中氏の存在抜きに、アトリエ インカーブの個性的な活動は語れない。その独特な施設運営には、今中氏の障害者福祉と現代美術界への「問い掛け」、もっと言えば「反逆のメッセージ」が込められているように見える。

 アトリエ インカーブの運営理念を一言で表現すれば、「障害のある人たちが持てる潜在能力や才能をいかんなく発揮できる環境を整え、自らの能力で自立できる場を提供する」ということに尽きるだろう。そのために今中氏は試行錯誤を繰り返しながら、福祉制度に基づく公的支援とビジネスの世界で培ったプロモーション手法、市場競争原理に則った成果報酬などを巧みに融合した、ほかに類例のない独自の施設運営スキームを編み出したのである。

 実際、2002年に開設されたアトリエ インカーブは、何から何までが“規格外”の障害者福祉施設だ。

 住宅や町工場、配送センターなどが点在する住工混在のありふれた郊外風景の中に現れるその建物自体が、既に多くのメッセージを発信している。小さな畑の隣に建つ鉄筋コンクリート3階建てのアトリエは、一級建築士である今中氏自身が設計したもの。

 コンクリート打ちっ放しの外壁、1階には吹き抜けのあるロビー兼食堂、入り口脇には板張りの小さなテラスもある。2~3階はアーティストたちの作業スペースで、明るい採光が印象的だ。

 1人ひとりの“居場所”が決まっていて、アーティストたちはそれぞれ創作意欲の赴くままに、自由に画材を選び、絵筆を取る。別棟には、大きな作品を創作するための工房も用意され、目下のところは寺尾さんや新木さんらが次の大作に挑んでいる。どこを見ても、「アートスタジオ」と呼ぶにふさわしい造りになっている。

誰にも強制されない

 ハード面だけではない。運営手法や財務管理、スタッフの採用方針などソフト面でも、一般の障害者施設とは一線を画す異色の取り組みを続けている。

 作業時間は原則として、平日の午前10時~正午まで。お昼になると、みんな一緒に食堂で昼食をとり、後片付けと掃除をして家路につく。人によっては居残りをして、午後1~2時まで制作を続ける人もいるという。それももちろん各自の自由で、時には描くことに飽きてソファーで横になり、昼寝をしてしまう人もいる。

 一般的な障害者ための授産施設のように、お仕着せのメニューが決まっているわけではない。「誰にも強制されず、自分が好きなことだけに打ち込める」。そんな環境作りをひたすら追求しているのである。それは、感情・感性が繊細で傷つきやすい人が多い知的障害者にとっての望ましい生活環境であると同時に、アーティストにとっては理想的な創作環境でもあるからだ。


障害者のチカラを引き出す“社会実験”
共同スタジオ「アトリエ インカーブ」《後編》
2010年4月8日 木曜日
高嶋 健夫

通所する知的障害者がのびのびと才能を発揮できる環境作りに徹する「アトリエ インカーブ」(大阪市平野区)。その理念や運営方針を端的に表すユニークな“所内用語”がある。

 ここでは、通所者を「クライアント」と呼んでいるのだ。その理由を、アトリエ インカーブのエグゼクティブディレクターでもある今中博之氏は「施設にとって利用者はあくまでもお客様ですから」と事もなげに言い切る。

 ここに通う知的障害のある人は現在24人。定員は20人なのだが、通所希望者が後を絶たないため、「ギリギリいっぱいまで受け入れています。それでも空き待ち状態が解消されない」と今中氏は嬉しい悲鳴を上げる。今もわざわざ東北地方から引っ越してきて、住民票も移して通所を続けるクライアントがいるほか、評判を聞きつけた保護者などからの問い合わせは毎日のように全国各地から寄せられるという。

 通所希望者の受け入れ条件は「絵を描くのが好きなこと」だけ。ただし、単純に絵が好きなら誰でもOKというわけではない。事前にこれまでに描いた作品を提出してもらい、その人のスキルや才能、意欲、適性などをきちんと評価したうえで、本人や家族との面接を行って最終的に受け入れるかどうかを判断する。

 「1人でも多く受け入れたいが、キャパシティに限界がある以上、シビアに選考せざるを得ない」(今中氏)。

実力主義による自立支援

 入所を果たした後も、時に「実力による厳しい選別」が通所者を待ち受けている。すべての「クライアント」がそのまま「アーティスト」として独り立ちできるわけではない。画廊での委託販売も、美術館での作品展示も、すべては「第三者による客観的な評価」に委ねているのである。

 例えば、ある美術館で作品展を企画した場合、誰の作品を取り上げるかは、あくまでもその美術館の学芸員が決定する。作品展の前には必ず24人全員の作品を一堂に並べ、一切の情実なしで自由にピックアップしてもらう選考会を開くのが決まりだ。当然、いつも選ばれる人もいれば、期待していたのに選ばれなかった人も出てくる。アーティストとして作品を扱われたことがあるのは現在のところ、10人ほどに留まっている。

 実力勝負は障害のあるなしには関わらず「渡る世間の常」だし、ましてやアートの世界は作品がすべて。それはその通りだが、なぜそこまで「客観的な評価」をシビアに貫くのか。

 その理由は、作品の売り上げがそのままクライアントの「個人収入」になる仕組みにしているからでもある。通所者の作品はアトリエ インカーブの公式ウェブサイトや各地の画廊などで販売しており、作品が売れた場合は諸経費を除いた全額が当人の口座に払い込まれる。

 では、作品が単独では売れない人の収入はどう確保しているのか。アトリエ インカーブでは、クライアントの作品を使用した様々なオリジナルグッズを開発し、同じようにウェブサイトや各地の美術館のショップなどで販売している。ブローチやストラップなどのアクセサリー類、ブロックパズル、Tシャツ、トートバッグなど、その数は20点ほど。これらのオリジナルグッズの売り上げは一律「24分の1」が各人に還元される。つまり、通所者全員でシェアする仕組みにしているのである。

 障害のある人でも、持てるスキルや才能が「仕事」となり、そこから「収入」を得て、「自立」できる仕組みを作る。障害者の自立支援を、こんな明確な成果配分方式で実践しているのである。

福祉のスキルは後からついてくる!

 他方、クライアントのケアに当たる事業所スタッフの陣容も異彩を放っている。スタッフは現在11人いて、うち常勤スタッフは今中氏も含めて9人だが、全員が美術大学やデザイン学校などで学んできた「美術系の専門人材」ばかり。以前に福祉の専門教育を受けたり、障害者施設に勤務したりした経験がある「福祉の専門人材」は1人もいないのだ。

 「先入観なしで『作品が面白い』と感じ、制作の現場に飛び込みたいという人が欲しい。それがここでの採用の第一条件。福祉的なマインドは人間なら誰もが持っているもの。クライアントへの敬意と作品への愛情があれば、福祉のスキルは後からでもついてくるはずですから」と今中氏は強調する。

 スタッフの役割は重く、求められるスキルの水準も高い。全員が「2つの仕事」、つまり通所者の日常生活の面倒を見る“福祉施設の介護業務”と、オリジナルグッズの開発・販売や作品展開催などに伴う渉外業務といった“アトリエ関連業務”を同時並行でこなさなければならないからだ。

それだけに、選考は厳しいものとなる。まず履歴書と共に在学中の作品を提出してもらい、書類選考で最初のふるいにかける。そのうえでまず今中氏らが面談。これがいわば1次試験。それを通過したら、今度は実際に障害のある人たちと一緒にアトリエ インカーブでの生活を体験してもらい、それを通過して初めて正式採用となる。これはつまり、クライアントたちによる2次試験なのだ。

 「福祉施設である以上、障害のある人たちとの関係作りが一番大切。クライアントに認められなければ採用できない」と今中氏はきっぱりと言い切る。作品展の選考に漏れて落ち込んでいるクライアントがいれば優しく見守り、創作意欲がなくならないようにフォローするのももちろん彼らの仕事。それがなければ、実力本意のアトリエ運営は機能しない。

 では、どんなタイプの人材が適しているのか。「おっとりとした空気感を持っている人ですね。知的障害のある人は強い言葉で何か言われたり、自分の世界に入り込まれたりするのが苦手な人が多い。その距離感を理解してくれて、ほんわかと接してくれる人が大好きなんです。反対に、距離感がつかめない人は絶対にダメ。優しい言葉遣いで上辺をどんなに取り繕っても、彼らは即座に見抜いてしまうんです」。今中氏は笑顔でこう答えてくれた。

 それらスタッフの人件費をはじめ施設の運営費用はどう賄っているのだろうか。「施設の運営には年間5000万円以上かかるが、すべて公的助成でやりくりしています」と今中氏。「障害者の生活保障はあくまでも国の仕事。それをベースにして、民間の発想とノウハウで彼らの才能を発掘して自立の道を支援していく。これが障害者福祉のあるべき姿なのではないか」。この点が、今中氏が絶対に譲れない主張なのだ。

 とはいえ、アート作品やグッズの売り上げを各クライアントの「個人収入」に優先的に回す仕組みにしているため、運営は楽ではない。最大の悩みは、スタッフの給与水準をなかなか上げられないこと。「彼らの意欲と使命感に支えられているのは確かです。社会福祉法人はどこも同じような低空飛行状態。スタッフには感謝しているが、いつまでもこの状態では、せっかくいい人材が来てくれても長くは続かない。もっと福祉の仕事への評価と報酬を国の責任で引き上げてほしい」と今中氏は訴える。

「公が守り、民が育てる」仕組みを目指して

 福祉の世界で異端の施設経営に挑む今中氏も、元は普通のビジネスマンだった。今年47歳。両下肢に先天性の障害を抱えてはいたが、大学卒業後、乃村工藝社にデザイナーとして入社し、2003年まで同社デザイン部に在籍。企業ショールームや展示会、商業空間デザイン、さらには医療機関や障害者施設などのソーシャルデザインの仕事に幅広く取り組んできた。

 「障害者とアート」に関わるきっかけは、十数年前に会社を休んでアメリカに行ったこと。その当時は体調も思わしくなく、空間デザインの仕事にも行き詰まりを感じていた。「独創性とは何か」に迷い、自分の仕事にも疑問を感じ始めていたという。

 何かを見つけたいと考えて訪れたアメリカで「アウトサイダーアート」と出会い、衝撃を受けた。「結局のところ、アートとはオリジナリティであり、それは専門教育を受けたからといって身に付くものではない。そう考えるようになりました」と今中氏。

 帰国後しばらくして、たまたま、ある知人から絵の好きな知的障害者を紹介された。「彼は絵を描くのが好きで才能もあるのに、その才能を発揮できる場所がない。既存の福祉作業所や企業の特例子会社では、望んでいない仕事をやらされるだけで、収入も微々たるもの。この現状を何とかしたいと、いわゆる無認可作業所を開設したのが、アトリエ インカーブの第一歩になったんです」。

 素晴らしいコンテンツがあるのに、それを発表する場がなく、アーティストとして活動するシステムもない。そんな知的障害のあるアーティストをどうやって育成していくか。その答えとして、今中氏がたどり着いたのが、「国が守り、民間が育てる」現在のアトリエ インカーブの仕組みだ。「公50%・民50%の自立支援システムの確立」。それが今中氏の目指すゴールなのである。

 それは、自身が生まれてこの方ずっと悩み、苦しんできた「障害」と「表現」への1つの解答であり、「福祉」と「美術界」の現状に対する強烈なアンチテーゼでもある。

 現在の今中氏はアトリエ インカーブの所属アーティストの作品が「障害者アート」と呼ばれたり、「アウトサイダーアート」に分類されたりすることを極端に嫌う。「彼らの作品はあくまでも『コンテンポラリーアート』の一形態に過ぎないのであって、障害のあるなしや、専門教育を受けたかどうかは全く関係ない」。今中氏にとって、アートの評価は「作品の質」がすべてなのである。

 「どんな芸術にも『アートパトロネージュ』、つまり、才能ある作家を発掘する目利きと、それを育てていく支援者が必要。私はその役割をビジネス社会に期待しています。多くの企業がアトリエ インカーブの作家たちを育ててくれるような仕掛けを作り続けていく。それが私の仕事だと考えています」

 そんな今中氏とアトリエ インカーブの挑戦はまだ始まったばかりだ。6月には、出身地の京都市壬生に、待望の常設展示場「ギャラリー インカーブ」を開設する予定だ。アトリエ インカーブと同じように、社会福祉法人素王会の“直営”で運営する。

 さらに、大きなプロジェクトも実現に向けて動き出した。アトリエ インカーブを最初に認めてくれたニューヨークでの初の単独作品展の開催である。当地のジャパン・ソサエティー・ギャラリーで2011年夏に「アトリエインカーブ現代美術展(仮称)」を開催する計画で、2年ほど前から準備を始めている。「リーマンショックの後遺症でスポンサー集めには正直、苦労していますが、何とかやり遂げたい」と決意を新たにしている。

 その先にはさらに、ニューヨークに“素王会直営”のギャラリーを開設するという大きな夢もある。「社会福祉法人という世界に誇れる日本独自の福祉制度から生まれた現代アートを、広く世界に発信し続けたい。それも私の使命だと思っています」と今中氏は力強く結んだ。

今中 博之(いまなか・ひろゆき)氏
1963年京都市生まれ。一級建築士。乃村工藝社デザイン部を経て、2002年社会福祉法人素王会を設立、理事長に就任。イマナカデザイン一級建築事務所も主宰。大阪成蹊大学芸術学部情報デザイン学科准教授、金沢美術工芸大学非常勤講師。 『観点変更』(創元社、2009年)など著書多数。


高嶋 健夫(たかしま・たけお)
フリーランス・ジャーナリスト

1956年東京都生まれ。79年早稲田大学政治経済学部卒業後、日本経済新聞社に入社。宇都宮支局、東京本社編集局産業部、日経ベンチャー編集(現・日経トップリーダー、日経BP)、出版局編集部次長兼日経文庫編集長などを経て、99年からフリーランス・ジャーナリスト。1989年に眼病を患い、視覚障害者(軽度の弱視)になる。その体験も踏まえて財団法人共用品推進機構に参加。99年4月~2011年5月まで機関誌「インクル」編集長を務める。専門分野は高齢者・障害者ビジネス、中小・ベンチャー企業経営。昨年4月から日経ビジネスオンラインで「障害者が輝く組織が強い」を連載し、同11月に『障害者が輝く組織』(日本経済新聞出版社)として刊行。『R60マーケティング』(共著、日本経済新聞出版社)、『クリスマス・エクスプレスの頃』(共編著、日経BP企画)、『共用品白書』(共編著、ぎょうせい)など著編書多数。