かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

清見糺の秀歌鑑賞 86

2020-11-12 18:15:44 | 短歌の鑑賞
   ブログ版清見糺の秀歌鑑賞 11 トカトントン    鎌倉なぎさの会 報告 鹿取未放


86 辞世はと問ふひとあらば埋み火の消(け )ぬまに遂ぐる恋と答へん

 「辞世の言葉は何ですか」と問う人がいたら、「埋めた火が消えないうちに恋を遂げたい」と答えよう、という意味。「埋み火」と「消(け )ぬ」は縁語。古歌ふうの作りなので、いつもは新かなっづかいの作者だが旧かなづかいで書いている。「埋み火」は古歌の常套語だが、過去に遂げることができなかった恋で、まだ意識の底にちろちろと燃えている、決して忘れているわけではない、その恋を遂げて死にたい、というのであろう。
 ところで作者の第一歌集『風木悲歌』を島田修三が「かりん」で評して次のように書いている。大学で古典和歌を研究する島田の鋭く暖かい、学ぶことの多い指摘である。(ちなみに、「灰がちになりてわろし」は「枕草子」冒頭からの引用である。)(鹿取)

 例えば、こういう歌々のもつ独特の味わいは短歌享受史のタメがなければ、ただの遊びの歌という印象によって霧散してしまう。たとえば、平凡に市井に生き、すでに老境に入りつつある作者に今なおひそむ鬱勃たる思いを歌う一首目(鹿取注:埋み火の深き思いを灰がちになりてわろしと軽く去なすな)の周辺には、藤原公実の〈埋み火の下に焦がるる甲斐なしや消えも消えずも人の知らねば〉(堀川百首)をはじめとする〈埋み火〉の古典歌群が揺曳している。〈埋み火〉という歌語が喚び起こす、不遇の人生だの人知れず焦がれる甲斐なき思いだのといった伝統的余情をたっぷりと纏わせ、かつ〈深い〉〈灰〉といった縁語を古風に配しながら、しかし清見は〈埋み火〉の正当性をしたたかに歌おうとしている。これは古典和歌にはない発想であり、それゆえ、そこには清見の独創にしてシリアスな自己表出があると読まなければなるまい。(島田修三)
           
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