かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

清見糺の一首鑑賞  84

2020-11-10 19:29:31 | 短歌の鑑賞
   ブログ版清見糺の秀歌鑑賞 11 トカトントン                                 鎌倉なぎさの会 報告 鹿取未放

           
84 羽根飾( ガスコン )のシラノの鼻よりなお凄いツカモトクニヲの鼻のぎらぎら
                「かりん」95年12月号

 シラノは一七世紀の実在の人物。生前清見氏からエドモン・ロスタンの戯曲『シラノ・ド・ベルジュラック』の話をよく聞かされ。読んだことのない人のために、ここでは戯曲の中のシラノを紹介しておく。文武両道に秀でたマルチ人間でかつ毒舌家・人情家だが鼻の大きいぶおとこのシラノ。以前から従姉妹のロクサーヌに恋をしているがぶおとこ故に告白できないでいる。ところがあろうことかロクサーヌに呼び出され羽根飾( ガスコン )隊の美男の同僚となるクリスチャンへの恋のとりもちを頼まれる。クリスチャンもロクサーヌに惚れていることを知ったシラノは、文才のないクリスチャンに替わってせっせと彼女に恋文を書く。しかしクリスチャンは戦死、嘆き悲しんだロクサーヌは修道院に入って15年、シラノは彼女を慰めるために週一度通って面白可笑しい話をしている。しかし敵の多かったシラノは修道院に行く途中瀕死の傷を負うが、その傷を隠して何食わぬ顔でロクサーヌを訪ねる。やがて傷を知られるところとなり、話のいきさつからロクサーヌは自分に熱烈なラブレターを送り続けたのは亡きクリスチャンではなく目の前の瀕死のシラノであることを悟る。この話、ロクサーヌの膝に倒れ込んでシラノは死ぬのだが、お伽話のようにお姫様の膝で美しい王子に変わったりはしない、醜いまま死んでいく。その時の台詞「これが私のpanacheだ。」というのだが、「panache」には武力に秀でた青年兵の集まり羽根飾( ガスコン )隊の意味も、「こころいき」という意味もあり原作では掛けて使われている。つまり、「一点の染みもない羽根飾りのようなこころいきを持って私は死んでいくのだ」と。
 清見の歌、詩をこの世の至上のものと考え、その技にかけては人後に落ちないと自負し、豪語するシラノにツカモトクニヲを重ねている。ツカモトクニヲはシラノよりももっと強い詩に対する心意気と自負をもっているというのだろう。ただ「なお凄い」「ぎらぎら」という言葉には、あまりの自負の強さに幾分辟易としている気分が表されている。塚本の亡くなる一〇年も前の作である。
 ※ このレポートを発表した後、たまたまテレビをつけたら緒形拳が一人芝居で
  「白野弁十郎」をやっていた。『シラノ・ド・ベルジュラック』を日本の幕末
  から明治期に移し替えた翻案である。とても迫力のある舞台だった。最期に「シ
  ミもつけず汚れ目ひとつつけず持っていくその宝物は、それはそれは男の心意
  気!」と叫ぶところが何ともカッコよかった。(鹿取)
コメント
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