DALAB情報発信用ブログ:OpenCAE+GPGPU+Peridynamics編

DALABで行っている研究活動の中で、OpenCAEやGPGPUや破壊解析の取り組みについてまとめてゆきます。

場が作られるということ

2005年09月19日 09時58分46秒 | Weblog
一期一会という言葉がある。調べてみると、「一期」は仏教用語で人が生まれてから死ぬまでの間を意味し、「一会」は主に法要などでひとつの集まりや会合を意味しており、仏教とも関係の深い言葉とある。それで、この一会というのが「場」をということになるが、これは単に情報を交換するだけではない、もっと深い意味があるように思う。場を共有することによって、集うものが浸る、何かの雰囲気が大事なのだろう。
つまり、情報交換だけなら、文書の交換やメールや電話など、いくらでも簡単に済ませる方法はある。私たちの生活も、これらの仕組みを使って随分と効率化してきた。これを否定することはしないし、重要性を疑ってもいない。しかし、だからこそ、時間をかけて集う場の意味はより一層大きくなっていると思う。例えば、数ヶ月も前に約束し、事前に準備を進め思いをめぐらして、大きなお金と時間を費やして行う研究打合せでは、高々2時間程度の集まりに、相当のコストがかかっていることになる。つまり、このかけたコストに応じて、この2時間の価値が決まってくることになる。集う人々は、めったに会えないからこそ、ここで思いを打ち明けるし、折角来たからと貴重なアイデアを披露したり、場に触発されて思いもつかない方向に展開したりする。いつも集まるスタッフと、単に打合せを2時間するのとはまったく異なる場が、ここには生まれることになる。
時間と言うものの重要性を痛感するこのごろでは、この場を作ると言うことに、随分と意識するようになって来た。何かを作り上げるためには、この場を作る必要があって、これを積み重ねていくことで大きな流れを作ることが出来る。このごろ共同研究を活発に行っているが、このときにも、場を共有することが不可欠であって、これが要であることが分かってきた。忙しいからと打合せをおろそかにしていては、決して物事は進まないのである。とにかく、何かするには、会って話をしないことには、始まらないのである。メールや文書では、決して仕事は出来ないと思う。
限られた貴重な時間であるから、やたらウロウロしているわけにはいかない。しかし、時間をかけて作られた打合せでは、何らかの大きなチャンスが待っていると思いたい。明日からも打合せ出張が続くが、何か次の一歩を見つけ出せることを願って、期待して赴いてゆくことにしよう。

研究日誌H170917

2005年09月19日 08時30分10秒 | 研究室情報
=今日は土曜日であるが、午後に共同研究の打合せをした。有意義であった。
 担当学生を無理に呼んで同席させたことは意味があったと思う。今後に期待!
 後期の研究の大きな段取りが出来たので、後は、何とか実現にむけて努力
=その後は家の色々としたことをこなした。
 研究活動という意味では、休日はあまりに進まないので、要検討だ!
 学生が本当の研究スタッフになるには、随分と長い時間が必要になる。教育だから?


人が成長すること

2005年09月17日 17時33分57秒 | Weblog
高専の研究室は、まだ研究の意識も無い20歳の学生を中心に組織されるが、この運営が非常に難しい。一部の志が高い学生を除いて、そもそも意識が無いのであるから、自主的な活動に任せていては、何も進まない。ある程度は、強制的に詰めてゆけないとダメだ。しかし、現実的な時間の制約とか能力によって、本質的に無理なこともある。
しかし、柴田の基本的スタンスは、「無理をして背伸びをしないと成長しない」だと思う。大学時代の指導教授はこれが口癖で、こちらの都合などまったく無視(しているように)して、次々に課題を与え、研究を引張って行った。こちらが風邪で倒れそうでも、大事な試験があっても、仲間との飲み会があっても、そんなことは個人的なことであって、研究の計画に影響を与えることは出来ず、唯ひたすら無理をして、がむしゃらに進んできた。その結果は、紛いなりにも博士になって、一応一人前の研究者として活動が出来るという貴重な結果を生んだ。あのときに無茶苦茶な頑張りが、今の自分を作っていると思う。今でも苦しいときには、あの時と比べればましだと思える。風邪引きながらも論文が完成せず、夜中の2時ごろ後輩の下宿に駆け込んで、数時間コタツで仮眠をして、市販薬で体をごまかして、それでも完成にこぎつけた事は数々である。
研究と言う真剣勝負の世界で言えば、高専学生は赤ん坊と同じで、基本的躾が必要な段階であるから、つべこべ言わずやれ!と命令することが必要になる。だが、そこはなまじ大人になっているので、バイトがあるとか試験があるとか、言い訳をして逃れようとする。今の学生さんを見て、最も感じるのは、自分の限界を高めようとする意識が、著しく低いということである。何でも程ほどで済まそうとして、背伸びをしようとしない、だから小さい人物にしかなれない。20歳の一番無理が出来るときに、この有様では、他人事とは言え、これでは先が思いやられる。
人間は成長するゴムひものように例えられる。若いやわらかい時に、無理して引き伸ばしておくと、それを基盤にして、伸びやすく切れにくいゴムひもになる。だから、大人になって勝負のときにも、思いのほかゴムひもは伸びて、大きな成果を達成できるのであろう。しかし、若いときに適当にしか伸びていないと、いざと言うときには、硬くなってブチッと切れるのが落ちだろう。今、世の中の第一線で活躍する人は、多分に、若い時代に1つの道を決めて、それにがむしゃらに努力してきた人たちで、決して才能だけで成功しているのではないと思う。
高専の学生さんは、中学校卒業の素質段階では、それほど低いわけでは無い。しかし、試練の無いぬるま湯的5年間で、自分の限界を安易に決めていて、「無理して背伸びしよう」という意識が無い。これではダメだ。しかし、この手の話を学生にしても、それで良いと言う、つまり小さい幸せを望んでいて大きな野望を持っていないようだ。しかし、これだけ変化の激しい世界では、小さな幸せというのは儚く潰されるだけで、野望を持ちながら限界を突破してゆく志がないと負け犬になるだけだ。
社会的に見てもバブルの清算が済んできて、新たな成長を模索している前向きの時代なのだから、飛躍のチャンスは度々訪れるだろう。その時、蓄えた力を発揮して、大きな成功をつかむ可能性に期待しようよ。そういう志の高い仲間と研究活動を進めたいと思っている。

研究日誌H170916

2005年09月17日 06時03分01秒 | 研究室情報
=研究室の活動において必要なこと、当たり前だが、学生との信頼関係だろう。
 学生は色々な性格や能力があり、本音で強く出ないと、潜在的な能力を引き出せない
 しかしあまり強く出ても、折れるか無視されるだけで、だめだろう
=研究は直接会って、情報交換するのが一番で、話せば大体分かってくれる
 試験中にも関わらず5名の5年生が、何らかの形で研究を進めた
 他の研究室に比べたら、非常に頑張っているほうだと思うが、満足はしていない
>研究室の整備状態が、研究活動の進展にもつながっているので、整理整頓!!
>グリッドWを整備しなおすことも考えないといけないな。

タバコを吸う人へ

2005年09月16日 14時02分09秒 | Weblog
柴田は、酒もタバコもやらないので、これらを批判する資格があると思う。しかし、酒やタバコそのものに罪はなくて、あくまでこれを扱う人間の問題である。先日は、酒の話題があったが、今回はタバコについて、一言、言わせてもらおう。
まず、タバコは紳士のたしなみであってほしい!中学生がトイレで隠れて吸うものではないし、団地のベランダでホタルように吸っているのも惨めである。ソファーに座って、紫煙をくゆらすのは、それはそれで大人びて良い物である。
だが、柴田が一番許せないのは、車窓からの吸殻ポイ捨てであり、タバコの灰を窓から落とす輩も同じだ。道路は灰皿ではないのだ!車窓からゴミを投げ捨てるのはあまり見ないから、タバコだと許されると思っているのか、小さいから良いと思っているのか、どちらにしても人格を伺う行為だと思う。いくら偉い立派な学者でも、もしこのような行為をするやつが居たら、それは馬鹿者だと言って良い。
どんな車だって、車内に灰皿がついているのだから、そこに入れれば良い。何で、外に捨てるのだ?タバコが好きなんだったら、吸殻まできちんと始末してこそ、愛煙家としてタバコを吸う資格があるのだと思う。テレビCMでも盛んに喫煙マナー向上を呼びかけているが、タバコの害は煙の医学的問題だけでなくて、風紀を乱す輩の原因になることが、社会の異常とも言えるタバコへの締め付けになっていると思う。そう思わない?愛煙家の方々!
車のことで言えば、子供が車やバスの窓から顔や手を出すのと同じように、タバコを持つ右手を、だらりと外にぶら下げている様子を見ることがあるが、みっともないぞ。精神年齢を疑われるだけだし、この類の輩に限って、右手に持つ吸殻を必ず道路に捨てることになる。
もう、車はみなエアコンがあるのだから、極端には窓が開かなくても良いのではとさえ思う。

好物のとんかつ

2005年09月16日 11時28分13秒 | Weblog
異様に忙しくなると、どうしても現実逃避したくなくって、思いのたけをブログに書き綴ることになる。今日は、好物のとんかつの話。このごろブログが味気なくなってきたので、珠には楽しい話を。
柴田はまだ若いので、魚よりも肉が好きで、牛よりも豚である。焼肉でも料理でも、豚肉の方を選んでしまう。それは味のこともあるが、何とか牛と言って、異常に高価な牛肉があるが、それほど美味しいとは思えないし、牛の癖に!と思ってしまう。むしろ、豚という言葉に蔑みの意味を込めながらも、美味しく豚肉を食べている人間は、もっと豚を慈しんで尊ばなければならないと思う。豚の命と引き換えにとんかつを食べれることを感謝したい。
しかし、脂身いっぱいのロースに衣をつけて挙げるのであるから、油まみれの食品であって、柴田のような体型にとっては、食べ過ぎてよいものではないが、雑食となった人間が昔の肉食を思い出すのか、異様に食べたくなる、脂を欲しがるときがあって、今でもちょくちょく行ってしまう。
それで、柴田は中京圏に居るので、独自の食文化である味噌カツが、最も好物となっている。岐阜では、とんかつ屋さんというと味噌カツがメインになることが多い。全国チェーンのとんかつ屋さんでも、岐阜や豊橋では味噌カツがあるが、東京の同じ店では、そんなものはない。とんかつはソースで食べるものらしく、なぜか、味気ない感じがしてしまう。とんかつは和食だから、味噌だろう!と思ってしまう。
しかし、メジャーな食べ物として、とんかつ屋というのは全国にあって、いろいろなところで食べ歩きが出来る。しかし、ほとんどはソースだが、それはそれで美味しいところも多い。
柴田が最もすきなとんかつ屋は、東京神保町にあるいもやである。ご存知の方も多いと思うが、いつも込んでいる白木のテーブル席だけの小さなお店である。昼食にはメニューもなくて、とんかつのみである。大盛りのキャベツと炊きたてご飯で、大きなとんかつをソースで食べるもので、絶品である。これだけの量と質で、700円とは破格だと思う。あれだけ込んでいるから、薄利多売なのだろうけど、ほかの店も見習ってほしいものだ。ただし、緊張感が漂う雰囲気なので、子供が行く場ではないし、女性がおっとり召し上がる場でもなく、あくまでとんかつを食う店である。
柴田は東京出張のときには、敢えて遠回りしてでも、この店でとんかつを食べるようにしているが、それだけの価値があると思う。実は、この店が本当にすきなのは、テーブルの上にあるかつお風味のたくあんで、これだけでご飯が食べられるぐらいに美味しい、本当は漬物はちょんともらう程度なのだろうが、柴田の場合、店員の目を盗んで山盛りにしてしまう。それぐらい美味しい。柴田もこれを家庭でほしいと思い、いろいろなたくあんを買ってはみたが、未だこの味が手に入らない。
グルメが流行ったときもあったが、これはこれで美味である。まだの方は、ぜひ、ご賞味あれ。

研究日誌H170915

2005年09月16日 05時34分47秒 | 研究室情報
=非常勤の再試で、研究室には3時間しか居られなかった。しょうがない。
 でも、実はPHSカードのおかげで、メールだけは確保しているので、指示はしている
 結局、直接会って話し合いをすることが最も大切なので、時間確保が重要
=学校の用事もあるにはあるが、どうしても研究中心の思考と活動をしてしまう。
 このブログにも再三言っていることだが、適材適所、これが最重要だぞ!
>取り敢えず、研究室の活動計画を整理しないといけない。
 論文作成計画、助成金応募計画、などなど、これがないと始まらないね。

絶対取り戻せない時間

2005年09月15日 11時53分01秒 | Weblog
40歳を目前にして、強く思うのは、時間だけは絶対に取り戻せないということだ。最も明確な周期である1日は、毎朝起きて、毎日学校に行って、毎日寝ている。同じことの繰り返しのように思える。学校にいると、4月に新学期になって、新しいスタッフで研究室を作って、卒業研究まで追い込んで、1年が終わってゆく。こうしてみると、同じ事を繰り返しているようだが、実は、同じ時間は絶対に来ない!同じように見える毎日が、実は少しづつ変化していて、その中にいる自分も変わっている。つまり、昨日の自分は自分ではなく、過去の自分になってしまう。だから、また明日やれば、来年こそやれば、次の時期にやれば、これらは、まったく無意味だ。
今日のこの一瞬は、もう2度と来ないのであって、時間は一方向に流れるもので、決して止めることも戻すことも出来ないのだと、痛感する毎日である。とは言いながら、だらっと寝転んでテレビを見る幸せもあって、そうは割り切れないものであるが、そこはそれ、バランス感覚と言うもので、メリハリのある上手な人生を目指したいと思っている。

懲りないと気が済まない

2005年09月15日 11時38分27秒 | Weblog
柴田の性質の1つとして、「懲りないと気が済まない」というのがあるらしい、何でも徹底的にやって飽きるまでやらないと気が済まないそうだ。それは、食事にも言えて、柴田はバイキングが好きなのだが、これは気が済むまで食べたいという欲求が強いからである。また図書資料なども全て揃えないと気が済まない。やるだけやってと言うと聞こえが良いが、要は懲りるまでやっているので、周りには迷惑を掛けているようだ。
個人的な趣味の問題なら良いのだが、このごろ、共同研究を鬼のように集めたので、それを実現するために、鬼のよう動き回っている。頼りにされたのだからと思い、何でも引き受けた結果である。自分としては闇雲になっているわけではなくて、それなりに戦略があってやっているのだが、傍から見ると無謀に見えるらしい。共同研究は、「持ちつ持たれつ」「ギブ&テイク」が基本になるのだが、それなりに旨く展開していると思っていたが、全貌を見渡すと、すごいことになっていた。
取り敢えず、学生スタッフの努力に大きく期待しているところだが、今後は出張の嵐がやってきて、開発の地獄が来て、すごい状況になりそうだ。少し、後悔しているのだが、とある本では、「迷った時は勇気に要る選択をしろ!」だそうなので、これを実践してきた結果である。この死に物狂いの努力が、未来を開いてくれることを期待したい。
ちなみに、40歳を目前にして、やっとバイキングには興味が薄れ、普通に食べるだけで、十分満足するようになった。しかし、魚が旨いと言うほど、枯れてはいなくて、やはりとんかつが恋しくなってしまう。

研究日誌H170914

2005年09月15日 05時10分43秒 | 研究室情報
=研究論文のやっつけで作ろうとしたが、思い留まった。
 せっかく色々と検討してきたので、きちんと業績となる論文にしたい。
 完成度挙げた論文を、計画的に作成する調子を、取り戻す機会にしたい。
=グリッド研究がそれなりに成果を挙げてきたので、情報発信に注意しよう。
 研究費を確保するだけではダメで、それを使って成果を出して、発表しないと!
 成果が次の研究費を誘導することになるので、これは絶対条件だな。
=10月に向けての論文作成計画をきちんと考えてゆきたい。