DALAB情報発信用ブログ:OpenCAE+GPGPU+Peridynamics編

DALABで行っている研究活動の中で、OpenCAEやGPGPUや破壊解析の取り組みについてまとめてゆきます。

研究日誌H170918

2005年09月19日 22時12分22秒 | 研究室情報
=3連休の真ん中、最も休みを満喫している。ビバ連休!状態である。
 ということで、研究はまったく進んでいない。まずいが本当だ。
 一応、メリハリのある研究活動ということで、今日は休日だ。実家の用もあるし。
=残り少ない人生(あと40年ぐらいはあると思いたいが)で、何が本当に大事なのかを考えて行動するようになった。誰のために時間を使ってあげないといけないのか?冷静に考えてみると、色々思うところがある。

情報を遮断すること

2005年09月19日 22時02分36秒 | Weblog
柴田は起きているときは、殆どの時間に電子メールにアクセスできるようにしている。これはこれで便利で、思いついた時に連絡が取れるし、仕事のメールを事前に確認しておくことが出来て、それなりの良いことは多い。しかし、このごろやりすぎかなと思えるときもある。
柴田は単なる高専教員であるから、それほど過密スケジュールでもないし、分刻みの予定が詰まっているというわけではない。だから、常にメールを読めることが本当に必要なのかと、考え直すことがある。何か、メールにつながっていないと不安になる恐怖症になっているのではないかと思う。
実は、仕事の殆どが計算機上で行われるので、仕事中もメールを見られるのであるが、これが仕事の能率を大きく落としているのではないかと思う。ビジネス書を読むと、電話やメールは時間を決めて処理しようとある。そうだなと思う。電話のようにメールに対応していては、メールの特性である時間をずらせる長所を生かしていないことになる。まずは、電子メールは時間を決めて読み書きして、だらだらメール接続することを止めよう!
次にテレビについて。このごろテレビは殆ど見ていない、台風や選挙など必要に迫られれば見るが、そのほかのときには、正確に追われて、見る時間も余裕も無いのが本音である。しかし、生活に支障はないし、テレビを話題にするコミュニティにも属していない、これで子供と遊ぶ時間が確実に増えているのだから、これも良いことである。そこで、目的が無いのに付けっぱなしにして、だらだらテレビを見るのは止めよう!
最後に携帯電話である。これに限っては、奇跡的に柴田は使わずにすんでいる。周りの人々がほぼ全員持っている中で、よく頑張っていると思う。携帯電話は、ポケベルを使っていたような頻繁にやり取るする営業の仕事では不可欠だと思うが、一般人が、ましてや子供が持つ必要はないと思う。持ってしまった人には信じられないが、携帯電話を持たなくても、十分仕事は出来るし生活も出来る。緊急連絡など必要不可欠な場面を否定はしないが、いつも携帯するほど、必要な道具とは思えない。勇気を持って、携帯電話を携帯することを止めよう!
と考えてゆくと、ネットワークやテレビや携帯電話、現代のコミュニケーション手段であるが、本当に忙しい人と言うのは、これらを上手に活用していて、だらだら使うことなんかしてないと思うな。暇をもてあます人々に限って、だらだらネットサーフィンして、だらだらテレビを見て、だらだら携帯でメールや電話をしているのだ、柴田もそうだが心当たりがある人は考え直した方が良いと思う。この記事の題目にもあるが、これらを上手に使うには、意図的にこれらを拒絶すること「情報の遮断」が不可欠なのだ。意志を持って、情報を遮断することによって、本当の豊かな時間が得られるはずだと思う。
何も難しいことは無い、たまの休日ぐらいネットワークを離れテレビも止めて、携帯も使えない山の中に行けば良い。今はハチがウロウロしているが、たまに涼しい風のふく森の中では、ストレスが解けてゆく様である。下世話な社会から少し抜け出して、少しだけ雲に近いところで過ごすのも、わるくは無いと思うだが。

場が作られるということ

2005年09月19日 09時58分46秒 | Weblog
一期一会という言葉がある。調べてみると、「一期」は仏教用語で人が生まれてから死ぬまでの間を意味し、「一会」は主に法要などでひとつの集まりや会合を意味しており、仏教とも関係の深い言葉とある。それで、この一会というのが「場」をということになるが、これは単に情報を交換するだけではない、もっと深い意味があるように思う。場を共有することによって、集うものが浸る、何かの雰囲気が大事なのだろう。
つまり、情報交換だけなら、文書の交換やメールや電話など、いくらでも簡単に済ませる方法はある。私たちの生活も、これらの仕組みを使って随分と効率化してきた。これを否定することはしないし、重要性を疑ってもいない。しかし、だからこそ、時間をかけて集う場の意味はより一層大きくなっていると思う。例えば、数ヶ月も前に約束し、事前に準備を進め思いをめぐらして、大きなお金と時間を費やして行う研究打合せでは、高々2時間程度の集まりに、相当のコストがかかっていることになる。つまり、このかけたコストに応じて、この2時間の価値が決まってくることになる。集う人々は、めったに会えないからこそ、ここで思いを打ち明けるし、折角来たからと貴重なアイデアを披露したり、場に触発されて思いもつかない方向に展開したりする。いつも集まるスタッフと、単に打合せを2時間するのとはまったく異なる場が、ここには生まれることになる。
時間と言うものの重要性を痛感するこのごろでは、この場を作ると言うことに、随分と意識するようになって来た。何かを作り上げるためには、この場を作る必要があって、これを積み重ねていくことで大きな流れを作ることが出来る。このごろ共同研究を活発に行っているが、このときにも、場を共有することが不可欠であって、これが要であることが分かってきた。忙しいからと打合せをおろそかにしていては、決して物事は進まないのである。とにかく、何かするには、会って話をしないことには、始まらないのである。メールや文書では、決して仕事は出来ないと思う。
限られた貴重な時間であるから、やたらウロウロしているわけにはいかない。しかし、時間をかけて作られた打合せでは、何らかの大きなチャンスが待っていると思いたい。明日からも打合せ出張が続くが、何か次の一歩を見つけ出せることを願って、期待して赴いてゆくことにしよう。

研究日誌H170917

2005年09月19日 08時30分10秒 | 研究室情報
=今日は土曜日であるが、午後に共同研究の打合せをした。有意義であった。
 担当学生を無理に呼んで同席させたことは意味があったと思う。今後に期待!
 後期の研究の大きな段取りが出来たので、後は、何とか実現にむけて努力
=その後は家の色々としたことをこなした。
 研究活動という意味では、休日はあまりに進まないので、要検討だ!
 学生が本当の研究スタッフになるには、随分と長い時間が必要になる。教育だから?