今の学生らを見ていると思うのは、異様に「勝負できない」ことである。何か1つの目的を持って、努力を続けて、勝負を賭けるということを、殆どしない又は極端に避けるように見える。何事も、適当に流して、最悪の結果は避けようとするが、最善を尽くそうとは思わない、そんな印象を強く受ける。もちろん例外もあって、一見果敢なチャレンジャーも見受けられるが、全体から見れば少数派であろう。総論的に見れば、勝負をしない学生は年々増えてきていると思うし、実は、学生が成長してゆく大人でも同じような傾向が見られる。
自分のことを棚にあげていると思われるかもしれないが、柴田は実はこれでいてデカイ野望を持って、イチかバチかに賭ける挑戦者(勝負師)的なところが多分にあると思っている。一方、柴田の周りの学生を見ていると、最低限の努力で最大の効果を得ようとする効率化は異様に意識するし、自分の周りの小さい世界での相対的な勝負にはこだわるのに、世間を相手にする絶対的な勝負には立ち向かう勇気がないように見える。
これらの傾向は、個人的な資質の問題が支配的ではあるが、幼いころからの教育の影響も多分にあると思う。もともと日本人は恥を極度に恐れる民族であって、挑戦して失敗するよりも問題を避けて無難にやり過ごそうとすることが多い。これが日本の社会の根底にあるから、教育現場でもこの影響から無縁ではいられない。手を挙げて間違えて答えてしまい、恥をさらす事は最も避けたいことなのだろう。さらに、勝負を避ける原因としては、日本全体が総中流化してしまい、努力によってどん底から這い上がる必要もないし、勝負に打って出て頂点を極めようとする意思もないことがある。
程々に幸せで、程々に努力して、程々の人生を送ろうとする傾向が、社会全体を支配している。これが安定した社会の状況なのかもしれないが、一方で、グローバリゼーションという名のアメリカ化が世界全体で進む中で、大競争時代も日本の外から覆いかぶさろうとしている。変化し続けること勝負し続けること、これらこそが継続的安定を生むのであって、多様な変化を続ける状況において、変化しないことは停滞と敗退を招く結果しか生まない。これらのことを理解してくれていれば良いが、学生らがこのまま社会に出たら、これら先を見越した連中に食い物にされるだけだと思わないのだろうか?リスクが少ない学生時代こそが、勝負に打って出る訓練が出来るし、勝負の勘所つまりは引き際や落とし所を身を持って学び、自分の真価が分かろうというものなのだが。山師になれとは言わないが、変化を臨機応変に受け入れ、挑戦者として社会に出て行って欲しいと思う。
そう言う思いで、柴田はDALABを運営しているつもりなのだが………
自分のことを棚にあげていると思われるかもしれないが、柴田は実はこれでいてデカイ野望を持って、イチかバチかに賭ける挑戦者(勝負師)的なところが多分にあると思っている。一方、柴田の周りの学生を見ていると、最低限の努力で最大の効果を得ようとする効率化は異様に意識するし、自分の周りの小さい世界での相対的な勝負にはこだわるのに、世間を相手にする絶対的な勝負には立ち向かう勇気がないように見える。
これらの傾向は、個人的な資質の問題が支配的ではあるが、幼いころからの教育の影響も多分にあると思う。もともと日本人は恥を極度に恐れる民族であって、挑戦して失敗するよりも問題を避けて無難にやり過ごそうとすることが多い。これが日本の社会の根底にあるから、教育現場でもこの影響から無縁ではいられない。手を挙げて間違えて答えてしまい、恥をさらす事は最も避けたいことなのだろう。さらに、勝負を避ける原因としては、日本全体が総中流化してしまい、努力によってどん底から這い上がる必要もないし、勝負に打って出て頂点を極めようとする意思もないことがある。
程々に幸せで、程々に努力して、程々の人生を送ろうとする傾向が、社会全体を支配している。これが安定した社会の状況なのかもしれないが、一方で、グローバリゼーションという名のアメリカ化が世界全体で進む中で、大競争時代も日本の外から覆いかぶさろうとしている。変化し続けること勝負し続けること、これらこそが継続的安定を生むのであって、多様な変化を続ける状況において、変化しないことは停滞と敗退を招く結果しか生まない。これらのことを理解してくれていれば良いが、学生らがこのまま社会に出たら、これら先を見越した連中に食い物にされるだけだと思わないのだろうか?リスクが少ない学生時代こそが、勝負に打って出る訓練が出来るし、勝負の勘所つまりは引き際や落とし所を身を持って学び、自分の真価が分かろうというものなのだが。山師になれとは言わないが、変化を臨機応変に受け入れ、挑戦者として社会に出て行って欲しいと思う。
そう言う思いで、柴田はDALABを運営しているつもりなのだが………