だいずせんせいの持続性学入門

自立した持続可能な地域社会をつくるための対話の広場

原生林

2006-12-24 13:01:36 | Weblog

 地球環境塾の学生のみんなと矢作川上流、矢作ダム湖畔にある奥矢作森林塾に炭焼きと間伐体験の合宿に行った。その中で旧上矢作町(現在は岐阜県恵那市)の標高1300mにある原生林を案内していただいた。国有林の中に保全された10haほどの森で、町が借り上げて自然教育林として遊歩道などを整備している。

 うっそうとした森を想像していたら、冬枯れた森は意外にあっけらかんと明るい。ミズナラをはじめとする広葉樹はすっかり葉を落として身軽になっている。その中をサワラ、ツガ、ヒノキなどの針葉樹の濃緑の葉が目に映える。直径1m以上の大木がそこここにどっしりと鎮座している。そして特に目についたのは、そのような大木が倒れて横たわる姿である。すっかり苔むして緑の毛布にまかれているものもあれば、まだ根の一部が地面に生きているのだろう、倒れてなお葉を緑に保っている針葉樹もある。ごく最近、雷に打たれたと思われる木もあった。たてにまっぷたつに割れ目が入っている。地元の方によればこの冬には隙間が凍り付き、割れ目が広がって雪が降れば倒れるだろうとのこと。

 このままであれば人間が歩くのに苦労するだろう。いちいち倒れた大木の上をよじのぼって進まなければならない。遊歩道には倒木がチェンソーで切られて人がひとり通れる隙間があけてある。その断面をみるだけでたいへんな迫力である。

 ミズナラの巨木があった。樹皮にはタオルをねじったようならせん状の模様がダイナミックについている。まるで身体をねじりながら咆哮しているようだ。となりに生えているサワラをのみこんで一体化している。その姿は大蛇がとぐろをまいているようにも見える。これに葉が繁った夏にはその力強さはまた格別だろう。

 奇妙なヒノキの林があった。どれも幹の部分がまたさきになって地面につきささっている。その下を人間が通れるほどの空間が空いている(名古屋にお住まいの方ならナナちゃん人形を想像してください)。これには天然のヒノキ林に特徴的な更新の仕方がかかわっている。成熟した林は大木によって樹冠が覆われるため、林床には光が入らない。それでそこにタネが落ちても発芽・成長できない。唯一成長できるのは老齢の木が倒れてそこだけ光が入るようになったところである。しかも光がよりよく当たり栄養分に富む倒木の上に発芽する。その成長とともに、倒木は腐ってなくなる。幼樹の根は二手に分かれて地面に達する。そのようにしてみんな股を開いたように立っているこの奇妙なヒノキ群落ができる。
 ということを話には聞いていたが、実物を見るのは初めてだ。きっと再生中のヒノキのあかちゃんがいるはずだ。そう思って探してみたら、あったあった。農緑に苔むした倒木の苔のカーペットの上にヒノキの生まれたばかりの赤ちゃんが生えていた。今は身長2~3cmであるが、これが200年後には、二本の足ですっくと立つ見上げるような大木になるのである。ちょうど雲が切れて冬の早い夕方のやわらかい日差しがその上にふりそそいだ。私は感激して興奮気味だったが、学生たちは「なんで?」という感じだったかもしれない。

 私はなんとなくそうしたくなって、がばっと両手を開いて一本の大木に抱きついてみた。なんともいえず気持ちよかった。大木の脈動が聞こえるような気がした。日没の時間を気にしなければ、いつまでもずっとそうしていたかった。

 山から下り、街の日常に帰って来てからふと本屋で目にした町田宗鳳著『山の霊力』(講談社2003年)は私をそこで待っていたとしか思えないような出会いだった。そしてそこによく引用されている『日本霊異紀(にほんりょういき)』(中村祝夫註訳、講談社学術文庫)を読んだ。日本霊異紀は奈良時代後期から平安前期に生きた奈良薬師寺の僧、景戒(きょうかい)が、因果応報という仏教の教えを「現実」の世界の出来事の中に「実証」しようとして、当時人々の間に言い伝えらえていたいろいろな物語をまとめたものである。ただ必ずしも仏教とかかわるものだけでなく、とにかく不思議な話がたくさん納められている。
 その中で特に目をひくのが、人間以外のものと交わる物語である。上巻第2話ではある男が野原で出会った女と結婚してこどもをもうける。ところがある日女は犬にほえられて狐の姿にもどる。男はそれを見ていつまでもおまえのことを忘れない、いつでも来て寝よう、と言う。それで狐は時々山から女の姿をして下りてきては男と交わる。男はそれを慕って恋歌を詠む。これがきつね=来つ寝という言葉の語源となったという。
 中巻第40話は大蛇に犯される娘の話である。気絶した娘と大蛇は交わり会ったまま医者の処置によって離され、蛇は殺される。気が付いた娘は夢のようだったと語る。その後再び娘は蛇に犯されて死んでしまう。しかし娘は蛇を恨むことなくむしろそれを慕い、次に生まれてくるときにもまた会いたいと言いながら死んでいく。
 天女と交わった男の話は中巻第13話である。ある修行僧が吉祥天女(きちじょうてんにょ)の土像を慕い、6度のお勤めのたびに「天女のように顔のきれいな女を私に与えてください」と祈っていたところ、ある夜、夢の中で天女と愛し合う。次の日に起きてみると土像の腰の部分に精液による染みがついていて男はうろたえるという話である。

 私が原生林で感じたのは、生の横溢というよりは死と再生の姿である。町田氏によれば古代の人々は峻立する大木に山の生命力を感じ、それは命を限りなく生み出す山の男根のイメージとなり、さらにそれは大蛇の姿に投影されたという。各地の産みの神様の神社に奉納されている大きなしめ縄は二つの大蛇が交わる姿だという。
 私が大木に抱きついてなんともいえず気持ちよかった理由がわかったような気がする。死と再生の間に性=生殖があり、私はそういう森のセクシャリティに感応したのではないかと思う。狐や蛇や天女を愛した男女のように、私は森に心を引かれたのかもしれない。

 今、日本の山は、ひょろ長い人工林で覆われている。そこでは同年齢で青二才とでもいうべき木が延々と立ち並んでいる。手入れが遅れ、込みすぎによる立ち枯れという死はあっても、生殖を通じた再生はない。セクシャリティとは対極にある無味乾燥な山だ。私は原生林がひろがり、それに抱かれて生きていた古代の人たちの幸せを思った。
コメント (4)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ムダについて | トップ | ネコがきた »
最新の画像もっと見る

4 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
THANKS! (daizusensei)
2006-12-24 13:20:07
先週一週間のアクセス数がはじめて1000ページビューを超えました。IP数は週にのべ350以上と、思いがけず多くの人に読んでいただいています。なかなかひんぱんに更新できませんが、来年もよろしくおつきあいください。みなさんにとって、世界の人々にとって、よい年でありますように。
返信する
ありがとうございました (山男)
2006-12-27 23:15:42
奧矢作森林塾の杉野です。今回は本当にありがとうございました。少しだけ、自信が付きました。若い人が環境を学ぼうとする姿勢と、それを導こうとするだいずせんせいの大きな愛情を目の当たりにしました。
私は感動しました。ありがとうございました。
私も一人で原生林へ行くと、無性に木を抱きしめたくなります。その理由がわかったような気がしました。
返信する
ありがとうございます (itou88)
2006-12-31 04:53:51
だいず先生

今年一年も楽しおく読ませていただきました。

ありがとうございます。

来年もどうぞよろしくお願いいたします。
返信する
同感です!よくぞ書いてくれました。 (藤野 純子)
2007-01-29 21:36:31
名ばかりの環境博のお祭り騒ぎを成功と誇らし気に知事もハナが高い様ですが、万博以降の開発は加速する一方です。県知事の許認可で行われている開発は、天下り先確保のためだったり仕事作りのための事業が多く、住民の声は知事に届いているのかいないのか事業者の思惑ばかりが優先されております。
瀬戸市の鉱山開発も土地利用調整条例の適用外の特例扱いで簡単に保安林の予定解除が許可されています。住民は抵抗しましたがなんせ市長は元事業組合い理事長、おまけに森林審議会の委員でもあります。ということは2度の手厚い保護を受けて申請は通っていったわけです。ホフマンの遺跡は大々的に新聞で『緑の叡智』と万博でPRされながら残った森は愛知県によってもうすぐ無惨な露天掘りとなりその見晴し台となるのです。
返信する

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事