だいずせんせいの持続性学入門

自立した持続可能な地域社会をつくるための対話の広場

山に上がる

2008-04-14 01:29:32 | Weblog


 内山節『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』講談社現代新書2008年には、群馬県の山間地、上野村でかつて行われていた興味深い習慣が紹介されている。それは「山上がり」というもので、借金などで生活が立ちゆかなくなった家族が、一定期間、村の山中で生活して再起を期すという仕組みだ。
 山の中にはまず主食となる栗があり、山菜、茸があり、川には魚、さらには獣もいる。木を切れば煮炊きもできるし暖もとれる。とにかく生きていくのに必要な食糧とエネルギーは確保できる。この仕組みで大切なのは、山上がりを宣言し、認められた者は、誰の山に入ってもよいし、誰の山の木を切ってもよい、というものだ。つまりこれは集落内の相互扶助の仕組みである。
 そうやってしのぎながら、男は出稼ぎに出てオカネをかせぎ、借金を返済して生活の再興をめざすのだという。宮本常一の著作にもしばしば同様のことが紹介されているので、この仕組みは全国で広く行われていたのだろう。

 つまり、かつて山は、自然が準備してくれた究極のセーフティネットだったということだ。今日の先行きの見えない福祉社会とくらべて、なんと安心な暮らしだろう。最後は山に上がればなんとかなる、と思えば人生を基本的には楽天的に暮らせるというものだ。

 もちろん、これがなりたつには、そのような暮らしができる山があるということと、人々にそれを活用する技術がある、ということが条件である。そしてそのどちらもが消滅した。

 食料とエネルギーが十分に確保できる山はいわゆる里山という生態系である。薪炭や木地のために30年ほどに一回伐採され、その切り株からまた芽がでて更新していく木からなる森林である。ドングリの木と総称されるコナラやアベマキなどを中心にした樹種である。薪や炭の材としてふさわしく、伐採から年数がたたない山ではゼンマイなど山菜が豊富に生える。
 ところが、かつての里山は今から50年ほど前の拡大造林の大運動によって、スギやヒノキなどの人工林になった。その後の手入れが遅れ、今では木々がうっそうと茂り、林床に光が届かず、下草などはなにも生えていない森が多い。山菜もでないし獣も生きていけない。

 また、人工林にならなかった山は使用価値を失って放置された。その結果、ドングリの木は見上げるような大木となっている。樹子さんはブログの中で、「山のおっちゃん」の話として、シカが人里に下りてくるのは山の中で葉っぱを食べようにも枝がはるか高いところにあって届かないからだ、という話を紹介しているが、まさにそういう状況だ。やはり林床が暗いため、ドングリの木の幼樹は育たない。ドングリにとっては後継者がいない超少子高齢化社会である。その代わりに生えてきているのは、ツバキの仲間のような常緑広葉樹である。
 高齢化したドングリの木を今伐採してももう株に元気がなく、芽を出してはこないという。このまま行けば確実に常緑広葉樹林に遷移していく。そしてこれが照葉樹林と呼ばれる西日本の自然の植生の姿である。里山はその使命を終えて自然の姿に戻ろうとしている。これは実に縄文時代以来のことなのだそうだ。

 もちろんそれは、人間が山を利用することをやめたからである。その技術も伝承されていない。今では70歳以上のおじいさんおばあさんが身体に覚えさせた技術が残っているのみであり、もうすぐ永久に失われていく。再び山が里山としての使命を帯びる、つまり食糧やエネルギーの源として利用する日が必ず来ると私は考えるが、その時までなんとか山で暮らすココロと技術をつないでおかなくてはならないのだが。

 宮本常一の著作を読むと、農家の老人が山に上がる話がでてくる。いわゆる姨捨てというのは現実にはあまりなかったようだが、田畑を長男に引き継いで隠居の身となれば、次三男たちを連れて山に開拓に入るというのはよく行われていたようである。そして開拓の余地もなくなれば、最後に老夫婦のみ山に上がり、狭い耕地を自ら耕して、生きていける限りそこで暮らすということがあったようだ。最後は山に上がり土に返る人生だった。

 『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』にはもっと激しい例も紹介されている。農家のおじいさんが、宗教的な理由から山に上がるという話である。修験道は山の中で命をかけた荒行をする。山林修行である。そのおじいさんは厳格な修行のやり方として、生活のための道具を持たず、お経だけを持って山に入ったそうだ。火も使わないという。もちろん死を覚悟した修行である。春に山に入り、冬にさしかかるころ家族の強い説得によって山を下りたという。そのまま冬を迎えれば死んでいただろう。

 山に死に場所があるとわかっていれば、命ある限りは安心して前向きに暮らせるということだと思う。死に場所として集中治療室のようなものしか思い浮かばない(私の父はそうだった)私たちに、真に安心な暮らしというのはありうるのだろうか?

 
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3 コメント

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I am (momo)
2008-04-15 08:11:41
私が山であり
山は地球であり
地球は宇宙であり
宇宙は私です。

地上に木が一本も無くなろうと
私がどこに居ようと
そこは山です。

お父様は山でお休みになられたと思います。
返信する
うれしいお知らせ (樹子)
2008-04-21 10:34:23
名前が出てきて PCの前で赤面しています。

とても いい話ですね。
春になると 実家では山からの頂き物がいっぱい
食卓にならびます。

確かに、何かあっても生きていけそうで安心しますね。

先日、永源寺の山の方と話していましたら
今、どんな樹が萌芽更新するか 試して
おられるそうで 

結構 太い樹で地上1M位の位置で伐った樹から
芽が出てきたそうです。

すごく うれしいです。

また 詳しく聞いてブログに書きますが 
伐る高さが1MまでOKなら 鹿の食害を受けにくいかもしれません。植林しても、食べてしまいますからね。
個体数を増やすために 小型化しているとも聞きますし…。

また 鹿の食料の為に低い位置で萌芽させる樹が
あってもいいかもしれません。

共存できる可能性が出てきます。

後は、山である川上と 消費者である川上との
共存です。

伐った樹が売れなければ 樹は伐れません。
返信する
山暮らし。 (百田)
2008-05-13 01:06:33
新鮮な話でした。
そういう習慣があったんですね・・・。
しかし、とても納得できる話で、とても共感します。

個人的なことですが、子供のころ、家族そろって家を追い出された経験があります。
そのときは祖父母が持っていた山林になっていた土地を切り拓いてほったて小屋を建てて生活しました。
父親が大工で助かりました(^^;)

その山はいわゆる杉の人工林だったので、動植物の存在はあまり感じられない山(猪くらい)でしたが、それでも
自然の恩恵を大いにいただき、豊かな生活経験となり、今の自分の基礎になっている気がしています。

選択肢がない中での山の生活でしたが、そのセーフティネットにしっかり乗っかっていたんですね。

なるほど~。


里山の復活。
山を扱う人のココロの復活。

自分も伝えていく人になりたいと思います。
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