『武士の娘』 日本とアメリカ、召使はどう違うか?

先日、桜井さんと仰る方からこんなコメントを頂きました。


>ところで、西洋には召使いが主役級で登場し、その生活描写の活き活きと詳しい文学作品や資料がたくさんあるようですが、日本の方でそのような作品等はご存じないでしょうか?

>私は日本の下男下女というと、樋口一葉の『大つごもり』のような奉公の身の辛さを一人嘆く姿が一番に思い浮かぶので、
もっと要領のいい、大胆な召使いが日本にはいないものか・・と気になりまして。


うーむ…数日間、考え込んでしまいました。(あ、好きで悩んでいるので気にしないでください、桜井さん。笑)

「要領のいい、大胆な召使い」
これが、難しい。思い当たらない。

仰るとおり、奉公の身の辛さを耐え忍ぶ、いわゆる「おしん」型の召使いはよく見かけます。もしくは以前ブログに書いた『鏡山旧錦絵』のような、主人のためなら火の中水の中、純朴で健気な「忠臣」型。なかなかジーヴスのような「要領のいい、大胆な」召使いは登場しません。

お国柄が違うから―といってはそれまでですが、ではなぜ日本には、「おしん」型や「忠臣」型の召使いが多いのでしょう?

そんな疑問が残ったとき、ふと『武士の娘』という本を思い出しました。

『武士の娘』は、明治6年、越後長岡藩の家老の家に生まれた著者・杉本鉞子(すぎもと・えつこ)が、「武士の娘」としてどのように育てられ、その後結婚により移住したアメリカの地で、どのような文化相違の経験をしたか――を綴った作品です。

「武士の娘」としての躾は、非常に厳しいものでした。曰く、
「眠る時は必ず、きの字なりにならなければならない」
武士の娘は眠っている間も心身を引きしめてなくてはならない。
穏やかな中にも威厳をそなえた「き」の字のように体を曲げて眠るように――との教えです。
大の字で悠々と眠りこけていては、ダメなんですね。(男子は大の字でもオッケーだそうです)

お嫁入りに旅立つ長い道中、狭い人力車の中でうたた寝した時にも自然と「きの字なり」になっていたそうですから、骨身にしみわたらせる「武士の娘」の躾の厳しさが伺えます。

そんな「束縛」を「試練」とする教えを受けて育った著者が、「自由闊達」を良しとするアメリカへ渡るのです。

すべてが目新しくめずらしい異国の地で、著者は親日家のウィルソン夫人(著者は敬慕をこめて「母上」と呼んだ)からアメリカでの暮らしのノウハウを学びながら、新婚生活をスタートさせました。

アメリカに渡って1年目、著者は女中のクララという娘を通して、日本とアメリカの主従関係の違いに驚かされます。
(以下はちょっと長い引用となりますが、文脈を損なわぬよう続けて記します)

私は召使を好いていましたが、いつも、驚きの種になるのもこの召使でした。「母上」は南の国の生れで、一寸日本の旧家の主婦のように下女にも下男にも、家の子といった親切な態度をとっていらっしゃったけれども、召使の一身上の責任を負うてやるというのでもなく、又召使の側でも、忠義な心で務めを果たすという風でもありませんでした。

故郷の家では、召使は地位は低くても、家族として扱われ、主人と共に喜び、共に悲しみ、また主人も、召使を親身になって世話したものでありました。こんな風でも、主従の間がみだりに狎々(なれなれ)すぎるということはありませんでした。敷居を境として、見えない境界線がはっきりとひかれていたのですから、召使がこの境を越えたり、超えようと思ったりなどということは、聞いたこともありませんでした。日本の召使は、そこに深い誇りを感じていたからです。

クララは仕事に忠実でしたが、その楽しみは、家の外にあったようでありました。ですから、毎週の午後の定休の半日がめぐって参りますと、驚くほどの勢で働き、早く片付けてしまうことばかりを考えていたようでした。そんな姿を見るにつけても、日本で見なれたおとなしい、礼儀正しいとし(※注 女中の名)の姿や別れの時の品のよいお辞儀の仕方などを思い出さずにはいられませんでした。

※改行は読みやすさを考慮してブログ筆者が行った。
また()内の※注および読み仮名、太字はブログ筆者による。



つまり武家の屋敷では、主人も召使いも含めて、ひとつの大きな「ファミリー」なんですね。血のつながりが無くとも「家族として扱われ」るのですから、主人の恩に報いようとする気持ちが自然に湧いてくるのも当然のことでしょう。「忠臣」型の召使いが生まれるはずです。

いっぽう「日本の旧家の主婦」に例えられた「母上」ウィルソン夫人の召使いへの態度を鑑みると、「おしん」型の召使いが生まれる理由が見えてきますね。

親切にはするが、召使いを家族の一員とはみなさない。家族ではないということは、人員の替えが利くということです。
武家の「ファミリー」と違い、一家の一員として「クララ」でなくては、「とし」でなくては駄目、という訳ではない。人手が足りさえすれば、誰でも良い。働き者であれば、どんな者でもかまわない。

自分じゃなくても代わりはいくらでもいる――そんな悲哀が、孤独に耐え忍ぶ「おしん」型の召使いを生み出すのでしょう。(そういえぱ、おしんが奉公に出たのは大きな商家でしたね)

ふだんは、西洋(とくにイギリス)の召使いや執事を眺めて「ああ、いいわ~」と見惚れているわたくしですが、『武士の娘』の前半に記された、日本にいた頃の著者と召使いたちとの交流にホッとした気持ちを抱かされるのは、やはり、日本人だからでしょうか。

「エツ坊さまのおいで」
雪深い夜、召使いたちの仕事部屋に下りてきた小さなお嬢さまを全員が喜んで迎え入れ、囲炉裏に栗のイガをくべて目を楽しませたり、糸車を廻す乳母の「いし」は大きな手を小さな手に添えて糸をつむがせてやり、せがめばいろんな昔話を話してくれる物知りの下男頭「爺や」は縄をない、出来たばかりの小さな雪沓をさし上げて、明日の学校への安全な近道を教えてあげる――

そんな光景を読むと、胸の奥の奥が、あったかくなります。
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