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クリエイト速読スクールブログ
小林秀雄の読書論
5月21日の日経夕刊「立って働く、北欧のワケ」を読んで、家に帰ってゴソゴソと探したのは小林秀雄の本でした。
たしか小林秀雄は、「部屋をうろうろ歩き回りながら考えごとをする」というようなことを書いていたはず。どんなふうに書いていた
見つけられませんでした。同時代の作家、評論家のエッセーだったのかもしれません。
小林秀雄の本を何冊かめくっていたら「読書について(P164~P172)」というエッセーをみつけました。
速読のレッスンを受けている生徒さんには、参考になるところがあるかもしれません。gooブログ1回分に入るだけ紹介します。
1939年(昭和14年)4月、37歳のときに書かれたものです。
読書について
僕は、高等学校時代、妙な読書法を実行していた。学校の往き還りに、電車の中で読む本、教室でひそかに読む本、家で読む本、という具合に区別して、いつも数種の本を平行して読み進んでいるようにあんばいしていた。まことにばかげた次第であったが、その当時の常軌をはずれた知識欲とか好奇心とかは、とうてい一つの本を読みおわってから他の本を開くというような悠長なことを許さなかったのである。
だが、今日のように、思想の方向も多岐に渉って乱れ、新刊書の数も種類も非常に増して、読書の仕方とか方法とかについて戸惑っている多くの若い人たちを見るにつけ、僕は考えるのだが、自分ががむしゃらにやった方法などは、案外ばかげた方法ではなかったかもしれぬ、と。もしかしたら、読書欲に憑かれた青年には、最上の読書法だったかもしれないとも思っている。
濫読の害ということが言われるが、こんなに本の出る世の中で、濫読しないのは低脳児であろう。濫読による浅薄な知識の堆積というものは、濫読したいという向こう見ずな欲望に燃えている限り、人に害を与えるような力はない。濫読欲も失ってしまった人が、濫読の害など云々するのもおかしなことだ。それに、僕の経験によると、本が多過ぎて困るとこぼす学生は、大概本を中途で止める癖がある。濫読さえしていない。
努めて濫読さえすれば、濫読になんの害もない。むしろ濫読の一時期を持たなかった者には、後年、読書がほんとうに楽しみになるということも容易ではあるまいとさえ思われる。読書の最初の技術は、どれこれの別なく貪るように読むことで養われるほかはないからである。
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書くのに技術がいるように、読むのにも技術がいる。文学を志す多くの人たちは、書く工夫にばかり心を奪われている。作家と言われるようになった人たちの間でも、読むことの上手な人は意外に少ないものだ。
読む工夫は、誰に見せるというようなものではないから、いわば自問自答して自ら楽しむ工夫なのであり、そういう工夫に何も特別な才能がいるわけではない。だが、誰もやりたがらない。何はともあれ、特別な才能というものを、書く事によって、捻り出したいからである。そういう小さな虚栄心だけで、トルストイなりバルザックなりに、つながっているだけだ。だから、書く方は見込みがないと諦める時は、読書という楽しみも、それっきりになる時だ。
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ある作家の全集を読むのは非常にいいことだ。研究でもしようというのでなければ、そんなことは全く無駄事だと思われがちだが、けっしてそうではない。読書の楽しみの源泉にはいつも「文は人なり」という言葉があるのだが、この言葉の深い意味を了解するのには、全集を読むのが、いちばん手っ取り早い。しかも確実な方法なのである。
一流の作家なら誰でもいい、好きな作家でよい。あんまり多作の人は厄介だから、手頃なのを一人選べばよい。その人の全集を、日記や書簡の類に至るまで、隅から隅まで読んでみるのだ。
そうすると、一流と言われる人物は、どんなにいろいろな事を試み、いろいろな事を考えていたかがわかる。彼の代表作などと呼ばれているものが、彼の考えていたどんなにたくさんの思想を犠牲にした結果、生まれたものであるかが納得できる。単純に考えていたその作家の姿などはこの人にこんな言葉があったのか、こんな思想があったのかという驚きで、めちゃめちゃになってしまうであろう。その作家の性格とか、個性とかいうものは、もはや表面の処に判然と見えるというようなものではなく、いよいよ奥の方の深い小暗い処に、手探りで捜さねばならぬもののように思われてくるだろう。
僕は理窟を述べるのではなく、経験を話すのだが、そうして手探りをしているうちに、作者にめぐり会うのであって、誰かの紹介などによって相手を知るのではない。こうして、小暗い処で、顔は定かにわからぬが、手はしっかりと握ったという具合なわかり方をしてしまうと、その作家の傑作とか失敗作とかいうような区別も、べつだん大した意味を持たなくなる、と言うより、ほんの片言隻句にも、その作家の人間全部が感じられるというようになる。
これが、「文は人なり」という言葉の真意だ。それは、文は眼の前にあり、人は奥の方にいる、という意味だ。
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「文は人なり」ぐらいのことは誰にでもわかっていると言うが、実は犬は文を作らぬ、という事がわかっているにすぎない人が多い。
書物が書物には見えず、それを書いた人間に見えてくるのには、相当な時間と努力とを必要とする。人間から出て来て文章となったものを、再び元の人間に返すこと、読書の技術というものも、そこ以外にない。もともと出てくる時に、明らかな筋道を踏んで来たわけではないのだから、元に返す正確な方法があるわけはない。
要するに読者は暗中模索する。創った人を求めようとして、創った人の真似をするのだ。なるほど、作者という人間を知ろうとして、その作家に関する伝記その他の研究を読んだり、その時代の歴史を調べたり、というようないろいろな方法があるが、それは碁将棋で言えば定石のようなものだ。定石というものは、勝負の正確を期するために案出されたものには相違ないが、実際には勝負の不正確な曖昧さを、いよいよ鋭い魅力あるものにする作用があるだけだ。人間は、厳正な智力を傾けて、曖昧さの裡に遊ぶようにできている。
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読書百篇とか読書三到とかいう読書に関する漠然たる教訓には、容易ならぬ意味がある。おそらく後にも先にもなかった読書の達人、サント・ブウブも、漠然たる言い方は非常に嫌いであったが、読書については、同じように曖昧な教訓しか遺さなかった。
「人間をよく理解する方法は、たった一つしかない。それは、彼らを急いで判断せず、彼らの傍で暮らし、彼らが自ら思うところを言うに任せ、日に日に延びて行くに任せ、ついに僕らの裡に、彼らが自画像を描き出すまで待つことだ。
故人になった著者でも同様だ。読め、ゆっくりと読め、成り行きに任せ給え。ついに彼らは、彼ら自身の言葉で、彼ら自身の姿を、はっきり描き出すにいたるだろう」
なぜ、こういう教訓が容易ならぬ意味を持つか。こういうふうに、間に合わせの知識の助けを借りずに、他人をじかに知ることこそ、実は、ほんとうに自分を知ることにほかならぬからである。人間は自分を知るのに、他人という鏡を持っているだけだ。自己反省とか自己分析とかいう浪漫派文学の産んだ精神傾向は、感傷と虚栄との惑わしに充ちた、架空な未熟な業にすぎない。
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机上の「思想」(三月号)を開けていたら、こんな文章に出会った。
(9行省略)
書く人は反語のつもりで書いたのかもしれないが、現代人の心理的症例ともいうべき文章である。あえて症例というのは、こういうふうに、自分を忘れるには、他人になった気になりさえすればよい、そのためには、自ら行動せず、外からの刺激に屈従するのがいちばん効果がある、という考え方、というよりも一種の心理傾向は、どう考えても健全な傾向とは言いかねるからだ。現代人の心理の地獄絵は、ほとんどことごとくこの傾向の産物であり、現代の恋愛小説などを見ればわかるように、現代小説家の軽薄な心理描写に多くの種を与えているのもこの傾向である。
自ら行動することによって、我を忘れる、言い代えれば、自分になりきることによって我を忘れる、という正常な生き方から、現代はいよいよ遠ざかって行く。そして意力ある行為などという厄介なものなしに自分を忘れたい、それには心理の世界をさまざまな妄念で充たせばよい、そういう道、いわば社会人たる面目を保ちながら狂人となる道を、いよいよ進んでいく。こういう現代人の傾向を、挑発するのに最も有効な力を映画は持っている。「映画館内のスクリーンばかりが明るく、我々の坐っている場所の薄暗さに感謝する」、この表現はなかなか適確だ。むろん、文学もこの力を持っている。映画の発明されるまで、文学は映画の代わりを勤めていた。礼儀正しい狂人は、印刷術の発明とともに生まれたと言えようが、どんなに印刷術の強大を誇ったところが、映画が現れてしまっては、文学はとうてい映画の敵ではない。
今日でも、小説類は、非常な勢いで売れている。そして大部分の小説読者は、耳を塞いで冒険談を読む子どもと少しも変わらぬ読書技術で小説に対している。つまり、小説は、今日でも、読者の空想を刺戟して我を忘れさせる便利な機会を、まだ十分に世間に提供している。だが将来はどうなるだろう。
おそらく今日の映画などは、かつての小説のように古めかしいものとなるだろう。映画に自然の色彩が現れ、遠近法が現れるばかりではない、映画は観客の嗅覚や味覚や触覚さえ満足させるようになるだろう、というハックスレイの空想も、観客にそういう欲望がある限り、いずれ実現するであろう。またこういう空想も、現在の映画を土台とした空想にすぎぬものであってみれば、物質の極度の利用による人工陶酔の発明が、将来どのようなものになるか誰が知ろう。要するに阿片中毒者を癒そうとする人間の同じ智慧が、どんな新しい阿片を発明するに至るか誰が知ろう。では、僕らは何を知っているのか。ここまで考えてきてみて、そう質問してみるがよい。読書の技術というものについて思い当たるところがあるだろう。
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杉村楚人冠氏の感想だったと記憶するが、印刷の速力も、書物の普及の速力も驚くほど早くなり、書物の量はいよいよ増加する一方、人間の本を読む速力が、依然として昔のままでいる事は、まことに滑稽の感を起こさせるものだ、という意味の文章を読んだ。僕は読書の真髄と言うものは、この滑稽のうちにあると思っている。
文字の数がどんなに増えようが、僕らは文字をいちいちたどり、判断し、納得し、批評さえしながら、書物の語るところに従って、地力で心の一世界を再現する。このような精神作業の速力は、印刷の速力などとなんの関係もない。読書の技術が高級になるにつれて、書物は、読者を、そういうはっきり目の覚めた世界に連れて行く。逆にいい書物は、いつもそういう技術を、読者に目覚めさせるもので、読者は、途中でたびたび立ち止まり、自分がぼんやりしていないかどうか確かめねばならぬ。いや、もっと頭のはっきりした時に、もう一ぺん読めと求められるだろう。人々は、読書の楽しみとは、そんな堅苦しいものかと訝るかもしれない。だが、その種の書物だけを、人間の智慧は、古典として保存したのはどういうわけか。はっきりと目覚めて物事を考えるのが、人間の最上の娯楽だからである。
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今日のような書物の氾濫のなかにいて、何を読むべきかと思案ばかりしていても、流行に書名を教えられるのが関の山なら、これはと思う書物に執着して、読み方の工夫をする方が賢明だろう。
小説の筋や情景の面白さに心奪われて、これを書いた作者と言う人間をけっして思い浮かべぬ小説読者を無邪気と言うなら、なぜ進んで、たとえばカントを学んで、カントの思想に心を奪われ、カントという人間をけっして思い浮かべぬ学者を無邪気と呼んではいけないか。読書の技術の拙いために、書物から亡霊しか得ることができないでいる点で、けっして甲乙はないのである。サント・ブウブの教訓を思い出そう。「ついに著者たちは、彼ら自身の言葉で、彼ら自身の姿を、はっきり描き出すに至るだろう」、それが、たとえどんな種類の著者であってもだ。ついに姿を向こうから現して来る著者を待つことだ。それまでは、書物は単なる書物にすぎない。小説類は小説類にすぎず、哲学書は哲学書にすぎぬ。
書物の数だけ思想があり、思想の数だけ人間が要るという、在るがままの世間の姿だけを信ずれば足りるのだ。なぜ人間は、実生活で、論証の確かさだけで人を説得する不可能を承知しながら、書物の世界にはいると、論証こそすべてだという無邪気な迷信家となるのだろう。また、実生活では、まるで違った個性の間に知己ができることを見ながら、彼の思想は全然誤っているなどと怒鳴り立てるようになるのだろう。あるいはまた、人間はほんの気まぐれから殺し合いもするものだと知っていながら、自分とやや類似した観念を宿した頭に出会って、友人を得たなどと思い込むに至るか。
みんな書物から人間が現れるのを待ち切れないからである。人間が現れるまで待っていたら、その人間は諸君に言うであろう。君は君自身でい給え、と。一流の思想家のぎりぎりの思想というものは、それ以外の忠告を絶対にしてはいない。諸君になんの不足があると言うのか。
-『常識について(角川文庫)』-
漢字等は原文のママです。 真
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①77行目の「いちばん手っ取り早いしかも確実な方法」は、「いちばん手っ取り早い、しかも確実な方法」ではないかと。
②97行目の「作者にめぐりあうのでのであって」は「ので」が余分かと。
③145行目の「ほかならぬからからである」は「から」が余分かと。
以上ですが、行数は不確実です。数えていたら、目がチカチカしてきました。
最初のは、原文通りです。
他は打ちミスでした
表記の不統一は原文のままです。
GoogleやWikipediaの隆盛で、物識りであるだけの人はかつてほどに珍重されないようです。それでも読書は、知識を得るという利点以外に、思考を養う価値を失っていないと思います。「ある作家の作文をすべて読め」とはそういう切り口で読みました。
コメントありがとうございます。
頭のなかに、作家・評論家のいいセリフのストックあるので、それだけをひっぱって紹介するブログの方が受けるかもしれませんね。
なんたって、小林秀雄でした。
「クリエイト速読」でgoogleを検索すると、上から4番目ですから。
これからも、いい記事のときは誉めてください。元気でますから。
ところで、さっきGMATに関係することについて書いたのですが、事実関係、大丈夫でしょうか
MBA修了者としてのひろあきん★さんチェックでOKがあれば安心です。何かあれば、ダメだしお願いします
難しかったです。文章の長さが輪をかけました。
何度も立ち止まっては読み返してしまいました。
『本をたくさん読め。』『読む技術を磨け。』
『他人を知ることが本当に自分を知ること。』など、
書かれていることはどれも納得できることです。
ただ、理解するのに時間がかかったこと…。
まだまだ勉強が足りませんね。今日はここまでに
します。また書きます。おやすみなさい。
今日はここまでにします。失礼しました。
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