じめじめとした梅雨のせいか、更年期のせいか、
仕事の達成感が薄いせいか、
それとも、いっこうに「ザ・玉の輿」が現れないせいか。。。
ど~も、やる気がおきない。
人には、インプットとアウトプットのそれぞれの時期があって、
今はあきらかにインプットの時期。
超~悩んでる時期。
のりで生きて来てしまった自分の人生が
年齢を重ねるうちにその限界を感じ、
無計画な自分を反省
そんなこんなで、わらをもつかむ思いで
本を読みまくっている。
そんな中、久々に心につきささる言葉に出会った。
「細胞同士、遺伝子同士が呼び合うような感じが本来的な恋愛の感覚」
吉本ばななのお父さん、詩人でもあり、思想家でもある吉本隆明の著だ。
以前、このブログでも話をしたが、
私はかなえたい夢、なりたい自分など、昔から、文章にしたり、
最近ではビジュアルマップにしたりして、
具体的にその姿を脳裏に焼き付けながら、アンテナをはる。
そういった意味で、「私の本当に好きな男性のタイプ」が
ここ最近のウォーキングをしながらのテーマであったが、
ど~も、納得のいく答えがうまれない。
背の小さい人は嫌だな~、とか、年上でも加齢臭だけはがまんできないなあ~とか、
教養のない人はちょっとなあ~、お酒は一緒に飲みたいな、とか、
かなり次元の低いレベルでしか相手の男性をクリエイトできなかった。
ところが、吉本隆明の「超恋愛論」を図書館で見つけ、
文学テポドンのようなこの言葉に出会ってしまったのだ。
「その人にとっていい人」が絶対的に存在するというのが恋愛というものなのです。
ただ単にたくさんの異性にちやほやされるとか、出会いのチャンスが多いとか、
そんなのは本質的には恋愛と何の関係もありません。
つまり、いわゆる「もてる」「もてない」みたいなものは、恋愛において意味がない。
恋愛というのは、男女がある一定の精神的な距離の圏内に入ったときに、初めて起こる
出来事です。その距離の圏内に入ってしまうと、相手に対する世間的な価値判断は
どうでも良くなる。金があるとかないとか、美人だとか不美人だとか、うちの親は
この人を気に入ってくれるかどうかとか、そんなことはもう関係ないんです。
逆に言えば、そういう状態にならない限り、それは恋愛とは言えない。
大事なのは、自分にとって好ましいかどうかだけなんです。いわば、自分の細胞が
相手とぴったり合うかどうかです。
なぜその人が自分にとってそんなに好ましいのか、わけがわからないけれども、
どうしてもその人でなければならないという気持ちになる。
それが恋愛の始まりでしょう。
さっき、「自分の細胞が相手とぴったり合う」という表現をしましたが、
ぼくはよく、それを双子のきょうだいにたとえます。
うまく説明できないのですが、、「遺伝子が似ている」とでもいうのでしょうか、
双子のきょうだいが相互にもつ感覚のようなものではないかと思うのです。
双子のような感覚を、まったく他人同士の間で感じる。それはやはり、
相当希有な経験だといえるのではないでしょうか。
だからいったんそう言う人を見つけることができたならば、それはやっぱり長く
続くのが本当だよという気がします。一生続くのが本来的なはずじゃないかと思うのです。
この、細胞同士、遺伝子同士が呼び合うような感じーもし、全ての人がそれ以外のことは
考慮に入れずに相手を選んでいい、それが当然である、という段階まで世の中の環境が
進んだならば、理想の一夫一婦制は成立するでしょう。
なっとく!
運命の人に出会う場を増やせばいいっつうことですな。
ルーシーリュー! ヨロシク哀愁