「これはやめてね」と「あんたは私の都合のいい人間になれ」とは、似ているようで全く違う。
付き合っていて問題になるのは、後者の要求をする人間と付き合ったときだ。
「あんたは私の都合のいい人間になれ」という言葉の裏には、人格の物化がある。
そんな主張をする人間は、相手の人格に対する尊敬がない。
それどころか相手の人格に対する悪質なテロリズムを行っていることについても気づこうともしないであろう。
「これはやめてね」の裏には、他者がいる。
つまり相手を予想しての言動があるわけであるが、「あんたは私の都合のいい人間になれ」の根底にあるのは他者不在である。
他者不在の人間と付き合っていると、自分が物になったような気分になる。
自分が物にされたような気になるから、相手に対して「客観的で正当なる憎悪」を抱くようになるのである。
そんなわけで、そうされた側が、相手を自分の人間関係から排除したり、さもなくば、物理的に排除しようとするわけである。
そこでメディアで喧伝されるいろいろな対人トラブルが起きるわけであるが。
そんなわけで、相手から「あんたは私の都合のいい人間になれ」との圧力みたいな物を感じたら、そんな人間からはさようならすべきであろう。
話は飛ぶが、自分がお守りされていると思う人間関係からも離れた方がいいであろう。
寂しくはなるが、お守りされていると言うことは、対等な人間だとは思われていない。
実は相手をお守りする側の人間は、あなたを下目に見て、コドモのようになだめすかせば操作可能だと思われているのだ。
そこにも人格の承認はなく、物化されたあなたがいる。
そんな人間関係はまともな人間関係ではない。
が、往々にして日本にはこんな人間関係が多いのだ。
実に困ったものである。