公理系を従順に受け入れ、その枠組みの中で思考することになれてしまうと、その公理系自体を疑うことが難しくなる。
一番恐ろしいのが、受け入れた公理系を「信仰」の域まで信じ込んでしまうと、その公理系が否定されたときにひどい目に遭う。
種を明かしてしまえば簡単だが、アインシュタインの理論は、ニュートン力学のパロディーだ。
ニュートン哲学の絶対性を否定して、時間と慣性系の相対性を導入し、お得意の数学の力を借りて、相対性理論をでっち上げた。
そして時間と空間の相対性まで否定したのが量子力学だ。
遠く離れた量子が、時間と空間を超えて、お互いに作用し合う。
今日ικμτはごらんこの世は美しい、生きることとは甘美なものだ。
と書いたが、私の精神の相方にも影響を及ぼし合ったことだろう。
その人がそう思ったのか先か、私がそう思ったのが先かは知らないが。
ただ化学の世界でいえば、グリセリンの結晶化の方法をヨーロッパとアメリカでほぼ同時に発見したらしい。
電気の世界では電話もそうだ。
ただ、片方の学者が現象の再現性を確認するために追試をしている間に、片方の学者が学会で発表したために、その人が先駆者となっただけの話だ。
案外高次元の世界で、そろそろ人類にグリセリンの結晶化の方法を降下させてもいいだろうと判断してその理念が天下り、研究者が同時にその理念をキャッチしたのだろう。
それだって、それまで結晶化はしないもの。とされていた化学の通説を否定して、「いや、結晶化するかもしれない。」と頑張る熱意があったからこそできる話だ。
量子力学にしたって、現象の客観性を否定したからこそ、観測者によって、光が粒子として振る舞うか、波として振る舞うか変わるという、甚だ主観的な現象が記述できるようになったのだ。
疑うべき公理系は何でもよい。
特に「信仰」の域まで達した公理系こそ、疑ってみる価値がある。
そうそう。この光の粒子性と波動性について研究したければ、高校物理で習う、プランクの考え方を持ってくるといい。
きっとプランク定数が、エネルギの現れ方と振る舞いに影響を与えてくることに気がつけば、後は何かが見えてくるはずだ。
その見えたものは、現象の相対性によって、観測者によって違うので、私の見えたものは書かないことにする。
久しぶりに高校程度の参考書を読んで、そんなことを思ったικμτであった。