CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ)

神戸・岩国の最新情報を中心に紹介していきます。歴史や時事について調べた結果を紹介。

明石菊水そごう西神店でのランチ on 2016-2-21

2016年02月23日 04時46分31秒 | 神戸情報
2016年2月21日(日)明石菊水そごう西神店でランチをいただきましたので
写真紹介します。


明石 菊水 そごう西神店の基本情報
住所:神戸市西区糀台5-9-4 そごう西神5F TEL:078-992-3322 
料理ジャンル:鮨


 公式HP:http://www.a-kikusui.co.jp/


上の写真は当日いただいたお寿司のセットです。 1,500円(税抜)







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広東小菜と点心 黄老 さんちか店 でのランチ on 2016-2-19

2016年02月23日 04時39分54秒 | 神戸情報
広東小菜と点心 黄老 さんちか店 でのランチを写真紹介します。
訪問日:2016年2月19日

広東小菜と点心 黄老 さんちか店の基本情報
住所:神戸市中央区三宮町1-10-1 さんちかレストランモール
TEL:078-391-1930
料理のジャンル:中華料理 広東料理
営業時間:11:00~21:30



上の写真は私が注文した角煮そば1,290円?(税抜)


上の写真は奥様がチョイスした八宝菜セット 1,350円(税抜)


上の写真は上記セットについてくる点心。


上の写真はデザート。

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神戸市埋蔵文化財センター2015年度冬季企画展「昭和のくらし・昔のくらし10」

2016年02月22日 04時47分09秒 | 神戸情報
平成28年(2016)1月23日(土)から平成28年(2016)3月6日(日)の会期で
神戸市埋蔵文化財センター冬の企画展「昭和のくらし・昔のくらし10」が
開催されました。展示物を写真します。
(一部の撮影禁止の展示を除く)
訪問日は2016年2月21日(日)です。

上の写真は調理具のうつりかわり
左から垂水日向遺跡(縄文)の深鉢に始まり弥生、古墳、平安~鎌倉、江戸時代
そして明治以降昭和の鉄鍋などが展示されていました。


2015年度の神戸市埋蔵文化財センターの企画展の内容は上に添付のとおり。




上の写真は戦後の居間と台所の展示




上の2枚の写真は江戸時代のくらしの中の遊び道具の展示で箱庭(上の写真)と
碁石、ベーゴマ(下の写真)


上の写真は江戸のくらしの中の化粧道具


上の写真はミゼットMP5他の展示遠景。






上の3枚の写真は学校給食の展示。脱脂乳の展示が懐かしく感じました。


当日の目玉は昭和の車ミニパレードでマツダのキャロルに同乗させていただきました



上の動画は昭和の車ミニパレードで8台のクラシックカーがイベント会場に
向かう画面です。

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諏訪山の武徳殿

2016年02月21日 05時10分44秒 | 神戸情報
本日は現在の諏訪山町2(須磨神社の鳥居の西側)にかってあった武徳殿に
ついての話題です。

明治28年(1895年)に設立された大日本武徳会の本部道場は、
かつて京都御所大内裏にあった武徳殿に因んで「武徳殿」と名付けられた。

全国各地の武徳会の支部道場も、本部に倣って「武徳殿」と名付けられた。

神戸諏訪山の「武徳殿」もその一つで明治42年(1909)10月30日に
建てられました。

総坪数162坪 なかには中央に祭壇があり道場の東半分が剣道、西半分が
畳敷きの柔道場であった。
さらに西北隅には弓道場もあった。


上の写真がかって諏訪山にあった武徳殿です。
出典:荒尾親成 著 「明治・大正神戸のおもかげ集 第2集 」Page39


上の写真は明治末?の地図で武徳殿の設置位置が確認できます。


上の写真は明治14年(1881)の地図でこの時点では武徳殿の場所は井垣池
であったことが判ります。
上記の荒尾親成氏は笊が池と書かれています。


現在の様子(2014-2-20撮影)は上の写真の通りです。
阪神淡路大震災時は仮設住宅が並んでいました。







またこの場所には明治天皇御小休所址 神戸税関監視部建物の石碑があります。
昭和14年(1939)5月建立。


山下汽船の山下亀三郎、勝田汽船の勝田銀次郎とともに三大船成金として
知られる内田信也は須磨で柔道の道場を持っていたが武徳殿への入門は
許されなかったそうです。



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阪神尼崎駅南側地区 寺町と尼崎城跡の散策記 on 2015-12-1 その7 甘露寺

2016年02月20日 04時48分19秒 | 神戸市以外の兵庫県
2015年12月1日、阪神尼崎の南側の寺町及び尼崎城跡を奥様と2人で
散策してきました。

本日は散策記の第7回で甘露寺を写真紹介します。

過去6回の記事については下記を参照してください。

第1回 阪神尼崎駅南側地区 寺町と尼崎城跡の散策記 on 2015-12-1 その1専念寺

第2回 阪神尼崎駅南側地区 寺町と尼崎城跡の散策記 on 2015-12-1 その2 如来院

第3回 阪神尼崎駅南側地区 寺町と尼崎城跡の散策記 on 2015-12-1 その3 長遠寺

第4回 阪神尼崎駅南側地区 寺町と尼崎城跡の散策記 on 2015-12-1 その4 大覚寺

第5回 阪神尼崎駅南側地区 寺町と尼崎城跡の散策記 on 2015-12-1 その5 法園寺

第6回 阪神尼崎駅南側地区 寺町と尼崎城跡の散策記 on 2015-12-1 その6 善通寺


甘露寺の基本情報

住所:尼崎市寺町6 TEL:06-6411-3262
宗派:浄土宗 山号:薬王山  御本尊:阿弥陀如来
開基:延徳2年(1490)円誉(えんよ)上人源永により創建


元は大物町にありましたが、元和年間(1615~1624)尼崎藩主戸田氏鉄が尼崎城を
築城する際に現在の寺町に移転されました。


上の写真は甘露寺の遠景です。ここでの最大の見どころは本堂の屋根に設置
された鳳凰です。本堂の呼び名も「西方浄土極楽鳳停殿」と命名されました。
鳳凰を停めていることからイメージにピッタリのネーミングと思います。

第十五世寂誉上人其心により貞享4年(1687)中興された折、本堂は重層の
浄土堂に改築されました。

平成3年(1991)桃山時代の様式(旧本堂)を取り入れ改築されました。


上の写真は本堂の近景です。


上の写真は甘露寺の説明板です。


上の写真は甘露寺の山門です。


上の写真は薬師堂。


上の写真は本堂(左手)奥の方丈。


上の写真は放光王延命地蔵尊。


上の写真はせいし丸さまの像

せいし丸さまは浄土宗の開基・法然上人の幼名です。

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阪神尼崎駅南側地区 寺町と尼崎城跡の散策記 on 2015-12-1 その6 善通寺

2016年02月19日 05時16分56秒 | 神戸市以外の兵庫県
2015年12月1日、阪神尼崎の南側の寺町及び尼崎城跡を奥様と2人で
散策してきました。

本日は散策記の第6回で善通寺を写真紹介します。

過去5回の記事については下記を参照してください。

第1回 阪神尼崎駅南側地区 寺町と尼崎城跡の散策記 on 2015-12-1 その1専念寺

第2回 阪神尼崎駅南側地区 寺町と尼崎城跡の散策記 on 2015-12-1 その2 如来院

第3回 阪神尼崎駅南側地区 寺町と尼崎城跡の散策記 on 2015-12-1 その3 長遠寺

第4回 阪神尼崎駅南側地区 寺町と尼崎城跡の散策記 on 2015-12-1 その4 大覚寺

第5回 阪神尼崎駅南側地区 寺町と尼崎城跡の散策記 on 2015-12-1 その5 法園寺

善通寺の基本情報

住所:尼崎市寺町3  TEL:06-6411-2392
宗派:時宗  山院号:平陽山安谷院 
開基:永禄年間(1558~69)に覚阿上人により建立

公式HP:http://www.zentsu-ji.com/about.html




上の2枚の写真は山門(薬医門)は江戸時代4代将軍家綱(在位:1711-1715)の
時代に建立


上の写真は本堂 宝永2年(1705)4月16日棟上げ宝永3年9月竣工
尼崎は時宗の宗祖一遍上人の遊行の地として関わりが深く、最盛期には寺町
だけでも時宗の寺が4つあったそうです。現在では善通寺のみが残る。


上の写真は善通寺の説明板。


レンガ塀の左側は善通寺です(上の写真)


山門の左手に南朝忠臣 秦武文公遺址と書かれた石碑があります。

太平記に下記のような秦武文(はたたけふみ)に関する逸話が残っています。

鎌倉末の動乱期。後醍醐天皇の皇子一宮は謀反の罪で土佐に流される。
京に残された妻・御息所(みやすどころ)は家臣・秦武文を供に土佐へ向かい、
尼崎の宿で船出の風待ちをする。美しい御息所を覗き見た松浦五郎は強奪を
企み宿に夜討をかける。秦武文は御息所を背負い港へと逃れ、船中の人に
御息所を託す。が、その人物こそ松浦五郎であった。
御息所を乗せた松浦の船を小船で追った武文は、腹を切り海中に飛び込む。
武文の怨霊が渦潮や嵐となって松浦の船を襲う。小船で放たれた御息所は
淡路島に漂着し、やがて、一宮とめでたく再会を果たす。


秦武文の塚は海岸寺に建てられましたが海岸寺が廃寺となった為善通寺に
移設されました。


上の写真は秦武文を祀った墓です。


上の写真は秦武文の横の一石五輪塔などの石造物群。
一石五輪塔の中には大永6年(1526)の銘の入ったものも確認されている




上の2枚の写真は納骨堂を境内及び外から撮ったものです。

境内の首無地蔵堂の中に首から上の事に御利益がある首無地蔵尊が安置
されているようですが地蔵堂の方は拝観できなかった。

認知症にならない事を願いたいのですが 叶わず大丈夫かな・・・・
奈良の安倍文殊院では拝んできましたが・・・



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阪神尼崎駅南側地区 寺町と尼崎城跡の散策記 on 2015-12-1 その5 法園寺

2016年02月18日 04時28分46秒 | 神戸市以外の兵庫県
2015年12月1日、阪神尼崎の南側の寺町及び尼崎城跡を奥様と2人で
散策してきました。

本日は散策記の第5回で法園寺を写真紹介します。

過去4回の記事については下記を参照してください。

第1回 阪神尼崎駅南側地区 寺町と尼崎城跡の散策記 on 2015-12-1 その1専念寺

第2回 阪神尼崎駅南側地区 寺町と尼崎城跡の散策記 on 2015-12-1 その2 如来院

第3回 阪神尼崎駅南側地区 寺町と尼崎城跡の散策記 on 2015-12-1 その3 長遠寺

第4回 阪神尼崎駅南側地区 寺町と尼崎城跡の散策記 on 2015-12-1 その4 大覚寺

法園寺の基本情報

住所:尼崎市寺町5 TEL:06-6411-6108
宗派:浄土宗 山院号:恵光山謝徳院 御本尊:阿弥陀如来
創建:永禄4年(1561)に没した玉蓮社勝誉恵光法園が創建
    当初は別所地にあったが元和年間(1615年 - 1624年)尼崎城築城の為
    現在地に移住した。



上の写真は山門。山門の内側に桐、外には菊の紋があり由緒ある寺院であることを
示している。


上の写真は法園寺の縁起が書かれた説明板


上の写真は本堂。


上の写真は佐々成政の墓(五輪塔複製品)。実物は本堂内にあるそうです。
戒名は成政寺殿真州大守四品庭月道閑居士

肥後国人一揆の責任で豊臣秀吉に幽閉された佐々成政は天正16年(1588)閏5月14日
(新暦換算7月7日)に法園寺で切腹した終焉の地である。

佐々成政(1536-1588)公の生涯をWikipediaと現地説明板より要約紹介します。

佐々氏は尾張国春日井郡比良城(現在の名古屋市西区)に拠った土豪。
宇多源氏佐々木氏の一族というが明確ではない。
佐々成政の兄に政次・孫介がいたが、相次いで戦死したため、永禄3年(1560)
24歳で家督を継ぎ、比良城主となる。

天文5年(1536)2月6日生まれ

永禄4年(1561)森部の戦いで敵将・稲葉又右衛門(常通。稲葉一鉄の叔父)を
       池田恒興と共に討ち取る大功を立てる。

永禄10年(1567)黒母衣衆の一員に抜擢

元亀元年(1570)6月 姉川の戦いに先立つ「八相山の退口」では、簗田広正・
  中条家忠らと少数の馬廻衆を率いて殿軍に参加、鉄砲隊を率いて活躍

天正2年(1574)長島一向一揆との戦いで長男・松千代丸を失う

天正3年(1575)5月の長篠の戦いでは前田利家らと共に鉄砲隊を率いて活躍

天正3年(1575)9月 織田信長は越前国制圧後、柴田勝家を置き北陸方面の
   軍団長とした。その与力・目付として成政・前田利家・不破光治の3人
  (府中三人衆)に越前府中3万3000石を与え、成政は小丸城を築いて居城
   とした。

石山合戦(元亀元年(1570))や播磨国平定(1577-1580)、
荒木村重征伐(1578-1579)に従軍

天正5年(1578)8月、能登に侵入した上杉勢を攻めるために柴田勝家らと共に
          加賀に侵攻したが、七尾城の陥落を受けて撤退。

天正8年(1580年)神保長住の助勢として一向一揆および上杉氏に対する最前線
         であった越中国平定に関わった

天正9年(1581)2月 正式に越中半国を知行
           富山城を居城として大規模な改修

天正10年(1582) 本能寺の変 上杉の魚津城を攻略
         清州会議では柴田勝家方につく

天正11年(1583) 賤ヶ岳の戦いで叔父の佐々平左衛門が率いる兵600の援軍を
         出すにとどまった。合戦中における前田利家の寝返りや
       上杉景勝の圧迫もあり、娘を人質に出して剃髪する事で秀吉に降伏
         越中一国を安堵

天正12年(1584) 小牧・長久手の戦いでは秀吉側につかず
          織田信雄方につき秀吉方に立った利家の末森城を攻撃
          徳川家康に再度挙兵を要請するが失敗
           (さらさら越えとして有名)

天正13年(1585) 秀吉自ら越中に出陣、富山城を10万の大軍で包囲、佐々成政は
         織田信雄の仲介により降伏
         越中東部の新川郡を除く全ての領土を没収され、妻子と共に
         大坂に移住させられ、以後御伽衆として秀吉に仕えた

天正15年(1587) 九州征伐で功をあげたことを契機に、肥後一国を知行

秀吉は性急な改革を慎むように指示したとも言われる。病を得ていたとも言われる
成政は、早速に太閤検地を行おうとするがそれに反発する国人が一斉蜂起し、
これを自力で鎮めることができなかった(肥後国人一揆)。
このため失政の責めを受け、安国寺恵瓊による助命嘆願も効果なく、
摂津国尼崎法園寺にて切腹させられた。
  天正16年(1588)閏5月14日(新暦で7月7日)に切腹




上の写真は左側大覚寺、右側が法園寺






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阪神尼崎駅南側地区 寺町と尼崎城跡の散策記 on 2015-12-1 その4 大覚寺

2016年02月17日 04時44分20秒 | 神戸市以外の兵庫県
2015年12月1日、阪神尼崎の南側の寺町及び尼崎城跡を奥様と2人で
散策してきました。

本日は散策記の第4回で大覚寺を写真紹介します。

過去2回の記事については下記を参照してください。

第1回 阪神尼崎駅南側地区 寺町と尼崎城跡の散策記 on 2015-12-1 その1専念寺

第2回 阪神尼崎駅南側地区 寺町と尼崎城跡の散策記 on 2015-12-1 その2 如来院

第3回 阪神尼崎駅南側地区 寺町と尼崎城跡の散策記 on 2015-12-1 その3 長遠寺

大覚寺の基本情報

住所:尼崎市寺町9 TEL:06-6411-2705
宗派:律宗 山号:月峯山  御本尊:千手十一面観音
開創:推古天皇13年(605)に長洲(尼崎)に剣尾山を遥拝する灯炉堂を建立
中興:建治元年(1275)琳海上人により中興

公式HP:http://www.genki.or.jp/wp/archives/1909
    http://amagasaki-daikakuji.com/


上の写真は山門。
南北朝・室町時代の延文4年(1359)12月23日、軍勢を率いて足利2代将軍
義詮が尼崎に来て以降半年間在陣し、 大覺寺城として政治 ・ 経済 ・ 文化 ・
軍事の権力を掌握していました。
後伏見上皇の中宮のご安産祈願を当寺で行い、量仁親王(光厳天皇) がめでたく
誕生され、大がかりな祝典があげられた記録も残されています。




上の写真は能・狂言の舞台と本堂の遠景
例年2月3日の節分に、豆まきに加え「大覚寺狂言」が上演されます



上の2枚の写真は本堂正面(上)と側面(下)




上の写真は上記「大覚寺狂言」の上演風景


上の写真は大物(だいもつ)橋の欄干と弁財天堂



上の写真は弁財天堂と縁起説明書き
弁財天堂は棟札より慶長20年(1615)の建築。大覚寺市庭の鎮守神です。
覚一検校(かくいちけんぎょう)は覚一本・平家物語の著者です。


上の写真は玉水の井戸


上の写真は契沖の歌碑

契沖は尼崎の生まれで、近世国学の祖




上の3枚の写真は尼崎中央図書館の南側の契沖の顕彰碑



上の写真は薬師堂と南側の石造物


上の写真は経堂と鎮守


上の写真は芦刈島の説明板


上の写真は毎月1日と16日例祭 地蔵菩薩例祭、 歓喜天例祭


上の写真は歓喜天尊の石碑


上の写真は境内社


上の写真は聖天堂。



上の写真は地蔵尊。


上の写真は墓所



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もぼろしの伏見城(指月城)の石垣が見つかる on 2015-6-20

2016年02月16日 05時25分05秒 | 京都情報

BS11で放送の「尾上松也の古地図で謎解き!にっぽん探究」を2月9日(日)に
観た。内容は「京都・城に秘められた権力者たちの思惑」であった。

番組中に幻の伏見城と言われていた指月城が2015年6月に石垣が発見された
ことが紹介されました。

これを機に、もぼろしの伏見城(指月城)について番組で紹介された内容を
中心に写真紹介します。
番組では山田邦和 同志社女子大教授が解説されていました。
これから紹介する写真は特記のないものは上記番組によります。

調べて見ると伏見城跡(指月城)の発掘調査は(有)京都平安文化財により
2015年4月13日から7月13日まで行われました。

また現地説明会は2015年6月20日に行われ36mに及ぶ石垣の跡が公開されました。
 現地説明会資料については下記サイトで見れます。
  http://iseki-hakktsu.com/investigation/index22.html

発掘現場はライオンズマンションの建設現場で所在地住所は
 京都市伏見区桃山町秦長老176-6




上の写真が発掘の様子を示したもので南北方向に36mの石垣が出土した。
同時に5mから7m幅の堀跡も確認されました。
出土した石垣は1,2段で高さ約0.5~1m 奥行2m もとは3段であったとされる



上の写真も発掘現場。

ここで指月城-木幡城の建設過程を関連事項とともに整理しておきます。
文禄元年(1592) 8月20日 伏見指月の地に秀吉の隠居屋敷建設を始める
文禄2年(1593) 8月   秀吉室浅井氏(茶々,淀殿)大坂城で秀頼を生む
        9月   秀吉 指月屋敷に移る

 文禄3年(1594) 1月3日 指月屋敷を拡張,新営を計画する。3月7日着工

         3月20日 淀城を壊し、指月城に移す。
         8月1日 指月城が完成、秀吉も移住
文禄4年(1595)  7月15日 関白豊臣秀次が自害。その後聚楽第を破壊、
              その資材を指月城に運ぶ。
文禄5年(1596) 閏 7月13日 京都・伏見に大地震、指月城倒壊(慶長大地震)
 (慶長元年)  7月15日 木幡城の建設着手
         10月10日 木幡城 本丸が完成
 慶長2年(1597) 5月   木幡城 天守閣と殿舎
 慶長3年(1598) 9月16日 豊臣秀吉 没 


尚木幡城は1600年の関ヶ原の戦いの折、石田三成の軍勢により焼失後徳川時代
1602年に再建されています。1619年に廃城とされた。このとき建物や部材は
二条城、淀城、福山城などに移築された。伏見城の跡には元禄時代ごろまでに
桃の木が植えられて桃山と呼ばれるようになり、やがて伏見城は桃山城あるいは
伏見桃山城とも呼ばれるようになった。
伏見城本丸一帯は、明治天皇の伏見桃山陵が造営され、名護屋丸の南には
昭憲皇太后(明治天皇の皇后)の東陵なども造営された。
伏見桃山城運動公園には、旧伏見城建造物と関連のない模擬天守が建っている

指月城は秀吉の隠居屋敷を改修する形で築城されたことが判ります
(秀頼の誕生が大きく影響していると思われる)





上の写真は大成京細見絵図 洛中洛外町々小名(1868)に表示された指月山と
木幡山城の位置

11世紀の初め、藤原頼通の第四子橘俊綱が、指月森附近に伏見山荘を建てて
います。その後伏見山荘は持ち主が変わり14世紀に伏見殿となった。



上の写真は2015年6月19日付け京都新聞の切り抜き


上の写真は出土した金箔瓦。


上の写真は指月城と伏見に形成された城下町。


伏見には今でも昔の名残を残す名前が残っています。



上の写真は指月城の推定図

関連サイトなど:
 神戸新聞 2015-6-18

 神戸新聞 2015-6-19朝刊
 神戸新聞 2015-8-7夕刊

 それでも指月伏見城はあった  森島康雄 著

 伏見城発掘調査 第214回京都市考古資料館文化財講座

 太閤堤 宇治川右岸で発見 REV1


指月城及び周辺には大和国比曾寺から移転した三重塔(園城寺に現存)や
直江兼続が掘削したというお舟入や観月橋があります。
 http://kichinosuke-kai-dog.blogspot.jp/2012/06/blog-post_30.htmlより

伏見はわが生まれ故郷宇治の時代に買い物に行った記憶もあり
観月橋の名前も懐かしく思います。


以下は2021年12月2日に追記

伏見城(指月城)跡発掘調査の現地説明会へ行ってきました

豊臣秀吉が築いたあと慶長大地震(1596)で倒壊し、「幻の城」

ともいわれる「指月伏見城」の石垣の基礎の跡が新たに見つかり2021年10月30日
京都市埋蔵文化財研究所が発表しました。
 
下記ブログで概要を書いています。
 

 

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阪神尼崎駅南側地区 寺町と尼崎城跡の散策記 on 2015-12-1 その3 長遠寺

2016年02月15日 04時35分23秒 | 神戸市以外の兵庫県
長い間中断していた尼崎寺町と尼崎城跡散策記を久しぶりに書きます。
2015年12月1日、阪神尼崎の南側の寺町及び尼崎城跡を奥様と2人で
散策してきました。

本日は散策記の第3回で長遠寺を写真紹介します。

過去2回の記事については下記を参照してください。

第1回 阪神尼崎駅南側地区 寺町と尼崎城跡の散策記 on 2015-12-1 その1専念寺

第2回 阪神尼崎駅南側地区 寺町と尼崎城跡の散策記 on 2015-12-1 その2 如来院


長遠寺の基本情報
住所:尼崎市寺町10 TEL:06-6411-0573
宗派:日蓮宗 山号:大尭山 御本尊:題目宝塔、多宝如来、釈迦如来
開基:観応1年(1350) 永存院日恩上人 七ツ松の地で創建

当初、法花(ほっけ)寺と呼ばれており七ツ松からのちに風呂辻町・辰巳(巽)
・市庭(市場)(すべて、現・東本町の地名)に移りさらに元和3年(1617)に
尼崎城築城にともなって現在地に移転した際、寺号を現在のものに改められた。



上の写真は多宝塔。尼崎市で唯一の多宝塔だそうです。
国指定の重要文化財に指定されています。この多宝塔は釈尊、多宝の二仏が
祀られています。
棟札によって慶長12年(1607)第七世日遊上人の時代に甲賀谷又左衛門尉正長
が施主となって建造されました。

そのせいか境内に甲賀谷又左衛門尉正長と奥様の五輪塔があります。(下の写真)



上の写真は本堂(国指定 重文)です。慶長3年(1598)と元和9年(1623)
の棟札があるが昭和56年の解体修理により元和9年の建築であることが判明。


上の写真は鐘楼。
棟札から寛永14年(1627)に建立後、寛延3年(1750)に屋根の葺替え等を
行っていることが判明しています。


上の写真は本堂の奥にある庫裡。


上の写真は本堂の前の上人像など石造物


「初時雨(はつしぐれ)猿も小蓑を欲しげなり」松尾芭蕉の句碑

松尾芭蕉が45歳の時、貞享5年(同年の9月30日に元禄と改元)3月19日
(新暦換算:1688年4月19日)尼崎を船出し兵庫に夜泊しています。







上の写真は境内の社(境内社)
妙見宮と馬舎の他にも多数の社があります。


最後になってしまいましたが長遠寺の説明板(上の写真)



上の写真は手水舎。

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