はこがゆく

~ フランスからモーリシャスへ ~

こんにちは

2010-08-31 13:45:57 | Weblog
今朝べべを保育ママSさんのところへ
預けにいったところ、Sさんの同僚の保育ママさんと
その子供たちが一緒にいた。

この同僚の人とSさんは馬が合うのか
ちょくちょく彼らとは一緒にいるのでべべも顔見知り。
すると同僚の保育ママさんが預かっている子のひとり、
Hくんが

コンニチハ!!

Hくん、誰に聞いたのか(Sさんか?)
コンニチハという日本語の挨拶を憶えたので
べべに言いたかったらしい。1度言った後、
何度もリピートしていた。

べべは

こんにちは(ぺこっとおじぎ)

と返事。しまじろうのDVDとかで「こんにちは」
というときにお辞儀をしているのを見ていたのだろう。
お辞儀をするべべをみてSさんが、
「べべ、おじぎをするなんて、やっぱりプロだわねー。」
とか言っていた。

ポジティブな異文化交流は楽しい。

スープはれんげで食べる

2010-08-25 01:34:25 | Weblog
なんちゃって和食屋で昼食。
パリによくあるアジア人(非日本人)経営の
和食屋の定番メニューはスシとヤキトリ。
今回もスシとヤキトリのセットメニューを注文。

まずはサラダとミソスープがでてくる。
もちろんミソスープにはれんげが付いている。
郷に入れば郷に従え、と心の中で唱えつつ
れんげでミソスープを食べる。
普通はこれを食べきらないと次が出てこないのだが
味噌汁はご飯と食べたいので、店員さんに
一緒に食べたいので次持ってきてください、と注文。

こちらでスシの定番といえばサケとマグロ。
なかにはサケのにぎりが8個の握りメニューとかもある。
「そんなにサケばっかり食えるか!」って渡仏当初は
心の中でつっこんでいたけれど、今では見慣れてしまった。

今回頼んだメニューには
スシのほかにもご飯がついてきた。
このご飯は長粒米が仏壇のお供えのように
丸く盛ってあった。

なんちゃってだと分かっていながら
和食が恋しくてたまに和食屋に入るのだが
大抵は食後になんとなくすっきりしない気持に
なったまま店を後にすることが多い。


ネゴシエーションスキル

2010-08-22 14:47:06 | Weblog
その1:物の交渉

食事の途中で

べべ:まんごぴゅれー
ママ:まだ食事中でしょ。マンゴピュレはデザート。
べべ:まんごぴゅれー
ママ:ご飯たべてからね。
べべ:まんごぴゅれー
ママ:じゃあ、この茄子ちゃんとたべたらマンゴピュレあげる
べべ:(茄子を食べる)
ママ:(茄子を食べてくれたことに満足しつつ、マンゴピュレを渡す)

べべのネゴシエーションの基本は
同じ言葉をひたすらリピートすること。
でも案外それだけでほしいものがもらえたりする。

その2:数の交渉

べべ:びすけっと、たべるー
ママ:はい、どうぞ(1枚渡す)

1枚食べ終わって

べべ:びすけっと、たべるー
ママ:じゃあ、これで最後の1個だよ(2枚目を渡そうとする)
べべ:に、たべるー(手でピースをしながら)
ママ:さっきもう1枚たべたでしょ。だからもう1枚でおしまい。
べべ:に、たべるー(手でピースをしながら)
ママ:全部で2枚。はい、どうぞ(1枚渡す)
べべ:(仕方ないか、という様子で1枚受け取る)

初めて、「に、たべるー」と言われた時には
息子の成長がうれしくて思わず2枚渡してしまったけれど
その手には毎回は乗らない。

甚平

2010-08-21 16:36:39 | Weblog
べべ、(ママが念願の)甚平デビュー。

パリ近郊在住の日本人ママから譲り受けた
甚平をべべに着せてみたい、とずっと思っていたのだけど
なかなか暑い日がなくて着させそびれていた。
今日は天気も良いし比較的暑めなので、
着せてみることに。

青地に黄色いぴかちゅうの絵がついた甚平、という
自分で進んでは買わないであろう柄なのだが
着せてみると案外いい感じ(親バカは承知の上)。

べべにこれはぴかちゅう、というキャラクターで
着ているものは甚平というんだよ、と言うと
ぴかちゅう、じんべー、と理解した様子。

暑すぎるのはいやだけど、あと何日か
甚平が着られる程度に夏らしい日があるといいな。

マミーだらけ

2010-08-18 15:27:52 | Weblog
Hのいとこの結婚式を兼ねてリヨン近郊へ。
この辺りにはHの母方、父方の親戚が多く住んでいるので
行くと親戚めぐりの毎日になる。

その中でも特筆すべきは2人のマミー。
Hのおばあちゃんなので、べべのひいおばあちゃん。
2人とも元気。
とくに父方のマミーシモーヌさんに至っては
88歳になった今でも自宅の裏で飼っている
にわとりや鴨の世話をしたり、畑の野菜の手入れをしたり
しゃきしゃきしている。というか「お元気そうで」、
というのが失礼なぐらい普通。

マミーシモーヌの庭でべべは初めて目の前でにわとりを見た。
遠目に見ている分にはいいけど、近づくのは怖いらしく
j'ai peur(怖い「I'm afraid」と同じ感じ)
と言っていた。でもコケコッコ、と言いながら
それがにわとりであることを確認していた。

もう一人のひいおばあちゃん、マミールーシーは
足が悪くて車いすに座っている。
一時アルツハイマーが大分進行したかのような状態に
なっていたのが、当時飲んでいた薬をやめてからは
調子がよい。普通に会話ができるまでに戻った。
ボケさせる薬なんて初めから飲ますな、とは思うけど
人によっては効果があるのかな。

べべは2人に会った次の日にも
マミーシモーヌ、マミールーシーと言って
前日に会ったことを反芻していた。

おたがいにとってうれしい訪問だった様子。

たんたんたん、たんたんたん

2010-08-13 12:58:44 | Weblog
このごろのべべのダンス。

両手の人差し指を上にして、
たんたんたん、たんたんたん、
といいながら腰をふったり、ぐるぐる回ったり。

ぜひとも動画を撮りたいのだけど
撮ろうとするとカメラに興味が沸いて
ダンスをやめてしまったりするので
まだ撮れていない。

今週末からHの親戚の結婚式兼ねて
南下するので、そのときにでも
撮れる事を期待しつつ。

似ているようで同じもの、違っているようで同じもの

2010-08-11 12:10:50 | Weblog
フランスでは外国のものでもアルファベットの
つづりはそのまま、読みだけフランス語読みにしているため
日本語・英語の呼び方に慣れている場合に一瞬「は?」
と固まることがたまにある。

例えばIBMはアイ・ビー・エムじゃなくて
イ・ベー・エム。
ドゥロワット、って聞いて固まっていたら
デロイトだったり。

日本でも中国の人名を日本語読みしたりするから
それと同じことをしているだけなんだけど。

さらにアルファベットの略語になると
順序が英語とは変わるからややこしい。
国際機関関連は顕著。OECDはOCDEになる。
あとはAIDSもSIDA(シーダと読む)。
中には全く違う、っていうものもある。
WHOに至ってはOMS。

いまだにたまに新顔に出会っては
「ほう、そうきましたか」と思うことがある。

有給を使い切る国から

2010-08-09 14:11:59 | Weblog
ロイターの以下の記事に「有給使い切る国の1位はフランス、
日本は最下位」と出ていた。
想像通り、なんの意外性もない結果、ともいえるけれど。

http://jp.reuters.com/article/oddlyEnoughNews/idJPJAPAN-16692220100809

確かに有給、特に夏休みの休暇に関してフランスは
「取って当然」「そのために1年働いている」
というような雰囲気がある。
私もそれに影響を受けているのか、
今では日本で働いていたとき以上に夏休み
(を初めとするすべての休み)が待ち遠しく、
かつ仕事復帰するときに憂鬱になる具合はなんだか漫画のよう。

休みを堂々ととる風潮は
ブルーカラー、ホワイトカラー、職位問わず。
街の小売店でも「年次休暇」と称して
2週間から1ヶ月程度閉まるところが多い。
社員食堂だって夏休みは2週間閉まる。

その休みのピークが今週と来週の2週間。
この間、パリの半分以上は機能していない。

ぷにゅぷにゅ

2010-08-05 21:49:08 | Weblog
べべとママと2人、ソファに座って
ベビーブックという1歳から3歳児向けの雑誌を
二人で読んでいたときのこと。

べべがママの着ているTシャツのすそをまくって
ママのおなかをつまんで、
「ぷにゅ、ぷにゅ」
と言い出した。

数日前にHが私に冗談でやっていたのを見て
憶えていたらしい。

ママがTシャツを元にもどすと、まためくって
「ぷにゅ、ぷにゅ」。おかしくてママが笑うと
べべもケタケタ笑う。

確かに出産前よりもぷにゅぷにゅしてるよなぁ、、、。

原爆投下の日を前に

2010-08-04 12:15:38 | Weblog
昨晩テレビで広島の原爆被害者に関するドキュメンタリーを見た。
その中でABCC(原爆傷害調査委員会)という、原爆の傷害の実態を
調査するためにアメリカが広島に設置した機関について述べていた。
この期間は実態を調査するためであったので、治療は一切行わず
人の扱いも実験動物に近いものだったようだ(被爆者が死んだ
場合には解剖して、ほとんどの臓器をアメリカ本国に送ったりした)。

原爆投下自体、人々が一番多く建物の外に出ている時間をねらっていたり
悪質極まりないし、当時のアメリカの黄色人差別が背景にあっただろう、
と想像されるのに、投下後にもこういうことを平気でやり続けた
当時のアメリカには軽蔑を覚えた。

そして何より残念なのはこういう情報を今まで
日本に住んでいたときに知ることがなかった、ということ。

もっと加害者としても被害者としても、
自国の歴史を伝えるべきだろう、と思う。
(といいつつ、アメリカ人で原爆の被害ことを知っている、
ましてやABCCのことを知っている人なんてほとんど
いないだろうけど、それはアメリカの問題。)

日本では良くも悪くも「水に流す」とか
「くさいものにふたをする」というのが物事に対する
対処法として認められているが、それでいいことと
ちゃんと向き合うべきことがある。

日本の外に住んでいるからこそ見えてくる日本がある。