残念な「自宅開業」であった。
しかし、これでじっくりと治療と学問に取り組めることになると思った。
私の「漢方」への目を開いてくれた湯本求真先生にちなんで
治療所の名称を「ハリと灸・中川求真堂」とした。
湯本先生は、漢方が没落していった明治の末期に、
敢然と立ち上がって漢方復活の叫び声をあげた
先駆者和田啓十郎先生(「医界の鉄椎」の著者)の跡を継いで、
今日の漢方医学界の基礎を築かれたパイオニアであった。
私は、漢方医学の一翼を占める「鍼灸学」に打ち込むことで、
若き日に心の奥に培われた「変革への志」を実現しようとの決意を
更に深めて「民主治療所」の失敗から立ち直る道を探り始めた。
新しい治療所では、恩師・丸山昌朗先生の教えどおり
どんなに経営が苦しくても原則として往療は行わず、
暇なときは勉強して患者を待った。
しかしあるとき、
私が19歳の「浪人生」だった頃付き合いのあった農民の方が治療に見えて、
地域での医療啓蒙活動に取り組んで見ないかと相談された。
鍼灸師になる10年前に
若気の至りで「大学受験の勉強」の傍ら
生かじりの「社会思想」で日本の未来、日本の農村民主化などを
公民館などで熱を込めて説いて回った時の地域の農家の人たちが
今度は、私の鍼灸の話や治療のために集まってくれた。
毎週、あちこちの農家で、楽しい集いが続いた。
その噂が県南にも飛び、月一度は県南にも行くようになった。
そんなことが数年続いたが、それからは重点が「職業病」へ
移っていった。
しかし、これでじっくりと治療と学問に取り組めることになると思った。
私の「漢方」への目を開いてくれた湯本求真先生にちなんで
治療所の名称を「ハリと灸・中川求真堂」とした。
湯本先生は、漢方が没落していった明治の末期に、
敢然と立ち上がって漢方復活の叫び声をあげた
先駆者和田啓十郎先生(「医界の鉄椎」の著者)の跡を継いで、
今日の漢方医学界の基礎を築かれたパイオニアであった。
私は、漢方医学の一翼を占める「鍼灸学」に打ち込むことで、
若き日に心の奥に培われた「変革への志」を実現しようとの決意を
更に深めて「民主治療所」の失敗から立ち直る道を探り始めた。
新しい治療所では、恩師・丸山昌朗先生の教えどおり
どんなに経営が苦しくても原則として往療は行わず、
暇なときは勉強して患者を待った。
しかしあるとき、
私が19歳の「浪人生」だった頃付き合いのあった農民の方が治療に見えて、
地域での医療啓蒙活動に取り組んで見ないかと相談された。
鍼灸師になる10年前に
若気の至りで「大学受験の勉強」の傍ら
生かじりの「社会思想」で日本の未来、日本の農村民主化などを
公民館などで熱を込めて説いて回った時の地域の農家の人たちが
今度は、私の鍼灸の話や治療のために集まってくれた。
毎週、あちこちの農家で、楽しい集いが続いた。
その噂が県南にも飛び、月一度は県南にも行くようになった。
そんなことが数年続いたが、それからは重点が「職業病」へ
移っていった。
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