チャレンジ鍼灸師82歳:今、新しい医学・医療創造の志に燃えて生きる!

青春時代の社会変革活動の挫折をのりこえ、鍼灸の道へ。

チャレンジ鍼灸師の歩み・・・6

2012年11月01日 | 私の歩み
鍼灸学校・学生時代のこと・・・3

新医協を通じて、
新しい「人民中国」建設当時の中国を訪れ、
そこでの「中国医学と西洋医学の協同」の現状と実績を見てきて、
全国の医療機関に先駆け、既に漢方薬を治療に取り入れていた
東京八丁堀にある「鉄砲州診療所」の木下繁太郎先生と出会い、
そこに全国初の医療機関での「鍼灸治療の場」を建設することになった。

治療は、私の先輩である、川瀬先生の生薬学教室の鍼灸師のグループが担当し、
私たち学生班には、かけがえのない臨床研修の場となった。

印象に残った例では
「急性虫垂炎」で担ぎこまれた患者に、
すぐに「手術」に移行できる体制を整えた上で、鍼灸治療し、
足三里1本の鍼で、完治してしまったことがある。

先輩の技術と鍼灸治療の凄さに感動した。
これは、
当時の「鍼灸学校」では、絶対に学ぶことのできない体験であった。

当時は、まだ現代医療の現場で、
医師と鍼灸師が
「平等の立場で協同して」患者を治療する
ことは
なかったので、全国の民主医療機関の話題になり、
何か所かで取り組む契機となった。

若い駆け出しの鍼灸師や学生たちに任せておいいては不安だという
当時の大家たちの親心の結晶が
「日本民族医学研究所」の発足
であった。

ここには、
今は亡き新医協会長・久保全雄先生、竹山晋一郎先生、丸山昌朗先生、
工藤訓正先生、木下繁太郎先生、小野文恵先生、
そして、今なお悠々自適の長沢元夫先生、川瀬清先生など
当時の日本の先進的な漢方・鍼灸界を代表する
東京在住の錚錚たるメンバーが参加された。

鍼灸学校3年生の私と村井(旧姓・小山)久子さんの二人で
事務局の重責を担わせていただいたことと、
同じ時期、新医協の「労働衛生学」の分野から職業病に取り組んでいた医師たちとの、
鉄砲州診療所・職業病患者会活動への協力は
私の今日を築く糧となった。


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