チャレンジ鍼灸師82歳:今、新しい医学・医療創造の志に燃えて生きる!

青春時代の社会変革活動の挫折をのりこえ、鍼灸の道へ。

若い世代に期待する・・鍼灸医師への動きが始まった!

2012年11月22日 | 鍼灸医師制度への取り組み
今年の5月、第53回日本神経学会学術大会が東京国際フォーラムで行われた。
その中で、
シンポジュウム「神経内科診療における鍼灸活用の可能性を探る」
が開催され「神経内科と鍼灸医療との邂逅」というテーマで、
医師と鍼灸従事者との協力体制が討議された。

その前日、2日にわたって、慶応義塾大学三田キャンパスで
公開シンポジウム「鍼灸医療の将来像を語る」が行われ
その最終テーマで「鍼灸医療の担い手:鍼灸医師への道のり」が挙げられた。

私のこのブログの読者である慶応義塾大学医学部の若い医師・鍼灸師から、
その演者として、私に依頼があった。
しかし、私は今左下肢の神経麻痺のため歩行困難で参加が無理なので、
名古屋の黒野先生を推薦した。
それで先生のグループから皆川宗徳先生が演者となられた。  

いよいよ、私がかねてから呼び掛け続けてきた
「鍼灸医師」への道が拓かれ始めたのである!


シンポでの講演内容は,私の考えとは多少の違いはあるが、
めざすところは同じである。

皆川先生は、当面「学会認定鍼灸師」を設定し、
質の向上を図ることを述べられたらしいが、
私の主張は、あくまで早急に「鍼灸医師制度」の法的確立をめざし、
経過措置を配慮しながら
すべての鍼灸従事者を「鍼灸医師」とするものである。
「専門認定制度」はそれを前提に、必要ならなされるべきであろう。

そして、「鍼灸医師制度」の確立の上にこそ
現代医師と鍼灸医師が、手を携えて新しい医学・医療の建設に
取り組む体制が築かれるのだと思う。

患者に支えられた「鍼灸医師制度」への新たな運動を
いかに構築するか、若い世代に期待する。


私も微力を尽くして取り組みたい。











生活保護者を治療し始めた・・・・

2012年11月22日 | 最近の治療体験から
先日(11月9日)とその翌日(11月10日)
何故か、生活保護の患者が相次いで治療にきた。

一人は、「腰痛症」。
もう一人は「脳梗塞後遺症・右半身不随」。


どちらも「生活保護医療」における鍼灸治療の問題を含んでいる。

● 腰痛症の患者は
治療に来られた前日、椅子に腰かけていて立とうとした瞬間に
腰の激痛に見舞われ、腰が伸びず歩くのがつらくなった。
いわゆる「ぎっくり腰」である。

すぐにかかりつけの「整形外科医」に行き
注射を3本打ってもらい、2週間分の投薬を受けた。

しかし、全く痛みが好転せず、翌日も同じ状態だったので
電話帳広告を見て、私のところへ来た。

この人は、「生活保護」を受けているので、市の担当者に相談したら
”「整形外科医」の「同意書」を貰ってからしか、鍼灸は駄目だ。
自費ならかかってもよい”と言われたと一応自費治療をした。

この患者は、
時々「ぎっくり腰」になり、その度に整形外科医の治療を受け
数日かかって治っていた。

今回は、いつもよりひどく、全然楽にならないので
鍼灸治療を受けてみようと思ったとのこと。

治療は、両下肢のふくらはぎにある「飛陽」という「経穴(ツボ)」に
鍼を刺し、10分位で激痛はほとんど軽快。

腰部の深いところに少し硬い部分が残った。
これは「慢性的な腰筋のこり」で慢性腰痛の原因だからこれを治療すると
「ぎっくり腰」もめったに起こらなくなると言いながら
こりの表面に浅く「快浅刺法」を施した。数分して一応こりは取れた。

しかし、これは完治ではなく、また「こり」と「痛み」は出るから
出たら我慢せずに早めに治療するように指示して帰した。

夕方になって、またいくらか「痛みが出た」と
今度は、あれからすぐに市から書類を貰って整形外科に行ったら
「同意書」を書いてくれたと持ってきた。

しかし、すでに2週間分の投薬を受けているので
「生保の適用」は駄目かも知れないと説明したが、
本人が、市では「同意書」があればいいと言っていたと納得しないので
担当者に確認するように話した。

私の目の前で、市に電話したら、今度はやはり駄目だといわれ
本人は、「さっきは同意書があればよいと言われた」と頑強に交渉した。
それで、市では「検討する」ということになったようだ。

治療は、一日の2回目なので「無料サービス」してあげた。
そして、やはり楽になって帰った。

しばらくして、市から電話があり、この患者について「検討中」だが
どんな具合かと聞かれた。

私は、今回の鍼治療の前日の痛みは取れたが、
「慢性腰痛」の治療が必要だと説明した。

医師との併用については
「原則は保険適用は認められないが、
法的に療養費は"保険者の裁量権”が認められており
"同意書の添付があれば、支給要件を満たしているとみなしてもよい”

という"通知"もあり、何とか配慮してほしい」と付け加えた。


市の結論を待っていたが、
本日(11月22日)「給付承認書」が送達された。

本人は、初診の3日後、その1週間後と2回しか治療に来ていない。
初診の治療で、来診当時の「激痛」は既に取れていたが、
そのとき少し残っていた「慢性腰痛」のためと思われる「鈍痛」も
ほとんど感じなくなっており、
触診しても、腰筋のこりもなくなった。

そのとき、「痛みとこり感」が出たらすぐ来るように帰したが、
3日経過した今日、まだ来ていない。多分具合はいいのだと思う。

● 脳梗塞後遺症・右半身不随の患者については

もう今までの治療では、
「これ以上の改善は見込めない」と医師に診断され
完全に治療は打ち切られた。
いわゆる「症状固定」ということだが、問題がある。
本当に「改善の可能性がない」のであろうか??

市では、鍼灸は「自費」なら自由だが「生保医療」は適用できない
ということであったらしい。

本人は53歳の若年性だから、
「これで諦めるわけに行かない。
もう鍼灸に期待するほか道がない。自費でも治療を受けたい。」
というのだが、私はそれに応えたい。

しかし、前回治療後、本人は「少なくても週に1度は治療を受けたい」と
言って帰ったが、まだ見えていない。
一回の治療で、見切られ、諦められてしまったのだろうか?

私としては、
治療の仕方を含め、生活保護適用のためにも、
真剣にどう対処するかを熟慮しているところである。














チャレンジ鍼灸師の歩み・・・7

2012年11月10日 | 私の歩み
私は医師と共同の場で開業したかった

鍼灸学校を卒業し、鍼灸師の資格を取り帰郷した私は、
「鉄砲州診療所」のような医師と鍼灸師の共同の場を民主医療機関として
建設しようと志し、地域の協力者を集めて「開設委員会」を組織した。

張り切って資金集めに奔走しながら、同志となる医師を探したが
思うようにはいかなかった。

駆け出しの鍼灸師である私とともに
新しい医学・医療を築こうなどと考える奇特な医師など
存在するはずもなく、民主医療機関連合会(民医連)に依頼しても
全く反応はなかった。

当時、漢方・鍼灸などは、ほとんどの医師には、
「効果がある」と考えられてもいなかったし、
ことに鍼灸は歯牙にもかけられず、
医療の一端を担っているなどとは思われていなかった。

それで、医師との共同の治療の場を建設するのを諦めて
1966年、地域の人たちに支えられて、鍼灸専門の「民主治療所」を
スタートさせた。

「開業の集い」には、
地域の老人会の役員や地域の社会活動家などが参加し、
東京からは木下繁太郎先生が駆けつけてくれ、
地元の県鍼灸師会長も顔を出してくださった。

まずまずの出足だった。

しかし、
少しづつ信頼してくれる患者は増えてはきていたが、
期待したほどには來患数はあがらず、最初から経営はピンチ続きだった。

お金をかけて改築した借家の家賃の支払いや
手伝いの鍼灸師の給料の支払いの資金繰りに追われ、
赤字は増えるばかりであった。

結局、1年も維持できず、出資者に迷惑のかけっぱなしで
廃止することになってしまった。




チャレンジ鍼灸師の歩み・・・6

2012年11月01日 | 私の歩み
鍼灸学校・学生時代のこと・・・3

新医協を通じて、
新しい「人民中国」建設当時の中国を訪れ、
そこでの「中国医学と西洋医学の協同」の現状と実績を見てきて、
全国の医療機関に先駆け、既に漢方薬を治療に取り入れていた
東京八丁堀にある「鉄砲州診療所」の木下繁太郎先生と出会い、
そこに全国初の医療機関での「鍼灸治療の場」を建設することになった。

治療は、私の先輩である、川瀬先生の生薬学教室の鍼灸師のグループが担当し、
私たち学生班には、かけがえのない臨床研修の場となった。

印象に残った例では
「急性虫垂炎」で担ぎこまれた患者に、
すぐに「手術」に移行できる体制を整えた上で、鍼灸治療し、
足三里1本の鍼で、完治してしまったことがある。

先輩の技術と鍼灸治療の凄さに感動した。
これは、
当時の「鍼灸学校」では、絶対に学ぶことのできない体験であった。

当時は、まだ現代医療の現場で、
医師と鍼灸師が
「平等の立場で協同して」患者を治療する
ことは
なかったので、全国の民主医療機関の話題になり、
何か所かで取り組む契機となった。

若い駆け出しの鍼灸師や学生たちに任せておいいては不安だという
当時の大家たちの親心の結晶が
「日本民族医学研究所」の発足
であった。

ここには、
今は亡き新医協会長・久保全雄先生、竹山晋一郎先生、丸山昌朗先生、
工藤訓正先生、木下繁太郎先生、小野文恵先生、
そして、今なお悠々自適の長沢元夫先生、川瀬清先生など
当時の日本の先進的な漢方・鍼灸界を代表する
東京在住の錚錚たるメンバーが参加された。

鍼灸学校3年生の私と村井(旧姓・小山)久子さんの二人で
事務局の重責を担わせていただいたことと、
同じ時期、新医協の「労働衛生学」の分野から職業病に取り組んでいた医師たちとの、
鉄砲州診療所・職業病患者会活動への協力は
私の今日を築く糧となった。