「社団法人日本鍼灸師会 40年周年史・創立50年記念誌・創立60年記念誌」を
参照しながら「鍼灸業界の健保問題取り組みの歴史」を検討してみたい。
私が鍼灸師会員となったのは、昭和41年である.
私の県も、戦後いち早く「健保問題」に取り組み、
それなりの一定の成果を挙げ「協定」もされていたようである。
しかし
昭和25年の「保発4号 厚生省保険局長通知」により協定は破棄され、
その後私が取り組みを始めるまで、全くゼロであった。
私は中央の指導の下に「県との交渉」を始めたが全然進展はなかった。
昭和42年9月には「保発32号 厚生省保険局長通知」が出され、
具体的取り扱いの指示が示されたが、
取り扱いの全くできなかった地方では、無意味であった。
しかし、この通知は、
これまでの鍼灸健保推進の先駆者たちの
血のにじむ努力の結実であったようである。
「保発4号」によって衰退した運動を盛り返そうと、
昭和33年2月に九州連合の熱烈な提唱により「保険獲得期成同盟」を結成し
更に同年12月「日保会」に改組し強力に運動を展開した。
その結果、
昭和36年5月保険局医療課長の「内簡」により鍼灸健保取り扱いの指示が
全国に示達され、従来の厳しい情勢を打開する道が開けた。
そして
昭和42年の「保発32号」は、これまで「内簡」「書簡」でしか示達されていなかった
鍼灸の保険取り扱いが、はじめて正式に「通知」によって認められたのである。