チャレンジ鍼灸師82歳:今、新しい医学・医療創造の志に燃えて生きる!

青春時代の社会変革活動の挫折をのりこえ、鍼灸の道へ。

鍼灸業界の健保問題取り組みの歴史を検討する・・・2

2013年08月31日 | 鍼灸健保問題

「社団法人日本鍼灸師会 40年周年史・創立50年記念誌・創立60年記念誌」を

参照しながら「鍼灸業界の健保問題取り組みの歴史」を検討してみたい。

 

私が鍼灸師会員となったのは、昭和41年である.

私の県も、戦後いち早く「健保問題」に取り組み、

それなりの一定の成果を挙げ「協定」もされていたようである。

しかし

昭和25年の「保発4号 厚生省保険局長通知」により協定は破棄され、

その後私が取り組みを始めるまで、全くゼロであった。

私は中央の指導の下に「県との交渉」を始めたが全然進展はなかった。


昭和42年9月には「保発32号 厚生省保険局長通知」が出され、

具体的取り扱いの指示が示されたが、

取り扱いの全くできなかった地方では、無意味であった。

 

しかし、この通知は、

これまでの鍼灸健保推進の先駆者たちの

血のにじむ努力の結実であったようである。

 

「保発4号」によって衰退した運動を盛り返そうと、

昭和33年2月に九州連合の熱烈な提唱により「保険獲得期成同盟」を結成し

更に同年12月「日保会」に改組し強力に運動を展開した。

 

その結果、

昭和36年5月保険局医療課長の「内簡」により鍼灸健保取り扱いの指示が

全国に示達され、従来の厳しい情勢を打開する道が開けた。

 

そして

昭和42年の「保発32号」は、これまで「内簡」「書簡」でしか示達されていなかった

鍼灸の保険取り扱いが、はじめて正式に「通知」によって認められたのである。

 

 

 

 

 

 

 


鍼灸業界の健保問題取り組みの歴史を検討する・・・①

2013年08月27日 | 鍼灸健保問題

私は40数年前、開業と同時に県鍼灸師会に入会し、

当時、誰も手がけていなかった「保険部」を担当した。

何をやるべきか「中央」の指導を受け、具体的行動に入った。

「療養費」ということも、「療養の給付」との関係も全く知らず、

ただ、「中央の指導」を信じ、従った。

 

鍼灸の健保扱いは、戦後直ちに始められ、昭和23年ころから

少数の県で知事と鍼灸団体との契約によって進められ

全国的に広まる情勢にあった。

しかし、県との交渉は、県会議員の仲介で行ったが、難航した。

それは、
昭和25年1月に出された
「○ 按摩、鍼灸術にかかる健康保険の療養費について」という
業者団体と契約して積極的に支給することを禁じ、
「すべて医師の同意書を添付すること」を義務付けた
「保発4号」(保険局長通知)があるからである。         
さらに翌26年3月には、これに追い討ちをかけるように、
「契約を締結している場合は、事情の如何を問わず、
至急これを破棄するよう措置せよ」と「保発14号」が出された!
この「保険局長通知」は現在も厳然と生きているのである。

だが問題は
柔道整復師とは、
「医療上は若干問題とされたが昭和11年に各都道府県ごとに
所在の柔道整復師会と協定を結び料金表を定めて
委任払いの方式をとって以来現在に至っている・・・」ことである。

国自身が
「療養費を
あたかも療養の給付のごとく扱ってはならない」

といいながら、柔道整復師には、当時は整形外科医が少なかったからと、
今日では通用しない屁理屈をつけて合理化し、まさにこのような扱いを行うよう

全国に指示し、全国の柔道整復師団体と協定していたのである。

この一方では国が奨励し、他方では禁止するという許すべからざる差別の撤廃が、

いわば業界の健保運動のスタートであった。

すなわち「柔道整復師なみの取り扱い協定」の要求であった。

これは今日まで実現していない。

しかし今では、
「民法上の委任」ということで「協定なしに委任払いが実施」されている
ところが多くなっている。

 

これは、一面では、

あたかも「療養の給付」のごとき取り扱いが実現したかのように見える。

しかし、「療養費」としての問題は、何一つ解決していない。

患者の権利が実現されたわけではないのである。

 

業界の健保運動の歴史を検討し、これからの方向を探りたい。