チャレンジ鍼灸師82歳:今、新しい医学・医療創造の志に燃えて生きる!

青春時代の社会変革活動の挫折をのりこえ、鍼灸の道へ。

チャレンジ鍼灸師の歩み・・・9

2013年02月18日 | 私の歩み
職業病への取り組み
私が鍼灸学生時代に、実習の場であった東京の「鉄砲州診療所」(歩み・・6)には、
当時職業病の患者が詰めかけていた。
キーパンチャ、タイピスト、銀行・商社の事務員、電話交換手、
新聞労働者、航空整備士、印刷労働者、郵便配達員など多彩であった。

当時は高度経済成長路線を突き進んだ時代で、
「頚腕障害」「腰痛」などの職業疲労性の疾患が多発していたのである。

診療所では、
こうした患者の「労災認定」への取り組みと
鍼灸患者組織作りとを進めていた。

私は、帰郷したので、
開業の地でこの活動をはじめようと考えていた。

そんなある日、
労金労働組合の幹部が「頚腕障害」で治療に見えたので、
私の考えを話すと、
彼は労金の中にも、症状を訴える人は多いから
取り組んで見る意義はあると言ってくれた。

その頃、ちょうど同じ症状で治療に通っている、
無組織の職場で働く結婚まじかの女性がいた。

仕事はきついけれど続けたいらしいが、
「頚腕障害」も簡単には治らないので、きちんと治療を継続するために
「労災申請」をしてみないかと持ちかけてみた。
すると、パソコン・プログラマーの恋人が乗り気になって
応援するからやってみよう・・・ということになった。

その支援行動の中で
地域の「職業病患者会」が結成された。

東京の大きな「労災職業病と闘う全国集会」に参加したり
専門の医師や弁護士を招いて、勉強会なども何度も行った。

まだ「鍼灸の労災治療」には
正式な「適用基準」が確立されていない頃であったが
労働基準監督署の中にも仲間ができて、その尽力もあり
彼女は「労災適用」が認められた!
そして、その後何人かが労災適用を勝ち取った。

私の「待合室」は
最初はお年寄りに混じって
「お若いのにどこが悪くて”はりきゅう"などやるの?」などと言われて
恥ずかしそうだった若い患者たちが増えだして
活気に溢れた集会場になっていった。

その頃行われた
東京・大阪などでの鍼灸の労災適用裁判への支援活動にも
積極的に取り組んだ。
そして「大阪裁判」での勝利の後に、明確な「基準」が定められ
「鍼灸の労災適用」は正式なルートに乗るようになった。

チャレンジ鍼灸師の歩み・・・8

2013年02月14日 | 私の歩み
残念な「自宅開業」であった。
しかし、これでじっくりと治療と学問に取り組めることになると思った。

私の「漢方」への目を開いてくれた湯本求真先生にちなんで
治療所の名称を「ハリと灸・中川求真堂」とした。

湯本先生は、漢方が没落していった明治の末期に、
敢然と立ち上がって漢方復活の叫び声をあげた
先駆者和田啓十郎先生(「医界の鉄椎」の著者)の跡を継いで、
今日の漢方医学界の基礎を築かれたパイオニアであった。

私は、漢方医学の一翼を占める「鍼灸学」に打ち込むことで、
若き日に心の奥に培われた「変革への志」を実現しようとの決意を
更に深めて「民主治療所」の失敗から立ち直る道を探り始めた。

新しい治療所では、恩師・丸山昌朗先生の教えどおり
どんなに経営が苦しくても原則として往療は行わず、
暇なときは勉強して患者を待った。

しかしあるとき、
私が19歳の「浪人生」だった頃付き合いのあった農民の方が治療に見えて、
地域での医療啓蒙活動に取り組んで見ないかと相談された。

鍼灸師になる10年前に
若気の至りで「大学受験の勉強」の傍ら
生かじりの「社会思想」で日本の未来、日本の農村民主化などを
公民館などで熱を込めて説いて回った時の地域の農家の人たちが
今度は、私の鍼灸の話や治療のために集まってくれた。


毎週、あちこちの農家で、楽しい集いが続いた。
その噂が県南にも飛び、月一度は県南にも行くようになった。

そんなことが数年続いたが、それからは重点が「職業病」
移っていった。







チャレンジ鍼灸師の歩み・・・7

2012年11月10日 | 私の歩み
私は医師と共同の場で開業したかった

鍼灸学校を卒業し、鍼灸師の資格を取り帰郷した私は、
「鉄砲州診療所」のような医師と鍼灸師の共同の場を民主医療機関として
建設しようと志し、地域の協力者を集めて「開設委員会」を組織した。

張り切って資金集めに奔走しながら、同志となる医師を探したが
思うようにはいかなかった。

駆け出しの鍼灸師である私とともに
新しい医学・医療を築こうなどと考える奇特な医師など
存在するはずもなく、民主医療機関連合会(民医連)に依頼しても
全く反応はなかった。

当時、漢方・鍼灸などは、ほとんどの医師には、
「効果がある」と考えられてもいなかったし、
ことに鍼灸は歯牙にもかけられず、
医療の一端を担っているなどとは思われていなかった。

それで、医師との共同の治療の場を建設するのを諦めて
1966年、地域の人たちに支えられて、鍼灸専門の「民主治療所」を
スタートさせた。

「開業の集い」には、
地域の老人会の役員や地域の社会活動家などが参加し、
東京からは木下繁太郎先生が駆けつけてくれ、
地元の県鍼灸師会長も顔を出してくださった。

まずまずの出足だった。

しかし、
少しづつ信頼してくれる患者は増えてはきていたが、
期待したほどには來患数はあがらず、最初から経営はピンチ続きだった。

お金をかけて改築した借家の家賃の支払いや
手伝いの鍼灸師の給料の支払いの資金繰りに追われ、
赤字は増えるばかりであった。

結局、1年も維持できず、出資者に迷惑のかけっぱなしで
廃止することになってしまった。




チャレンジ鍼灸師の歩み・・・6

2012年11月01日 | 私の歩み
鍼灸学校・学生時代のこと・・・3

新医協を通じて、
新しい「人民中国」建設当時の中国を訪れ、
そこでの「中国医学と西洋医学の協同」の現状と実績を見てきて、
全国の医療機関に先駆け、既に漢方薬を治療に取り入れていた
東京八丁堀にある「鉄砲州診療所」の木下繁太郎先生と出会い、
そこに全国初の医療機関での「鍼灸治療の場」を建設することになった。

治療は、私の先輩である、川瀬先生の生薬学教室の鍼灸師のグループが担当し、
私たち学生班には、かけがえのない臨床研修の場となった。

印象に残った例では
「急性虫垂炎」で担ぎこまれた患者に、
すぐに「手術」に移行できる体制を整えた上で、鍼灸治療し、
足三里1本の鍼で、完治してしまったことがある。

先輩の技術と鍼灸治療の凄さに感動した。
これは、
当時の「鍼灸学校」では、絶対に学ぶことのできない体験であった。

当時は、まだ現代医療の現場で、
医師と鍼灸師が
「平等の立場で協同して」患者を治療する
ことは
なかったので、全国の民主医療機関の話題になり、
何か所かで取り組む契機となった。

若い駆け出しの鍼灸師や学生たちに任せておいいては不安だという
当時の大家たちの親心の結晶が
「日本民族医学研究所」の発足
であった。

ここには、
今は亡き新医協会長・久保全雄先生、竹山晋一郎先生、丸山昌朗先生、
工藤訓正先生、木下繁太郎先生、小野文恵先生、
そして、今なお悠々自適の長沢元夫先生、川瀬清先生など
当時の日本の先進的な漢方・鍼灸界を代表する
東京在住の錚錚たるメンバーが参加された。

鍼灸学校3年生の私と村井(旧姓・小山)久子さんの二人で
事務局の重責を担わせていただいたことと、
同じ時期、新医協の「労働衛生学」の分野から職業病に取り組んでいた医師たちとの、
鉄砲州診療所・職業病患者会活動への協力は
私の今日を築く糧となった。


チャレンジ鍼灸師の歩み・・・5

2012年07月11日 | 私の歩み
鍼灸学校・学生時代のこと・・・2

私は、32歳で、鍼灸学校の学生になったが、
家業を継ぐために高校を卒業してすぐに入学した者が数人いた。

クラスメートの竹山嬢や、若い人たちと、ほとんど毎日のように
新宿駅までの学校の帰り道にある歌舞伎町の音楽喫茶「ウイーン」で
クラシック音楽を聴きながら
「鍼灸を学ぶ意義」や「鍼灸の未来」
そしてどんな鍼灸師になるべきかを
熱を込めて語り合った。

そんな中、たまたま誰かの紹介で知り合った
東京薬科大学・生薬学教室の川瀬清先生と意気投合し
毎週何人かで教室を訪れ、
先生を囲んで「弁証法哲学」の勉強をした。

先生の教室の鍼灸師の先輩たちとも知り合い、
「新しい医学を創造しよう」との意気込みで結成されたグループにも
参加した。

川瀬先生を通じて
「医療に携わる看護師も薬剤師も鍼灸師も保健師もすべて
”医師”と平等であり、
それぞれの専門分野に立脚して協力し合い
働く人の立場にたつ医学・医療の建設を目指す」
ことを目標として結成された「新日本医師協会(新医協)」
を知り、
心から共鳴し、早速加入して
「新医協・鍼灸部会学生班」をスタートさせた。

これは、「医師」を頂点とした「パラメヂカル」などとは全く異質の
当時の民主的風潮の中で生まれた組織である。






チャレンジ鍼灸師の歩み・・・4

2012年07月04日 | 私の歩み
鍼灸学校・学生時代のこと・・・1

「右翼先生」のところでの貴重な体験に感動し、心を躍らせ期待を込めて
新宿の「鍼灸学校」に入学した。

しかし、当時「鍼灸学校」の存在など、全く一般に知られていなかった。
内容もお粗末そのものであった。


私は、明確な志をもって入学したが、がっかりであった。

定数の半数にも満たぬ上に、更につまらぬ「授業」にうんざりして、半分以上の学友は退学し、やっと残った寂しいクラス。

しかし、その中に素晴らしい女性がいた。
一人は、竹山晋一郎先生のお嬢さんであった。

先生は、私が当時すでに、「心の師」と決めていた方である。
先生は、私の生きた体験に基づく「鍼灸への確信」に「私が鍼灸を生涯の仕事」として取り組む理論的土台を与えてくれた「漢方医術復興の理論」の著者である。

そして、もう一人が
そのお嬢さんの大学時代の同級生、聖子さんである。


竹山先生は、当時月に1度、聖子さんの下宿近くの世田谷で開業されている愛弟子・青木すみゑ先生のところで「私塾」を開いておられた。

私は、聖子さんの紹介で、青木先生とお会いして、「漢方医術」への熱い思いにすっかり圧倒され、弟子入りしたいと申し出た。

しかし「私はその器ではない」と断られてしまった。でも、私は諦めなかった。

先ず、アルバイト先の「右翼先生」のところを止め、青木先生の近くに「部屋」を借り転居してから、再び先生を訪ね「どうしても弟子になりたくて移転してしまった」と決意の強さを訴えた。

新しい土地で生活の見通しは、全くなかった。

しかし、先生は凄いことを提案して下さった。

「鍼灸専門・青木治療所」に「マッサージ部」を開設して下さるから、
聖子さんと二人で患者を開拓しなさい、先生は一切援助しないが、
すべての収入は二人のものにしなさいと言うのである。

当時はまだ、「弟子」という形で無資格者の仕事があり、
資格者で6割歩合、無資格者で3割歩合の収入が常識であった。
私と聖子さんは、10割の収入であった!

それから、二人で「青木治療所・出張マッサージ部」のチラシを作り、一軒一軒近所の
ポストに配って歩いた。

それが、結構効をそうして、マッサージの依頼が増え、なんとか学生生活を続けられるようになった。

当時、絶頂にあった俳優の森繁久弥さんは私の上得意で、週2回ぐらいのマッサージのあと、私の「鍼」の練習台になって下さった。

治療のあといつも、やさしい奥さんが、当時出始めた「インスタント・ラーメン」に野菜を盛り込んでご馳走して下さった。
あの温かいお腹にしみこんだ味は今でも忘れない! 

先生のおかげで、何とか1人前になり
私が71歳の年(平成14年)に
鍼灸師として全国でただ一人、その年の春の「叙勲」を受けたことを
ご報告できなかったことは、心残りであった。




チャレンジ鍼灸師の歩み・・・③

2011年05月28日 | 私の歩み
忘れ得ぬ「初めての1本の鍼」

そこで働きながら、「鍼灸学校」へ通うと決め、右翼先生の「指圧治療所」に落ち着いたその日に、「ギックリ腰」で動けないから「治療」に来てほしいと電話があり、私が行くことになった。

着いてみるとかなりの重症で、「鍼」をしてほしいといわれ、私は、出来ないので明日先生を寄越しますと、軽くあん摩をして帰り、先生にその旨を話した。

すると、先生は
私に明日も行けと言い、これから「特訓」すると、全然私の「鍼に触ったこともないのに無理だ」という言い分を聞こうともしない!

それで、仕方なく一晩かかって、鍼を「管」に入れる方法を学び、果物缶詰の空き缶に炒った糠を詰めた鍼の練習台で刺し方を覚えた。

翌日、昨日できないと言った私が鍼をするというので、患者は訝りながらうつ伏せになった。

下手な挿管の「手つき」を見られないためだったが、刺そうとして一瞬あれっと思った。

刺すことばかり教えてもらい、どこにどう刺すかは全然教えて貰わなかった!
脂汗をかきながら、必死であちこち指圧していたら、「痛い」と身をよじるように叫んだ。

しめた、とたどたどしい手つきで挿管し、恐る恐る管を立て、ポンポンと頭を叩き、管をはずした。そして、さらに深く刺そうとした瞬間、「うーん」と唸るような声を出し、「気持ちいい」と言った。

それで、鍼を抜くと、
患者はすぐに起き上がって「治った」と嬉しそうに叫んだ!

これが私の、生まれて初めて人に鍼を刺した「忘れえぬ」体験であった。
この初体験が、私の「鍼の威力」への確信の土台となっている。

これは、帰って勉強したら「陽関」という腰痛にはよく使われる「つぼ」のひとつだった。

しかし、もし、あの時いろいろと本で勉強していたり、いくつかの「つぼ」を知っていたら、あんなに見事には行かなかったと思う。

あん摩の先生から学んだ「患者の身体から学ぶ」ことの大切さを身をもって知った私の「鍼灸医学」へ旅たちであった。


チャレンジ鍼灸師の歩み・・・②

2011年05月28日 | 私の歩み
住み込みあん摩から学んだこと

「住み込みあん摩」は全く未知の世界であった。

先ず、住み込んだその日の夜、住み込みの先輩たちからあん摩の「手ほどき」を受け、次の日は早速「仕事」に出された。
当然、電話で「あんな素人みたいの寄越すな」と怒鳴り込まれた。
それでも、毎日仕事をさせられた。

無資格の違法行為であり、こんなことは、今日では想像もできないが当時は、当たり前のように行われていた。

しかし、私は悔しさを「バネ」に成長できた。
私は「全くの新米であり、志をもって盲人の先生に学んでいる」ことを率直にお客に告げて、お客の身体自身に学ばせてほしいとお願いしながら、毎日10人以上から教えていただいた!

3ヶ月も過ぎると、「指名」を受けるようになり、いささか自信もついてきた。

しかし、先生は、全く鍼の治療を見せてくれなかった。
私は「鍼灸」を学びたいのだ。毎日10人以上のあん摩をして疲れていても、志を忘れまいと「鍼灸の本」を読んでいると、「今、本を読んでも意味がない、あん摩の実践の数を増やすことだけ考えろ」と叱られ、本を片付けさせられた!

半年も経ち「鍼灸学校」入学の日が近づくと、心がはやって来て、「鍼」をみせても触らせてもくれない先生に嫌気がでてきた。

そんな時、住み込みの同僚から、元教育者で「指圧治療所」を開きながら、鍼灸学校で学んでいるという彼の同級生を紹介された。

右翼思想の持ち主だそうだが、鍼灸への志で意気投合し、恩義を受けた先生一家の温情を振り切って、「夜逃げ」同然の状態で、新たな修行の場へ移った。

この最初の身を削るような思いで「按摩」を学んだことが、「新しい場」で本当に役に立つことになり、「鍼灸医学」を学ぶとは何であるかをしっかりと教えてくれた。

チャレンジ鍼灸師の歩み・・・①

2011年05月28日 | 私の歩み
私は、何故鍼灸師になった

私が鍼灸師に志した44~5年前、第2次世界大戦の傷跡も癒えず、思想の混乱も激しく、また新たな戦火の危機もくすぶりを感じさせていた。

私は物理学徒として上京し、皇居前でのメーデー事件に遭遇し、学業放棄して、青春の情熱を社会変革運動に燃やし、挫折した。
医学への志を実現する事で学業復帰をはかろうと、医学コースへの再受験に挑戦したが果たせず、10年あまりを20くらいの仕事を転々とし、夢を追い続けた。

しかし28歳の時、生保外務の仕事をしていた母の勧めもあり、セールスマンとして転身すべく、帰郷した。

漢方医の木村左京先生,興野鍼灸師との出会いは、衝撃であった。諦めていた医学への情熱が、現代医学とは全く異なった生命観に基づいて築かれた鍼灸医学に触れ、再燃した。

しかも、当時は全くその価値は評価されておらず、募集人数に満たぬ鍼灸学校には誰でも入学できた。

私は、再び、新たな人生目標に挑戦すべく上京した。あんま治療所に、住み込み、手ほどきを受けながら生活し、入学に備えた。