湖のほとりから。

花と空と心模様を写真と詩と文に託して。

秋の深まった日に思う

2018-11-02 23:37:17 | ポエム
写真のネガのように
空にかざして見るような
思い出のシーンが
まぶたの裏に焼きついた

それはモノトーンのままで
セピア色になるには
まだ早い

クッキリとした
輪郭とあたりの情景

鮮やかに
鮮明に浮かび上がる

早足で
駆け抜けたかったのは
しっかりと
焼き付けたものだけを
大切にしたかったのかもしれない


春が来て
夏が過ぎ去って
秋が深まった


木々の色や形が変わるように
そんなにも
時間が過ぎてしまったことが
不思議なような


もう一度と
願ったりしたものの
その時の思いは思いのまま

だから
美しいの

だから
切ないの

こうして私は思い出を
抱きしめながら生きていく







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3年前に書いた『オカンの昼ごはん』について

2018-11-02 08:30:41 | 日記
三年前に書いた文章が出てきた。
この時は、介護の最中でも
大変になる前のこと。
母が動けなくなっても、まだまだ序の口のころ。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


先月、私が風邪をひいて
心も体もほとほと弱っていた時
思いっきり涙を流し浄化されて助けられた、この本。

山田ズーニー著書
『オカンの昼ごはん』と言う本だった。

著者はとある小説から
『人生は短い。一番大事なものはなんですか?』
そう問われたような気がして
一番大切なものの為に実家に帰省する。
そこで見たものは、ろくにお昼ごはんもつくれなくなった自分のオカンの姿だった。

オカンの記憶が鮮明なうちに
その集中力が持続するうちに、父母とやりたかったことを
私はやってこられたのだろうか?
自分自身に問いかける。
そして、親の老いと死の影を受け入れざる終えなくなってしまうとき
「青春のおわりの瞬間」だと言っている。

誰しも自分の親は
不死鳥かエスパーのごとく
そこに居るものだとみんなが思っている。
それが、親が昨日できてたことが今日はできないと言う現実を
見た時から始まる苛立ちや悲しみ、やるせなさ。
そして、腹立たしさ。
それは、オカンやオトンに向けられてはいるが
そのほとんどが、実のところ自分が受け入れ難い部分なわけを
悟るまで続いていく、
果てしない自分のエゴでもある。

著者は
ブログでそれを問いかけた。
答えていく様々な人たち。
その原寸大の人々の中から
また、自分なりの問いを見つけていく。
自分自身のこと。
仕事のこと。
『医療』と『福祉』と『教育』のこと。

そして
生きた人生の教科書のような親の姿から
「それでもこれだけは」と湧き上がってくるもの、
それが『望み』であり
望みを自覚したとき、光が差す瞬間を『希望』だと。
幸せとは違う、夢というのでもなく、楽観でもなく、
希望としかいいようのないものと締めくくってある。


本を読み終えたとき、
私は優しさを忘れていたことに気がついた。
あるような顔をして
希望を見いだせることをわすれていた。
改めて、突きつけられて
自分の辛さに負けそうになっていたことを悟った。


折しも
大切にし過ぎて
しまいこんであった娘から私への手紙をみつけたところだった。


5年前の私の誕生日に
娘とケンカした後だったと記憶しているが
ノートの切れ端になぐりつけるように書かれていた。

『オカン、お誕生日おめでとう
なんだか不思議だね
きっと年をとっているのに多分、私の中で
オカンはずっと変わっていなくて
私も変わっていなくて。
いくつになっても、オカンとオトンはいなくならないと思っている。
私はオカンを尊敬していて、オカンみたいになりたくて
オカンはなんだかんだで幸せで
そんなオカンをみてる私も幸せで。
私がオトンとオカンの子供で良かったと思ってる。
今まで色々あって、きっと私は成長してるんだけど
まだまだ大人になっていない部分なんて沢山あって、
だから、今までありがとう。
オカンはずっとずっと元気で
私に心配かける事がないように。
ずっと私のオカンで居てもらわなきゃ困ります』



君と同じだよ。まだまだ青臭いのは私もだよ。
ただ、少し先を私は歩いているだけ。


君が私の背中を見て歩いているなら
私は立派に歩いてみせなきゃ。
娘が親を思う気持ちが同じなら
私も娘として、親として
こうして、本に助けられたように
いつか、君がこの道を通るとき、
わかりやすいようにしてあげることも私のつとめ。


君の青春が終わってから気づく
親への思いに苦しまなくていいように、、、、。


この本と娘からの手紙は
何処かいるであろう目には見えない人からの
メッセージに込められた私への
エールのような気がしてならなかった。


~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


私の両親を自分で看取った今
また、この時とちがった思い。

私は著書によれば
青春がおわって大人になったことになる。
なのに、いまだ、痛みはともなう。


果たして、自分は、
親が安心して次を託せる娘だったのか、
はたまた
子供に、自分の後ろ姿をキチンと見せられるようになったのだろうかと自問自答。


まだ、親に甘えたい自分を余計にみつけてしまっているのを自覚したからこそ、過ぎた青春を思ってしまう。
寂しさの中で。


だけど
娘が私が居なくはならない感覚は
いまだに変わっていない。
面白いことに。


私とて、病気でヨレヨレになって
死に際の両親に対しても
亡くなる寸前まで
『まさか!こんなはずはない!』と思う気持ちと戦っていたことを思えば
いまの娘の気持ちは分かることになる。



けれど、
『その時』感じた時に
どう動けるか。


反目しても
見たくなくても


事実を理解した上で
大切にしょうとする気持ちが
尊いのだと思う。


その尊さは
相手(娘に対して自分)にも存在していなくてはならないものだと思うので
それなりに、毅然としていたいと
あらためて思う、今日この頃。


親って、有難い存在。
色んなことをいまだに教えてくれる。


また、自分とて、親の端くれ(笑)






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