先週、突然の吉報
息子の嫁さんの懐妊に我が家は沸いた。
息子は生まれた時からの持病を持っている。
嫁は何もかもわかって結婚して
4年前に娘が授かった。
しかし、その娘に心臓の機能不全の箇所があると、2年前に手術。
そのあと、嫁は私に
『娘の心臓の予後のこともあり、お義母さんにとっての孫は、もう1人でいいですか?』と話していた。
そりゃもう
息子1人の体調の悪い時もあり
孫1人でも産んでくれた嫁に
何を言えよう
親としての感謝しかなかったから
そう言うことを嫁にいい、労い、
納得の心境だった。
だから
第二子懐妊の知らせは
涙で吉報を聞いた
はらはらと
嬉し涙と言うのかな
とめどなく泣いた
心配はあれど、若い2人が決めたことが頼もしくて、有り難くて、、、。
『もう1人増えたら賑やかになると思って。他のことはなんとかなると思ったので、決心つきました』
嫁が和かに言った。
それならばと
昨日は、親としてできることは
神様、仏様にすがること。
昨日、久しぶりの遠出
『雨引観音さま』へ
遠い昔より
子授かり、安産、子供の健康、厄除け、長寿の寺院として
信仰が深い場所の雨引観音さま
護摩木を焚いて、手を合わす
御祈祷していただき、安産を願う
雨は糸のように降り続く、、、。
いつだったか
両親のお骨を高野山に納めるときに降っていた雨に似ていた
そう言えば
場所は違えども
この寺院は、高野山と同じ真言宗のお寺だった。
偶然か必然か。
いずれにしても
真言宗のお経が響き渡る場所だった
冷たい雨は
冷たい空気を連れてきて
コロナ対策のために
各所を開け放したお堂はとても寒かった。
震えるほど、寒いくせに
心は暖かくて
護摩木の炎が、また私の涙を誘った。
ついでにと言ってはなんだけれど
妊活している娘の『子授かり祈願』も
一緒に、、、。
できうることは
こんなことだけ
願わなければ叶わない
子供が全てだけではないことは知っている。
これからの子供は、生きにくい世の中を歩いていくだろう
果たして、子をもうけることが良いのかどうか、、、。
だけれど、子は、親を育ててくれる。
わたしは、
自分の足が痛みで動けなかった、ここ数ヶ月。
歩くことは、なんて素晴らしいのだろう。
歩ける人の筋肉というのは
色んな筋肉によって支えていることを知ると、当たり前が当たり前じゃなく、歩けることは感謝なのだと思った。
子供を、授かることも神秘的で
決して当たり前じゃない。
スペシャルなこと
いつのまにか
忘れてしまっている感覚
今いる自分でさえ、スペシャルなこと。
やるべきことを当たり前だとこなしていく自分も、誰に言われたわけでなく、褒められるわけでもなく、
当たり前に、人並みに『出来た』ことは、感謝なのだと思える。
帰宅して仏壇の前に座ってみる。
ただいまの手を合わす。
無事に
皆が無事に
過ごせていけますように。
ご先祖さまより繋いできた命
どれだけ有難いことか。
昔はご先祖さまの意味さえわからなかった私が手を合わす。
帰り際に寄った蕎麦屋さんで食べた『けんちん蕎麦』が
気持ちも心も暖かくしてくれた流れ。
ほっかほかで、手を合わせることができた。