人生回顧録及び雑記

83歳・記憶の定かの内に日記風に書きとめておきたい。
また日頃勝手に感じた事を記載したい。

小学生の頃の思い出・・(2)B

2021-02-17 | 回顧録

当時私たちのクラスは先生が定着せず、各学年の中でも腕白坊主が多く、先生を手こずらしていました・・・

体育館の掃除当番で上級生と乱闘になり担任の先生から往復ビンタを両面に頂きました・・・

互いに顔を見合いましたが、赤く手の痕が残っていましたが泣く子はいませんでした。

舌を出して笑っちゃいました!!


イタズラが激しく女の先生を困らせ帰宅を許さず廊下に立たされて、帰りが遅いので心配してお婆ちゃんが学校に迎えに来た事があります。


お婆ちゃんは「うちの子がどの様な悪さをしたのでしょうか?」と先生に尋ねると泣きながら「私の指導が悪く申し訳ございません?」と云い帰されました・・・


また石山四区の友達数人が銅線や砲金等を集め雑品屋へ売っていました。

割とお金になり私も友達に付いて廻りそのお金で食べ物を買いご馳走になった記憶があります。
いま思い出すと生活が苦しかった事よりも、楽しかった想いが多くあり懐かしく思います。

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小学生の頃の思い出・・・(2)A

2021-02-17 | 回顧録

小学校の裏手は豊平川で、校舎の横から「ニタドリ」の葉の下を通り抜け川原に出ます。
天気が良ければ校外学習をします・・・
川原には大きな丸い石が沢山あり、台風で上流の石が緩やかな流れの場所に集まってきます。高学年の夏休みになると子供達が砂利採集のアルバイトをします。
大きな石の横に自然砂利が多く集まりツルハシと大きな受ザルの様な道具で出し、山にします・・

その砂利を馬車が集めに来ます一台幾らかの賃金をくれます。

盛夏の中ですから体力的にも疲れます、苦労の割には安かった記憶があります。
砂利は札幌の建築現場で必要とされていました。

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小学生の頃の思い出・・(1)

2021-02-16 | 回顧録

小学1年生の入学式は幾ら考えても浮かんできません?
小学校は現在の場所ですが私が入学の頃は道路は勿論砂利道でした。

通学は選鉱場の腕白坊主が一団となって学校へと行きます・・

当時石山地区は豊平町字石山で選鉱場地区は石山七区と呼ばれていました。

その頃はまだ自動車は少なく石山駅前には馬の蹄鉄を打つ所があり、石山は馬車追いが多く住んでいるところでした。
冬の朝通学する時に馬橇が走っておりイタズラに馬車追いの陰に隠れこっそりと後ろの橇の端に隠れ乗って行きます・・・大変楽です!!
馬車追いが重さに気が付き、皮のムチで思いっきり殴ってきます? 避けるのも自慢です。


雪解けと共に道路が溶け始めると、馬糞がそこら中に出てきて春風が吹くと舞い上がります・・・

その頃の学校は木造二階建てでL字型に建つており、向かって左が職員玄関・中が学生玄関・右側には室内体育館がありました・・

体育館横には校長宅・先生社宅があり付近には木が被い茂っていました。

確か二宮尊徳の像があった記憶と校庭には大きな桜の木が一本あった様に思います。

春になるとその桜の木の前で毎年記念写真を取っていました。

確か背の低い黒顔でメガネをした三春久平と云う写真屋であったと思います・・・
小学一年生の担任は黒顔の女で真坂先生でした・・

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豊羽鉱山について? (15)

2021-02-15 | 回顧録

幼少の頃豊羽鉱山元山から石山の選鉱場に移って来ましたが?

今考えると如何も経過がはっきりしません・・

終戦の年は昭和20年で私は4歳です当然終戦は元山にいました。

しかし調べて見ますと昭和19年に元山採掘場は大雨の為坑道内が水没し休山となりました。

それで父は石山に移動し長屋住まいとなった様子です?

当時豊羽鉱山勤務していたと思っていましたが、父は解雇されましたが住むところがありませんので、取あえず社宅の長屋が空いていましたので、そこが居住する場所となった様です。

努めていればこんなに貧乏する事はありませんがその後子供が4人出来て貧乏暮らしに拍車がかかりました。

当時子供が5~6人家族は普通でした。

父は石山の隣真駒内の米軍基地に勤め僅かな賃金を貰っていた様子です。

子沢山ですが無口な父は子供達を愛してくれました。ある日米軍基地から野球のグローブを貰って来た事がありますそれも革製の新品で左様でした。

当時グローブは各自厚手のキャンバス布地で作っていました。

ボールも糸で固く巻いたものでバットは角材を削って造りました。

友達の中でも新品グローブは非常に珍しい物で自慢しました。

冬にはレース用スキーを又貰ってきて金具を夜造り、そのスキーを明日乗れることに興奮して眠れなかった記憶があります。

鉱山は昭和25年再開しました。購買部も再開です!

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石山選鉱場の記憶・・・(14)

2021-02-14 | 回顧録

話は前後しますが・・

子供の頃、記憶に中に今でも豊羽鉱山の六軒長屋に住んでいた時が一番楽しい思い出に残っています。

その時の様子は今でも鮮明に思い起こすことが出来ます・・・
長屋には多くの子供達がおり、わんぱく盛りの小学生は小学校へ朝通学する時にグランドの下を豆腐屋の前を通り小さな橋を渡り、お寺の裏の近道である林を抜け国道へと出ます・・

豆腐屋の前にはオンコの木があり実が真っ赤になっており、食べながら行きます、又冬になると林の中の樹木が甘いも蜜が出ます・・

木に傷を付け空き缶を吊るしておきますと、帰りには蜜が溜まっています。樹液シロップですね!

選鉱場は元山から鉱石が貨車で運ばれて、左のベルトコンベアーで一番上に運ばれます。

運ばれた原石を女工たちの手で不用の石と選別されて、大きな鉄製のドラムに鉄の砲丸が入っており機械で回ることに依って石が砕かれます。砕いた粉末の原石を化学薬品で溶かし上から下へと移動します。

廃液は下の沈殿場でろ過されて汚泥沼にと移動します。

 

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1947年(昭和22)当時の様子・・・(13)

2021-02-14 | 回顧録

74年前の石山小学校です・・・ご覧のように道路は砂利道で学校の付近は田圃でした。
石山選鉱場の国道沿いには「古郡商店」があり、其の向かいには少し高台に二軒の長屋があり其の前からお寺の境内へとつながっておりました。


秋になりますと稲狩りが行われ櫓に自然干しです・・この写真の前には石段を登ると「石山神社」があり秋祭りには露天が立ち並び、学校から帰ると母親に小遣いを貰って綿菓子やオモチャのピストル百連発等買い、夜になると境内に幕をはり夜間映画が始まります・・
この祭りには藤野・簾舞・常盤など遠くから子供が集まりました。
石切山駅前には大磯馬蹄店や石切山郵便局があり、私の友達が石山消防署の隣に住んでおりある時遊びに行きますとお婆ちゃんが「ボタ餅」を食べさせて貰いました?
そのボタ餅は食べると油臭く感じました・・・

後で知った事ですが戦時中に石山軟石に大きな穴を堀り入口には大木で被い、石油備蓄の大きな円形のドラムが入っており、定鉄線石切山駅から地下パイプで送っていたとの事でした・・

其の時油が地下に漏れて井戸水に入ったとの事でなるほどと思った記憶があります。

その後何度も其の場所を訪れた時穴はすう箇所もあり、未だ鉄製のドラムがありました。

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幼少時代の手伝い・・・(12)

2021-02-13 | 回顧録

(除雪機関車)

当時長屋住まいの我が家は、何処の家もそうでしたが子沢山で父親は仕事の関係で単身赴任をしておりました。

生活は楽ではなく母親は近所の農家に出面取り(臨時雇い)に行き生計を助けておりました・・・

私も長男として学校が休みの時は母親と一緒に農家に行き手伝いをしていました・・・

石山付近は気候もよく、米・麦・りんご・なし・ホップ等の作物が作っており、田植え近くになると長屋の親達は出面取りに出掛けました。

田植えは賃金と待遇がよく、私も稲の苗を田植えしている場所まで運び、田圃の畔から田植えをしている前に苗を投げ入れて上げます。

夕方田植えが終わりますと15~20人位の叔母さんが豪華な夕食とお土産を頂いて家路へと帰ります。

泥だらけの私は、農家の離れにある野外風呂を頂きますが、風呂は五右衛門風呂で浮いている板を沈めて入ります、当時家の屋根は藁葺きで当然風呂も藁葺き屋根です?
屋根に穴が開いてそこから月が眺められ、風流な思い出があります。


農家の手伝いは、畑の草取り(豆・麦)・野菜の消毒(きゅうりの消毒は背中に消毒液のボンベを背負い重さで肩に食い入ります・・

重いので早く軽くする為には一生懸命に散布しなければなりません?) ビールのホップ摘み・サクランボ・いちご摘み等の手伝いを行いました。


冬には選鉱場へ鉱石貨車が入る為、保線区内の除雪手伝いなど、正月には「道上商店」の三輪車による配達手伝いなど多くのアルバイトをやりました。
また母親が遠い熊が出る簾舞の農家に行った事があります、夕暮れ時迎えに線路沿いに暗い夜道を歩いて行くと、向こうの線路を歩いてくる母親に会います・・その時はホットして手をつないで帰った記憶があります。

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我慢くらべ・・・(11)

2021-02-12 | 回顧録

長屋前の線路には毎日のように機関車が鉱石を運んで来ます・・

近くに鉄橋があり機関車が遠くに見えますと枕木の下V字型の鉄橋に張り付きます?

汽車が来て頭のすぐ上を通過します、通過する音は大きく恐怖を感じますが、交代にやり我慢くらべをします。
選鉱場には高い煙突がそびえていますが、そのハシゴを頂上まで上りきります?そこからは札幌の街が眺められます、今思えば相当危険な遊びもしたものです

選鉱場の子供たちは日が暮れるまで各自遊び方を考えて遊びました。

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子供の遊び方・・・(10)

2021-02-11 | 回顧録

子供の頃遊びには不自由しませんでした。

学校での遊びは思い出せませんが下校すると鞄を放り投げて近隣の腕白坊主と遊びました・・
裏山での栗・山ブドウ・コクア・桑の実取りや長屋前でのビー玉・釘刺し・パッチ・地面に小さな枠線を書き、穴をガラスで被い相手は大きな石で回数を決め、穴を潰します。


1) パッチ の角に相手のパッチに引っ掛るように反りを入れます、返す時に風がいますので学生服の前ボ         タンを外し「バフラ風!」を起こします。
2)ビー玉 は小さな円を地面に書きその中に数人の持ちビー玉を入れます・・・
  遠い所から順番を決めて、ビー玉を円の中に転がすか?投げます。当りビー玉は円の外に出ると貰えます。
3)釘刺しは大きな釘を拾ってきて、線路の上に置きますと機関車が潰し 釘が平らになります・

   これも地面に円を書き互いに磨いた釘を相手の釘に接触するようにぶつけ、円から弾き出します。
4.) 川泳ぎ 夏になると豊平川に泳ぎに行きます・・

当時「大川に泳ぎに行くぞ!」と友達を誘い行きます。  

当時豊平川と呼ばずに大川と呼んでいましたが、訳はよく解りませんが大きな川で農家の大川さんの畑を横切り行くと云った意味が含まれていたと思います。

水泳パンツは有りませんので日本手拭か又はフリチンです。

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半場でのアルバイト。

2021-02-10 | 回顧録

小5夏休みアルバイトに池田組で工場の廃液を溜める汚泥沼迄細い線路を肩に担ぎ敷設した事があります。

当時半場の掘立て小屋は入り口がむしろで中に入りますと数家族が寝起きしておりました。

現場で働くその男は昼食を誘ってくれましたので呼ばれて頂きましたが、驚く事にその男ははしと茶碗を持ったままゴロンと横になり眠ってしまいました。

乳飲み子を抱えた奥さんに効きますと(いつもいつもそうで) 特に驚かないとの事でした。

ご飯前に飲んだ茶碗酒の焼酎が効いたのでしょうか・・

作業の線路敷設作業は足元がぬかるみ鉄の線路が肩に食い込みます、大変な仕事ですがその家族は明るく生きています。

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生活品の買い物・・F

2021-02-09 | 回顧録

生活用品の買い物は会社の売店で買いますが食料品は扱っていませんでした。

食料品以外のものは在りますが日常品は鮮度と取扱にくい為、売店の隣に個人商店(道上商店)がありました。

豊羽鉱山の最盛期には従業員1000名が住んで居ましたので運動会・盆踊り・お正月は盛大に行われました。

当時ですので薄給で子沢山の為毎日の買い物は通帳による付けで後日一括支払いでした。

子供ながらに通帳で父の焼酎を量り売りで買いに行かされました・・

入れ物はサントリー角瓶で一合メモリが付いていました。二合買います・・

最盛期の盆踊り会はグランドに櫓を建て紅白幕で囲い太鼓を叩きます・・

選鉱場労働者は下請け業者の孫請け労働者が多く、○○組が何組もありお酒を飲んでの喧嘩が絶えませんでした。

年一回社内運動会が盛大に開かれます。

運動会数日前に紅白の鉢巻き・白い上着とパンツに靴は白い足袋で友達のお母さんが風呂敷を抱えて各戸に売りに来ました。

お正月はかるた取です・・百人一首の木札を並べ紙の札を読み競争します、勝ちますと褒美が出ます。

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長屋での生活 E

2021-02-09 | 回顧録

その後父が昇進して6軒長屋から線路上の二軒社宅に移り住みました。
社宅の棟は15~16軒位あつたでしょうか?私の家の前は小高い山でその高台に「豊羽診療所」があり遊びの怪我で度々お世話になりました。

院長先生は石井先生と云って体格の良い白い顔の人で札幌から通っていました。

婦長先生は小笠原さん・看護婦さんは福士さんで福士さんには診療所の前で何時も床屋をして貰った記憶があります。

幼少の頃冬に屋根に上り滑って落下して屋根のめくれた鉄板に頭を10㎝程切り診療所の石井先生に頭を縫って貰いました。

その時麻酔が効かず其の儘押さえつけられ針で縫い付けその痛さに大暴れです・・その傷が今でも残っいます。


社宅横には会社のお客様が宿泊できる施設があり、テニスコートがありその上の山側には所長宅の広い家があり庭には池がありました。
所長宅ですが内地から赴任してきて、同級生がいて良く遊びにいったものでした。
お正月には毎年除夜の鐘を聞いてから、小高い山にある「豊羽神社」へ初詣をした記憶があります

神社は銭湯・独身寮の裏山にありました。山は気が生えていませんので冬はスキーが出来ます。

(画像は豊羽神社)

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長屋にお婆ちゃんが D

2021-02-08 | 回顧録

いつ頃か記憶が定かではありませんが長屋に父の母親が来ました、私のお婆ちゃんです!!

丸髷のお婆ちゃんは品の良い容姿・言葉使いで何故に何処から来たのか?は分かりません。

部屋は6畳二間の畳部屋で夫婦・子供2人同居では狭すぎますので、空いている同じ長屋の隣に一部屋借りてお婆ちゃんが住み始めました。

お婆ちゃんの夫は亡くなった時私と同名で、これらの事から大変可愛がられていました。

お婆ちゃんは函館から来た事と考えられますが背筋が真っすぐで針仕事をしていた記憶があります。

縫物が得意で近所の着物の洗い張りや仕立てをしていました。

着物をほぐし洗いのりを付けて長い張り板に貼り付け又30cm位の細い竹ひごに半円を描くように張り、お手伝いをしたことがあります。

お婆ちゃんの楽しみは映画を見る事です、長男の私だけ連れて札幌の映画館に映画を見に行きました、帰りに食堂で旨い物を食べさせてくれました。

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長屋での生活 C

2021-02-08 | 回顧録

各戸には1.5畳ほどの流し台が通路側にあり大きなカメが設置してあり水くみは私の役目でした。

バケツで水をカメに入れるのですが、横着に玄関の入り口を通さず流し前の窓から入れます・・

土間から窓は高く造られています。

私は背が低い為バケツを持ち上げカメに入れる際、逆に自分にかぶりずぶ濡れで大変な思いをした記憶があります。

又冬のトイレは厳しい寒さの為汚物が凍り便器の近くまで高く積み重なります?

便槽内に平らにはなりません・・

春になると近隣農家から肥溜め付き馬車で汚物の汲み取りに各長屋に来ます。

当時肥料が無い為農家では貴重な肥料でした。

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長屋での生活・・B

2021-02-07 | 回顧録

住まいの6軒長屋は木造建て平屋で、各戸玄関前は土間の通路で中心部には石造り長い流し台と横にはポンプがありました。

一番奥にはボッチャントイレがあります。(画像手前が共同トイレ)

外壁が下見板張りで屋根は柾ひきの上にトタン張りで各戸の玄関は土間で上がり框がありました。

内壁はベニヤ張りですが当時断熱材などありませんから冬は非常に寒いです。

窓の建付けが悪く厳寒吹雪の朝は枕元迄雪が入り込みました・・

建付けが悪く隙間に古新聞紙を挟み、壁には古新聞を重ねて張り寒さを凌いでいました。

夜中に天井でネズミを追い回す猫の走り音が響いていました。

造りは雑で住めれば良しと云う建物で今では考えられません?

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