最近、夜も時々1Fフロントで保護されることがある彼女。
昼間も、二人きりにしておくと、
しばしばマンションの住人の方に保護されているようだ。
今日、やっと首のコルセットが取れた私に、安心したのか、
夕方になってから、ばあたんが、口を開いた。
「ねえ、たまちゃん」
「なあに?」
「たまちゃんには、何を言っても大丈夫よね?」
「うん。大丈夫だよ。どうしたの?」
「ねえ、たまちゃん、お手洗いを使いたいときは、どうしたらいいのかしら。
どこにトイレがあるか分からないの…
(紙はどうするのか、出したものはそのままでいいのか…etc)」
どうやら彼女の中から、「家にトイレがある」という概念がすっぽり消えてしまったようだ。
あるいは、用足しをするべき場所があることはわかっているのだが、目の前にあってもそれを見つけられない状態…。
便器を便器と理解するのが難しいらしい。
「排泄したものは、このままでいいの?誰が片付けるの?」
…そうか。やっぱり。(↑実際のやりとりはもっと、丁寧に、問い返しながら)
私が事故にあってから三週間以上が過ぎた。
その間に、彼女の認知は著しく低下したようだ。
じいたんが、お散歩などにがんばって連れて行ってくれているけれど、
「話す・歌う・共に作業する」の三点セットがないとやはり
ばあたんは、不活発になってしまうようである。
夫の愛情によって、メンタルな面では比較的落ち着いているようなのだが、
時計を読むことが再び出来なくなり、字も、再び書けなくなった。
漢字も(彼女のもともとの能力に比して)殆ど読めない。
また、適切な表現で話すことができないことがある。
たとえば「トイレを折りたたんで持っていくの?」
(↑外ではどうしたらいいの?という意味のようだ)
表現が変になるのには、訳がある。
それは、彼女の自尊心がなせる業なのだと思う。
「こんなことを聞いたら、おかしいというのがわかってしまう」
そういうときは、「何を話しても大丈夫」ということを、
いろんな方法で、繰り返し伝え続けて、
彼女がいまどんな状況におかれているのかを理解しなければならない。
なので今日は、じいたんには、
最近買った中でヒットだった二冊の本を貸して、
(じいたんも絶対、楽しんで読む、と自信があったのだ)
ずっとばあたんにつきっきりで過ごした。
そんな一日の終わり。もう眠る前、洗濯物を一緒に干していたら、
不意にばあたんが、
「ねえ、たまちゃん。おー伯父さんはどこ?
姿が見えないんだけど…」
たま「ん?(◎◎伯父の来訪を思い出したのかな)」
ばあ「だっておーちゃん、泊まりに来ていたじゃない。
もう、帰っちゃったの?」
たま「(慎重に)うん。そうだよ。
(おそるおそる)
…おー伯父さんは遠くで暮らしているからねぇ。」
ばあ「◎◎だったよねぇ。こんな暗くなってから帰ったのかしら、大丈夫かしら…」
「せっかく息子が遠くから来てくれたのに、
さよならのあいさつをしなかった気がするのよ…」
…ひっくり返りそうになった。
昏い色の雲が立ち込めたような彼女の意識に、いきなり青空がのぞいた瞬間。
ここのところ、ぷち徘徊や、ぷち周辺症状が出ていたばあたんが。
今、伯父が◎◎に住んでいることを、思い出せている。
(たとえ5分後には消えてしまうとしても)
伯父が訪ねてきてくれた、先週末の記憶が今日のものと誤認されていたって、
そんな細かいことは、この際どうでもいい。
ばあたんのなかには、ちゃんと彼女自身のたましいが、昔のまま入っている。
「アルツハイマーは、進行性で、死に至る病です。
できることは、アリセプトの処方くらいです」
…それ、本当なの?
今日みたいな場面に出会うとき、いつも目撃者が私だけ
ということが、本当に残念で悔しい。
伯父に、見せたかった。
あの時伯父がいれば、ちゃんとばあたんと話せたのに。
コルセットも外れたし、話すのも楽になったから、
色々な挑戦をまた始める。
薬だけに頼らない。諦めるつもりなんか全然ない。
彼女が、不治の病と自覚していることも、治りたいと望んでいることも、
あたしは知っている。だから。
明日は、ばあたんの生んだ子供たちの話を、聞かせよう。
「あめあめ ふれふれ かあさんが」を、替え歌にして。
昼間も、二人きりにしておくと、
しばしばマンションの住人の方に保護されているようだ。
今日、やっと首のコルセットが取れた私に、安心したのか、
夕方になってから、ばあたんが、口を開いた。
「ねえ、たまちゃん」
「なあに?」
「たまちゃんには、何を言っても大丈夫よね?」
「うん。大丈夫だよ。どうしたの?」
「ねえ、たまちゃん、お手洗いを使いたいときは、どうしたらいいのかしら。
どこにトイレがあるか分からないの…
(紙はどうするのか、出したものはそのままでいいのか…etc)」
どうやら彼女の中から、「家にトイレがある」という概念がすっぽり消えてしまったようだ。
あるいは、用足しをするべき場所があることはわかっているのだが、目の前にあってもそれを見つけられない状態…。
便器を便器と理解するのが難しいらしい。
「排泄したものは、このままでいいの?誰が片付けるの?」
…そうか。やっぱり。(↑実際のやりとりはもっと、丁寧に、問い返しながら)
私が事故にあってから三週間以上が過ぎた。
その間に、彼女の認知は著しく低下したようだ。
じいたんが、お散歩などにがんばって連れて行ってくれているけれど、
「話す・歌う・共に作業する」の三点セットがないとやはり
ばあたんは、不活発になってしまうようである。
夫の愛情によって、メンタルな面では比較的落ち着いているようなのだが、
時計を読むことが再び出来なくなり、字も、再び書けなくなった。
漢字も(彼女のもともとの能力に比して)殆ど読めない。
また、適切な表現で話すことができないことがある。
たとえば「トイレを折りたたんで持っていくの?」
(↑外ではどうしたらいいの?という意味のようだ)
表現が変になるのには、訳がある。
それは、彼女の自尊心がなせる業なのだと思う。
「こんなことを聞いたら、おかしいというのがわかってしまう」
そういうときは、「何を話しても大丈夫」ということを、
いろんな方法で、繰り返し伝え続けて、
彼女がいまどんな状況におかれているのかを理解しなければならない。
なので今日は、じいたんには、
最近買った中でヒットだった二冊の本を貸して、
(じいたんも絶対、楽しんで読む、と自信があったのだ)
ずっとばあたんにつきっきりで過ごした。
そんな一日の終わり。もう眠る前、洗濯物を一緒に干していたら、
不意にばあたんが、
「ねえ、たまちゃん。おー伯父さんはどこ?
姿が見えないんだけど…」
たま「ん?(◎◎伯父の来訪を思い出したのかな)」
ばあ「だっておーちゃん、泊まりに来ていたじゃない。
もう、帰っちゃったの?」
たま「(慎重に)うん。そうだよ。
(おそるおそる)
…おー伯父さんは遠くで暮らしているからねぇ。」
ばあ「◎◎だったよねぇ。こんな暗くなってから帰ったのかしら、大丈夫かしら…」
「せっかく息子が遠くから来てくれたのに、
さよならのあいさつをしなかった気がするのよ…」
…ひっくり返りそうになった。
昏い色の雲が立ち込めたような彼女の意識に、いきなり青空がのぞいた瞬間。
ここのところ、ぷち徘徊や、ぷち周辺症状が出ていたばあたんが。
今、伯父が◎◎に住んでいることを、思い出せている。
(たとえ5分後には消えてしまうとしても)
伯父が訪ねてきてくれた、先週末の記憶が今日のものと誤認されていたって、
そんな細かいことは、この際どうでもいい。
ばあたんのなかには、ちゃんと彼女自身のたましいが、昔のまま入っている。
「アルツハイマーは、進行性で、死に至る病です。
できることは、アリセプトの処方くらいです」
…それ、本当なの?
今日みたいな場面に出会うとき、いつも目撃者が私だけ
ということが、本当に残念で悔しい。
伯父に、見せたかった。
あの時伯父がいれば、ちゃんとばあたんと話せたのに。
コルセットも外れたし、話すのも楽になったから、
色々な挑戦をまた始める。
薬だけに頼らない。諦めるつもりなんか全然ない。
彼女が、不治の病と自覚していることも、治りたいと望んでいることも、
あたしは知っている。だから。
明日は、ばあたんの生んだ子供たちの話を、聞かせよう。
「あめあめ ふれふれ かあさんが」を、替え歌にして。