今日の礼拝で余計な一節、「心を病む方には、自己像がズレている方が多い」と触れたが、ついウッカリ続けて「批判だろうが忠言だろうが、人が言っているのが本当で、『そんなことはない』と守っている自分の方が間違っている」と。
これを聞いていたドルカスはニヤリ! 一瞬「これは超マズイ!」と冷や汗たらりん。そしてその懸念は当たった。その後の会堂での賛美練習でドルカスが「牧師、間違って言葉、一言多く歌ってますが、分かってます?」と。
家庭とかの普段なら「余計なお世話だ」とか「放っておいてくれ」と一蹴したいところだが、今日だけは「はい、分かっています・・・」としおらしくなって認めざるをえない。確かにその通りで、間違ってないと思いたい私は間違っている。
考えてみれば、周囲の忠告、叱咤を聞き、それを改めるは謙虚でなければ出来ない話だ。以前、ある牧師の説教を聞いていると、モーセやダビデの年代が無茶苦茶なので、後でこっそりメモ書きして渡したことがある。私は礼を言われると思っていると、牧師はその紙を一瞥するなりくしゃくしゃに握りつぶし、なんと夫婦揃って「文字は殺し、御霊は生かす」と聖句まで唱えられて叱られた。
都知事の舛添さんが今日辞表を出した。「晩節を汚す」人がどうしてこうまで多いのだろうか? 知事の周辺には公私のけじめについて、誰も言う人がいなかったのだろうか? と言うより、多くの場合、言えなくさせていた・・・のだろうと思う。人間、高慢とは恐ろしいものだ。
自分を守っているようで、一番自分を破壊している。昔サタンは神に仕える最大級の大天使の一人で、天使の三分の一を擁する、美と賛美の極みだったと聖書では述べている。しかし高慢になってしまい、自分こそ神になろうとした。そして彼は、神に敵対するサタンになった。
心の病を患う人には、自己像のズレが大きい人が多いとは、私の経験からの実感である。過大な自己像を維持しようとして、八方破れかぶれで、バランスを失いかけているように見える。ありのまま、素直に等身大の自分を受け入れること。それができるのは、それでも神から赦され、愛されている自分があるから。人が私をどんなに離れ、裏切り、拒否してもいい。ただ神だけが今の私の支えで、謙遜でありさえすればいい。そして、どうにかして天のお父さにはほめられたい、と私は祈っている。 ケパ
これを聞いていたドルカスはニヤリ! 一瞬「これは超マズイ!」と冷や汗たらりん。そしてその懸念は当たった。その後の会堂での賛美練習でドルカスが「牧師、間違って言葉、一言多く歌ってますが、分かってます?」と。
家庭とかの普段なら「余計なお世話だ」とか「放っておいてくれ」と一蹴したいところだが、今日だけは「はい、分かっています・・・」としおらしくなって認めざるをえない。確かにその通りで、間違ってないと思いたい私は間違っている。
考えてみれば、周囲の忠告、叱咤を聞き、それを改めるは謙虚でなければ出来ない話だ。以前、ある牧師の説教を聞いていると、モーセやダビデの年代が無茶苦茶なので、後でこっそりメモ書きして渡したことがある。私は礼を言われると思っていると、牧師はその紙を一瞥するなりくしゃくしゃに握りつぶし、なんと夫婦揃って「文字は殺し、御霊は生かす」と聖句まで唱えられて叱られた。
都知事の舛添さんが今日辞表を出した。「晩節を汚す」人がどうしてこうまで多いのだろうか? 知事の周辺には公私のけじめについて、誰も言う人がいなかったのだろうか? と言うより、多くの場合、言えなくさせていた・・・のだろうと思う。人間、高慢とは恐ろしいものだ。
自分を守っているようで、一番自分を破壊している。昔サタンは神に仕える最大級の大天使の一人で、天使の三分の一を擁する、美と賛美の極みだったと聖書では述べている。しかし高慢になってしまい、自分こそ神になろうとした。そして彼は、神に敵対するサタンになった。
心の病を患う人には、自己像のズレが大きい人が多いとは、私の経験からの実感である。過大な自己像を維持しようとして、八方破れかぶれで、バランスを失いかけているように見える。ありのまま、素直に等身大の自分を受け入れること。それができるのは、それでも神から赦され、愛されている自分があるから。人が私をどんなに離れ、裏切り、拒否してもいい。ただ神だけが今の私の支えで、謙遜でありさえすればいい。そして、どうにかして天のお父さにはほめられたい、と私は祈っている。 ケパ