ケパとドルカス

『肝心なことは目では見えない』これは星の王子さまの友達になったきつねの言葉。

何がこの世で大切か?

2015年05月30日 | 信仰
4月の初め頃、母の葬儀を最後に、私たちに親はもう世には居なくなった。次はいよいよ私たちの番である。そういう年になった。テニスで息子クラスの若い人たちと対戦することが多いが、彼我の身体の違いを実感する。そこで同世代の人たち(退職世代)は、次は自分たちの番であることを、どのように受けとめているのかが私は気になる。

おそらく多くの方は「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿をモットーに、この事に触れない、考えないことに徹しているのだろう。あきらめ、または不吉として避けている内に番が来ると言うわけだ。これは取り返しようのつかない、愚かな選択である。古来、逃げ続けて勝った例はない。避けて逃げてはいけない。事は永遠のいのちの問題なのだ。

死に打ち勝つのは、あらゆる宗教の中でも、唯一キリスト教だけである。独善的と言われようと何と言われようと、そうである事を私は確信している。なぜなら聖書を通してのイスラエルの神が真の神であり、人類に対しての四千年以上の歴史がそれを証明している。
この神を信じる者は、永遠のいのちを与えられ、死なない。ただし今の血肉の肉体は土からできたものだから、土に還る。その後、霊は肉体を卒業して霊の体になって、フワフワしてると思われるかも知れないが、実はそうではない。時が来た時、それまでの血肉の体に勝る、つまりもう老化しない、永遠の新しい体が与えられるのだ。体なのにもはや血肉の体ではない、つまりあらゆる欲(食欲、物欲、肉欲など)からも解放されているのだ。
真のクリスチャンは、この血肉の体の服を脱ぐ事(肉体の死)を「ハレルヤ!」と喜び、天に凱旋したと讃える。だから、天の御父の元に行ける日を、待ち焦がれている友もいる。死は克服されているのだ。

※ここからは興味ある方が読んでください・・・・

ある宗教では聖戦で死ねば、天国で72人の処女と好きな事が出来ると信じている(そこはとても天国とは思えないのだが)らしいし、輪廻転生で、次はどんな動物に生まれ変わるか分からないという宗教もある。仏の慈悲で、生前はどんな人でも死んだなら極楽に行けるとしているのもある。あまり信じていなかったとしても、関わりがあれば行けるらしい。でももし全員がまた集合するならば、そこはシャバ(この世)とあまり変わらないのではないのか?

ではキリスト教はどこが違うのだろうか? ズバリ「十字架」の有る無しである。天国はこの世で果たせなかった肉欲を満たすところでもなければ、今のような自己中心なままの人間が行くところではない。それなら地獄である。
キリスト教には人間のどうしようもない罪性を、人間の造り主である神ご自身に等しい方(神の独り子キリスト)が十字架に身代わりとして架かってくださった。究極の愛である。自分の罪の故にこの十字架を信じ、神を主とし自分を捧げるならば、その罪は完全に赦され、新しい人間に変えられた者となる(これを新生と言う)。自分の一生分の罪、全人類の人間の罪、これを償うのに宇宙と人間を造った神が身代わりになる、これに不足があるだろうか?

多くの人が十字架を頭で理解しようとするが、私の経験では、有限なる人間には、これは無理である。私が全世界の言語を使えて、全世界74億の人間の個々の生活に関わる事ができるだろうか?そんな事は神にしか出来ないのだから。ただこれだけは言える。自分の罪深さでは、到底天国には行けないということを。ならば、キリストの神を信じるしか救われる道(天国へ行ける方法)はないということを。
どうか、信じていない方は、今一度自分は必ず死ぬこと、そして自分の霊はどこへ行くのかということを、真剣に考え欲しい。 ケパ
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