愛をすごく求めている子どもがいた。しかしその子の愛とは、自分のどんな要求をも相手が受け入れてくれることだった。つまり、人を思うがままに支配することだった。
そのことをよく知らない相手が、社交的に一旦受け入れてくれると、その子が離れることを決して許さない。裏切られた思いがするのだろう、どこまでも執拗に追いかけ回し、引き離そうとするとますます興奮する。
これはまるで、最近、巷でよく報道されるストーカー事件とそっくりである。
教師をしていた経験から、このような子どもの幾人か担任したことがある。しかしこの子ほど、人の心に敏感で、かつ、愛の得方を間違っている子はいなかった。
これは推察だが、本来受けるべき親から、本当の愛を受けていないため、他に求めてこうなったのではと思えた。
そして全くの想像だが、この子の親も、おそらく愛を受けずに育ってしまった人なのではないだろうか。そう考えると、サリバン先生のような決心がないと、容易にはこの負の連鎖に立ち向かえないような気がした。
しかしクリスチャンには、一つの救いがある。それは自分にはできなくても、神に祈るという道である。どんなに手を焼く子どもでも、また心胆寒からしむところがあろうと、心から神のあわれみが注がれるよう祈る。人の力をはるかに超えた絶大な神の愛が、その真実な愛に触れて、この子が生き返りますように。