ケパとドルカス

『肝心なことは目では見えない』これは星の王子さまの友達になったきつねの言葉。

イスラエルのシロで③・・・・「幻なき民は滅びる」

2016年11月21日 | 祈り
「幻なき民は滅びる」(箴言29章18節 文語訳聖書)
ここを新改訳聖書では「幻がなければ、民はほしいままにふるまう」と訳しているが、文語訳の出典はKJVと呼ばれる欽定訳英語聖書からである。ずいぶん違うようにも思えるが、考えてみれば、民がほしいままに振る舞えば民や国は滅びるわけで、私にはさすがはKJV、かえって適切なもののように思える。
(Where there is no vision, the people perish.)
聖書で幻(Vision)とは、神の言葉、特に預言を指す。またこの神の言葉の成就には、信仰がなければならない。

シロで「この地は、パレスチナ、それともユダヤ、いったいどちらのもの?」と思った際に、私は重大なものを見過ごしていた。どちらが先住民であるかのような世的なことではなく、信仰の視点である。(写真は、嘆きの壁と言われる神殿の西壁に達したイスラエル軍)

1948 年、イスラエルは約二千年近くの時を経て、国を復興させた。再来年には七十歳になる。世界の民族興亡の歴史で、未だかつてこのような復活した国はなく、人類史上未曾有の出来事である。誕生するまでにシオニスト運動などがあったものの、ナチスによるホロコーストという最大の悲劇が、民族の悲願として、国という形に結実したものと信じる。

しかしなおかつすごい、と思わさせられることは、ユダヤ教徒として、ユダヤ人としての民族性である。私は森繁久弥のミュージカルは観ていないのだが、ブルーレイで「屋根の上のバイオリン弾き」を観て、ある意味、ショックを受けた。
舞台はツアー専制下、ロシアの片田舎である。今私たちの群れが関わっている、ロシア系ユダヤ人そのものである。

ロシア革命は1917年なので、物語はちょうど今から百年前になる。映画に出て来る彼らは、どんなに農作業に明け暮れていても、常に四隅に房をつけた律法通りの服装である。家に入るときは必ずメズーサに触れながら入り、安息日にはそれこそ今でもエルサレムで見れる、超正統派特有の山高帽にロングのフロックコートを着込んでシナゴーグに集まる。
地元ロシア人は異教徒なので、決して深入りのおつきあいはしない。映画では互いに握手することさえビクビクもので、律法遵守が生活に徹底していることがわかる。

もし日本人がアメリカに移民をしたりしたら、ユダヤ人とは大違いであろう。一刻も早く現地の人と親しく交わり、生活に溶け込み、その国の○○人として生きようとするだろう。そうなると数世代後には、その地に日本人など一人も存在しないはずである。ところがユダヤ人は違う。何世代、何千年経っても相変わらずユダヤ人としての存在し続ける。だから彼らは決して溶け込まぬ存在として迫害される。
関心を引いたのは、ロシアの片田舎に住んでいようと、追放されても、ニューヨークとかに行き先を確保していることであった。常に迫害や困難を予測し、世界各地にユダヤ社会のネットワークを形成して備えていることが見てとれた。なるほど彼らは生き抜くために情報にたけ、金融や商業などに強いわけである。

この違いは「Vision(幻)」があるかどうかである。言い換えれば、信仰があるかどうか、だ。ユダヤ人は、信仰の父アブラハムが神の約束を信じ、神に聞き従って、行方を知らずして旅立った結果の信仰の民族である。神の独り子キリストを殺したイスラエルの不信仰に、神は亡国と離散という裁きを下しても、決して見捨てたわけではなく、預言者を通しイスラエルの復興を説いた。だから聖書の民は世界をどんなに流浪しようと、神の言葉の幻を持ち続けユダヤ人であり続けた。シェークスピアの「ヴェニスの商人」、オペラ「屋根の上のバイオリン弾き」でも、ユダヤ人は世界どこでもユダヤ人として独自性をいささかも失うことなく生きて来たのだ。そして今、彼らは神の言葉、預言の成就としてここに戻ってきたのだ。(今から三千五百年前のシロに置かれた幕屋の模型)

「幻ある民は(決して)滅ばない」。この地に立って、どんなに世界から非難されようとも、幻を離さないユダヤ人は神の言葉を成就していくだろうと思わさせられた。霊的イスラエル人であるクリスチャンたちと共に。
ところで私たち日本人に、幻は、あるのだろうか?


ケパ
コメント
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