ケパとドルカス

『肝心なことは目では見えない』
これは星の王子さまの友達になったきつねの言葉。

映画「炎のランナー」

2015年08月06日 | 映画•映像
昨夜は教会で「炎のランナー」の映画を、みなで観た。最近Blu-rayが出ており、これを購入したためだ。以前DVDでこれを見た時、画質の悪さにがっかりしたこともあって、今回のBlu-rayの美しさには大満足となった。音も改善されて、聖歌隊のボーイソプラノが心地良かった。だから、いくらレンタルショップでDVDが安売りされていても、買ってはかえって損をする?

古典的名画であるこの映画には、テーマがある。パリ・オリンピックでの実話に基づいて作られており、「真の勝利者とは何か」ということである。
おそらく多くの日本人にとって、ユダヤ人がヨーロッパで受ける差別とか、どうして大切な予選レースを安息日の日曜日だからと言って辞退するのか、理解に困られることだろう。これはキリスト教信者、またはキリスト教文化圏に属していないと分かりにくいものである。それを説明していたら、明日の朝までかかるので割愛したい。

ユダヤ人が受ける偏見を打ち破るために(と言うことを言ってはいるが、実質は自分のため)、アマチュアから逸脱してプロのコーチから指導を受け、見事金メダルを得たハロルド。一方エリックは中国の宣教師家庭の出身で、自身もまた宣教師で、オリンピック出場のための一時帰国だった。彼にとっては足の速さは神から預かって神の栄光を讃えるためであり、宣教の武器でもあった。
走ることは同じであるが、目的は対照的であった。ハロルドが自分のための栄冠を目指したのに対し、エリックの目的は神のためであった。そのことはエリックの走る姿が、タイムを争うフォームから外れ、神を讃えるように天を見上げていることからもわかる。だから百メートルの予選が日曜日であることを知ったエリックは、3年もこのために練習してきたのにも関わらず、安息日を守るために出場を断念する。エリックは絶対的な優勝候補だったので、収まらないのは国王をはじめとする英国チームである。しかしエリックの意志は固い。幸い四百メートルの出場権を持っていた親友が譲渡してくれ、エリックは急遽四百メートルに出場し、そこで金メダルを獲得した。エリックにはプロのコーチも居らず、距離が四倍になったのに、である。

安息日を守るために、本来の百メートルを断念してまで得たエリックの勝利は、全英国(特にスコットランド)人の熱狂的な祝福を受けた。対するにハロルドの勝利は、見方によれば自分より速いエリックが出場できなかったためのものだった。こうしてハロルドにはチャンピオンの孤独感が滲み出ていく。

走ることを生きることに置き換えてみると、この映画のテーマがよくわかる。自分の栄誉や成功のために生き、(時には手段も選ばずに)走るのは普通のことであるかも知れない。しかし人生を自分のためにではなく、他のために、神のために生き、走ることは、全く異なる栄冠を受けることになる。
確かに時にはエリックのような、本来の百メートル辞退という大チャンスを逃す痛みを伴うかも知れない。何を目的とし、重要としているかが、問われるからだ。しかし、これは大いに証の場となって用いられた。人々に目先のレースや栄冠よりも、大切なものがあることを知らせるためである。神を信じる者にとっての栄冠は本来天にあり、世での栄冠よりも永遠の天での祝福こそ目指すものである。

そのことは原題「(a) chariot of fire」が言い表している。「炎の戦車」では何の意味かがお分かりいただけないと思うので説明する。これは旧約聖書2列王記2:11で、預言者エリヤが炎の戦車に乗って天に凱旋するシーンである。つまりエリヤ=エリックと捉えるなら、テーマがより分かりやすいのではないだろうか。

それで、余計ながら最後に、聖書の次の数節の言葉を付け加えささていただきたい。 ケパ
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兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。(ピリピ3:13-14)

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