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matta

街の散歩…ひとりあるき

05-06 朝敵 曽我の入鹿の大臣

2025年03月04日 | 絵画・彫刻

朝敵 曽我の入鹿の大臣
官軍の将 山主最期

曽我入鹿がはたして「朝敵」だろうか。
曽我入鹿は、父の蝦夷に続き大臣として国政に携わり、聖徳太子の時代にも共に政治に
携わって来た。そして蝦夷から実権を引き継いだ入鹿は、舒明天皇の嫡子・古人大兄皇
子の擁立を企て、その中継ぎとして皇極天皇(舒明天皇の皇后)を擁立。ここで山背大兄王
と蘇我氏の関係が悪化。
入鹿は多勢の兵をもって斑鳩宮の山背大兄王を襲撃。斑鳩宮を脱出した山背大兄は生駒山
を降り斑鳩寺に入りそこで一族もろとも自害したという。  
ということで、「官軍の将 山主」というのが山背大兄王なら、これは朝敵vs官軍という図
式ではなく、曽我自体、天皇政治の要職を務め、外交や技術畑にも通じまた外戚でもある。
むしろ皇族と曽我一族が入り乱れての皇位継承争いだったのではないだろうか。
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04-05 金窪兵太の弓勢を称歎して

2025年03月03日 | 絵画・彫刻

東夷の猛将たる
金窪兵太箭疵を
蒙りその弓勢を称歎して
敵陣へ美酒香を贈る

東ゐの猛将 金窪兵太とは誰なのか?
ネットで検索してみるに、
鎌倉時代初期に北条義時に仕えたとされる金窪太郎行親ではなかろうか。
初代将軍・頼朝の妻の里が北条氏であり、
2代目将軍・頼家の妻の里が比企氏であり、
権益をめぐって外戚同士の内紛「比企能員の乱」などに活躍したらしい。
それにしてもこの猛将・金窪兵太、
鎧を帯びたままに蒲団をかぶり、刀を杖に起きあがるとは...
「東□(ゐ)」は東夷? 「京」から見たら鎌倉は夷なのだろうか。
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03-04 野見の宿祢vs當麻の遣速 

2025年03月02日 | 絵画・彫刻

野見の宿祢の後胤
同苗八綱太有熊
Vs
當麻の遣速の後胤
同苗次郞悔速

当麻邑に當摩蹶速(たぎまのくにはや)という男がいた。角を毀し鉤をも伸ばしてしまうほど力が強く、
自分の力に匹敵する者も四方になく、より强い男と生死をかけた闘いをしたいものだと言ってい
た。これを聞いた天皇は、この男に匹敵する者はいないものかと群卿にたずねた。
一人の臣が曰く「出雲の国に野見宿祢という勇士がいます。この男を召して蹶速ととり組むせたら
と思います」
すこで宿祢を召して蹶速と相撲をとらせ、結果、蹶速はあばら骨や腰を踏み折られて死んでしまっ
たという。-----こちらも鎧を帯びての闘いではないと思うのだが...。
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02-03 逆賊眉輪王

2025年03月01日 | 絵画・彫刻
逆賊眉輪王
怪力噴戦

眉輪王(まよわのおおきみ)は当時7歳で鎧を帯びるほどの年齢ではないし奮戦もせず、天皇の
寝ているところを刺して「父の仇を伐った」だけで逆賊でもない。わかってきたことは、北斎は、
闘う者すべてに、伸縮自在な鎧を着せて奮戦させてみたかったのではないか...。

政治・軍事のセンスに優れながらも残忍冷酷とのうわさある大泊瀬皇子。安康天皇はその皇子
に、大草香皇子の妹.・幡梭皇女(はたびのひめみこ)を娶らせようと根使主(ねのおみ)を遣わした。大草
香皇子は大きな恩恵と快諾。真心を示すため木珠槾(きのたまかずら)をささげて根使主に托した。
が、根使主、この美しさに感じ、自分の宝にしたいと思い、天皇に詐りを奏した。
「同族だからといい、どうして妹を大泊瀬皇子の妻にできようか」と言われました、と。天皇は
この讒言を信じ大いに怒り、兵を起こして大草香皇子を殺してしまった。残った大草香皇子の
妻・中帯姫(なかしひめ)を召して妃とし、さらにかの幡梭皇女を大泊瀬皇子に娶せてしまった。
そのときすでに中帯姫は大草香皇子の子「眉輪王」を宿していたのだった。
 そして数年が経ち、ある日、天皇曰く「わが妹(いも)よ、そなたは私に睦まじいが、私は、眉
輪王を恐れている」と当時の話に触れたところを、楼の下で遊んでいた眉輪王は会話のすべて
を聞いてしまった。そこで天皇が皇后の膝枕で熟睡しているところを見はからい刺し殺してしまっ
た。それが早くも大泊瀬皇子に伝わり、責められるも逆賊どころか「父の仇に報いただけ」と弁明し
つつも、眉輪王は、ついに殺されてしまった。
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01-02 神功皇后 

2025年02月28日 | 絵画・彫刻

金甲六具を滞して
其動自在に屈伸骨格を失わず

金甲六具とは金色の鎧、六具は胴・籠手 (こて) ・袖・脇楯 (わいだて) ・脛楯 (はいだて) ・脛当
(すねあて) の6種か。それにしても大和朝廷時代の殿上人が絵のような鎧を滞たものだろうか...歌
川国貞にも同じような絵が。しかもこの時代に「其の動き自在」柔軟な鎧があったとは...はてさて。

神功皇后は、かのヤマトタケルの命の次男・14代仲哀天皇の后にして、15代応神天皇の母と
のこと。神懸かりのできる巫女のような力があった。天皇が熊曽の国を伐とうと、琴をかきな
らし、竹の内の宿祢大臣が浄めた庭に控え、神の言葉をうかがった。すると大后に神懸かりが。
「西のほうに一つの国がある。金や銀をはじめとして、めにまばゆいほどの珍しいさまざまな
宝物が多い。私がその国を従わせてあげよう」。
しかし天皇は「高いところに登って西のほうを見ても、国らしいものは何も見えず、ただ海にな
みのきらめくのが見えるばかりだ。」
神は烈しく怒り「私の教えた国ばかりか、この国とて汝の治めるべき国ではない」と。
しばらくして仲哀天皇は息絶えてしまった。そこで国をあげて大祓いの行事を行い、竹の内の
宿祢大臣が浄めた庭に控え、神の言葉やいかにとうかがった。
「すべてこの国は、汝、大后の胎の中にいます御子の治める国である。」「今まことにかの国を求
めようと思うならば、天つ神、国神、山の神、海河の神々にもれなく幣帛を奉り、我ら三柱の
神の魂を船の上に祭り、木を焼いた灰を瓢に入れ、箸と皿をたくさん用意し、大海の上に散らし
浮かべて海の神に捧げ、そのうえで海原を渡りゆくがよい」と。
皇后は、神の教えにしたがい、軍船を押し並べ海を渡るに、魚という魚は嬉々として集まり、
船を背負い、さらに追い風に扶けられて推し進められ、新羅の国に押し上り、その国の半分ま
で達した。これを見て新羅の国王曰く。
「今からのち、天皇の言葉に違わず、馬飼の職をも辞さず、毎年、船を押し並べて貢を奉り、
とこしえにお仕えいたします」と。
こうして、見事、皇后は、新羅を制し百済、高句麗の三韓を帰服させたという。
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