LeicaM8.2/elmarit 28mm
ががっとくるか、
ゆらゆらゆれるか。
地震動にはいろんな周期がまじっている。
いっぽう、それぞれの建物は造りによって、
地震動のどういう周期に共振しやすいか、
固有周期というのをもっている。
鉄筋コンクリート造4階で0.24秒、
40階建てで3.2秒ほど、だとか。
3.2秒の長周期成分が優勢な地震動は、
いまだかってなかった。
だから、
超高層ビルは地震に強いとわれてきた。
(参考:大崎順彦著『地震と建築』)
ところで先般の東日本大地震のとき。
東京の超高層ビルの揺れ幅が広く、
関西の超高層でさへ大きくゆさゆさ、
振られたという。
原発同様、安全、絶対というのはない。
来る年の平穏を祈る。
みなさま、当ブログへのおつきあい、
ありがとうございました。
来年もよろしく、お願い申しあげます。
LeicaM8.2/summicron 75mm
♪おれは河原の枯れすすき
おなじお前も枯れすすき
どうせ二人はこの世では
花の咲かない枯れすすき♪
秋の七草、ススキ。
イネの仲間、多年草。
秋が終わっても、
こんなに、
精力的かつ直立、
群生している。
なのに、
諦め、哀感、嘆きの、
題材にされるなんて、
あんまりではないか。
「花の咲かない」わけじゃない。
秋になると・・・花穂ができる。
「花が開くときには、
花の下方にある白い毛は
まっすぐに立っていますが、
のちしだいに
水平に広がってきます。
小さい穂のならんだ花穂は、
このため、
けものの尾のようになるので
尾花という名でもよばれています。」
(『牧野富太郎植物記3』より)
(『牧野富太郎植物記3』より)
LeicaM8.2/summicron 75mm
ヨーロッパでは、冬期に梅雨がある。
その冬は、わたしたち以上に厳しいだろう。
F.ポンジュ「秋の終わり」にこんなのがある。
部分抜粋・・・
秋はすべて、とどのつまり冷たい煎じ薬にすぎない。
あらゆる種類の枯れ葉が雨に浸る。
発酵もなく、アルコールもつくられず。
森の脚に貼られた(義足に焼きごてのごとく効き目なしの)
湿布の効果は春まで待たねばならない。
(落葉一枚いちまいの)開票が乱脈に行われる。
投票所の戸という戸が乱暴に音をたてて開けられ、閉じられる。
くず篭へ、くず篭へ!
自然の女神は、自分の原稿をこき下ろし、本棚をくつがえし、
荒れくるって、最後の果実を竿でたたき落とす。
そしてとつぜん、彼女は仕事机から立ち上がる。
彼女の背丈が直ちに大きく見える。
髪をふり乱し、彼女の頭は霧のなか。
両腕をぶらぶらさせ、
思念を生き生きさせてくれる冷たい風を心地よく吸い込む。
日は短く、夜ははやく暮れ、道化者はおのれの権利を失う。
・・・・・・・・・
これこそ徹底した清掃、しきたりなんぞ考慮しない!
素っ裸にされ、骨まで水につけられ。
で、それが永く続き、すぐに乾きやしない。
こうした状態のなかで有益な内省の三カ月。
血管の反応もなく、ガウンもなく、毛皮の手袋もなし。
しかし頑強な体質がそれに耐える。
・・・・・・・・・
LeicaM8.2/elmarit 28mm
またまた4日目、
田中忠三郎コレクションのなかからの「BORO」展示を掲載。
「いつのことだったろうか、
過疎でほとんど人がいなくなった山村の朽ち果てた家でひとりの姥にあった。
その姥が静かに語ってくれた昔の話は、私にとって新鮮であると同時に、
しみじみとした感慨を残した。
なぜ、独りでここにいるのかと問うた私に、姥は答えて言った。
『近くに祖先が眠っている。墓を捨てて、どこにも行かれねえ』
姥の指さすその先に墓が見えた。
墓石は傾き、草に被われ、供養に来る人もなくなっていたが、
姥にとってはそこが懐かしき人々の思いがこもった地であり、
愛した夫を偲ぶ場だった。
そこには亡き父母がいるし、兄弟姉妹、友人もいる。
『おらはなんにも寂しくね。
亡くなった人がおらを迎えにくるまで、思い出の中に生きて、待っている』
その姥のやさしさと清らかさが哀しく、私は思わず涙した。
姥は続けてこう語った。
『ずっとずっと昔に、おらは涙を失くしてしまった。
若いときに、泣けるだけ泣いたから、今はながれるものもない。
年を取るというのは良いことでなー。
欲もなく、人と争うこともねえ。
欲は人を傷つけるし、自分も悲しいくらいに傷つける。
欲がなくなってこそ、土に還れるものだ』
姥はそう言うと、ふと小さな笑みを浮かべて私を見た。
『おめ、古い物が好きなら、この家さある物、何でももっていけ。
婆の形見だ』
民具には人の温もりがあり、やさしさがあり、そして物語がある。」
※田中忠三郎「物には心がある」(アミューズエデュテイメント)より引用、
引用の引用だから孫引きでした・・・。