日本武の尊
婦人に窶(やつ)して
賊首哮(たける)討給う
参考※『古事記』福永武彦訳より...44倭健、熊曾を伐つ
「ある時、天皇がヲウスノ命を呼んで、次のように言った。
『お前の兄のオホウスの命は、どうしたことか、朝晩の食事にいっこうに顔を
見せない。食事は必ず一緒にするようにと、ご苦労でもお前から、ひとつ教え
てやってほしいものだ。』
こう言いわたしてから早くも五日経ったが、それでも依然として兄の御子
食事に顔を見せなかった。そこで天皇はいっそう機嫌を悪くして、ヲウスノ命
に向かって、
『どうしてお前の兄は、あれから幾日にもなるというのに、いっこうに顔
を見せないのだ?お前がまだ、兄にそう言って教えてやらなかったのか?』
こう訊いたところ、
『とうに教えてやりましたよ』
こう答えた。
『そうか。ではどう言って教えてやったのだ?』
こうさらに尋ねたところ、弟の御子は次のように答えた。
『朝早く、兄さんが厠にはいったところを、待ち受けて掴まえました。手も足
も摑(つか)みつぶして、ばらばらにもぎ取ってやり、薦に包んで裏庭に
投げ棄てておきましたよ。』
平気な顔で、こう言った。
これを聞いて天皇は、その御子が、見たところはいかにも優しげな少年なの
に、どんな乱暴なことでもしでかすだけの、荒々しい心の持ち主であることを
知り、行く末を恐れて、次のように言った。
『西の方の熊曾の地に、勢い猛々しいタケルが二人ほどいる。この熊曽
タケルは、我が朝廷の威に服しない無礼な者どもだ。この奴ばらを、
お前の手で討ちとめてこい。』
このように命じて、御子を西の国へと派遣することにした。
この時ヲウスノ命は、まだその髪を少年の髪形どおり額のところで結んでい
て、年も十五、六にすぎなかったが、命令を受けとると、その叔母君にあたる
ヤマヒトメノ命から、身につけた衣裳を貰い受け、短剣を懐に入れて、はるばる
と西国への旅に出発した。
こうしてようやく、熊曽タケルの住む家のそばまで行き着いて様子をうか
がうと、家のまわりに軍隊が三重に囲んで守り、今や新しい室をつくっている
ところだった。室ができあがったならば、新室楽(うたげ)をして遊ぼうと、
人々は口々に騒ぎながら、ごちそうの仕度などに忙しかった。この有様をを見て
御子はそのあたりをぶらぶらしながら、酒宴の行われる日々を待っていた。
やがてその日となったので、今まで少年の形に結っていた髪を、少女の
ように梳って長く垂らし、叔母君から貰い受けた衣裳を身につけ、まったく少
女のようになりすましてしまった。そして給仕の女たちに混じって、新しい
室の中に入って坐っていた。
熊曾タケルの二人の兄弟は、座の中に、見馴れぬ少女のみめうるわしく座
っているのを見ると、すっかりのぼせ上がって、呼び寄せて少女を二人の間に
座らせたうえで、盛んにうたいさざめいた。そこでヲウスの命は、酒宴が今
酣(たけなわ)になった頃を見すまし、やにわに懐から短剣を取り出すと、左手で兄の
熊曽の襟首を摑み、えいとばかりに短剣を胸に刺し通してしまった。...
弟のタケルも、逃げるを追いかけ尻からさした。...弟タケルは刺された事情をヲウス
の命から聞いて感嘆し、
『...私めからひとつお名前をあなたさまに献じましょう。これからのちは、大和
に並びもない武勇の人として倭建御子(ヤマトタケルノミコ)と...』」