為朝しばしにらまへて、汝は茂光が間諜者(しのびのもの)歟(か)。などてかく阿容々々(おめおめ)と生
捕られたると問給へば、彼(かの)人怖るゝ気色もなく、某(それがし)は茂光の間諜者にあらず、
又間諜者にあらざるにもあらず。密に聞え奉るべき事あり。傍(かたはら)なる人を退(しりぞけ)
給ひねと申せしかば、為朝いよいよ不審(いぶかし)みながら、鬼夜叉以下の郎黨を退
かし。さて彼がいふところを聞給ふに、彼(かの)男膝をすゝめ、声を低し、某(それがし)は、下野
なる、足利義康の郎黨に、梁田(やなだ)二郎時員(ときかず)と呼るゝものなり。主君義康
の命を稟(うけ)、一大事を告申さん為に来れり。事審に申すに及ばず。義康
の書簡、秘(ひめ)て某(それがし)が襟の内にあり。みづから披(ひらい)て見給へと申すにぞ、為朝は思
ひかけずとばかりにて、やをら時員が襟を綻(ふくろば)し給ふに、果して一封の書簡
ありけり。封皮(ふう)押断(おしきつ)て見給へば、その書の略に云(いはく)、義康苟も、清和の流れを
汲みて、共に八幡殿の孫なり。
八幡太郎義家の三男義国、その子義康に到る、ゆえに
こゝに八幡殿の孫と称す。又為朝は義家の嫡子義親の
四男、為義の八男なれば、義家の為には曾孫なれど、義家為義を子として、
家を嗣(つが)し給ひしかば、為朝も又義家の孫にて、義康とはいと親しき人なり。
常言(ことわざ)に、狐烹(に)
らるゝときは、兎これを悲しむといへるは、禍(わざわい)の族(やから)に及ぶをおそるゝなり。保元
平治の擾乱(ぢやうらん)に、嫡(ちやく)家の歴々、過半命を隕(おと)す。豈(あに)痛ざらんや。しかるに今幸
にして足下(そつか)独(ひとり)在世(ながらへ)たり。仄(ほのかに)聞、工藤狩野介茂光、近曾(ちかごろ)上洛して、讒(ざん)奏(そう)す。其
事を聞に、彼稟(まうし)て云、為朝流民として、威風を逞し、茂光が所領の嶋々を
掠(かすめ)とつて、年の貢(みつぎ)をとゞめ、剰(あまさへ)鬼が島へ往来(ゆきき)し、鬼童を奴僕(ぬぼく)として、伊豆の
国府へ来たらし。いたく國地の老弱(ろうにやく)を驚して娯楽(たのしみ)とす。上(かみ)天子を怖れず、下
洲民を憐まず、成敗を放(ほしいまゝ)にして、嶋長忠重を罪にし、その爪をはなち、その髪
毛を脱(ぬく)。暴悪絶(たえ)て比(たぐ)ふべきにものなし。伏願(ふしねがはく)は、為朝征伐の宣㫖(せんし)をなし下
され。茂光に夥の官軍を属(つけ)給はゝ、日ならず彼(かの)嶋に押渡て、為朝を誅罰
し民の土炭(とたん)を救ひ候べしと聞えあげしかば、主上(みかみ)驚きましまして、茂光が申す