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街の散歩…ひとりあるき

24茂光に夥の官軍を属(つけ)給はゝ、日ならず彼(かの)嶋に押渡て、為朝を誅罰し…『椿説弓張月』後篇 巻之二

2022年01月31日 | 絵画・彫刻

為朝しばしにらまへて、汝は茂光が間諜者(しのびのもの)歟(か)。などてかく阿容々々(おめおめ)と生
捕られたると問給へば、彼(かの)人怖るゝ気色もなく、某(それがし)は茂光の間諜者にあらず、
又間諜者にあらざるにもあらず。密に聞え奉るべき事あり。傍(かたはら)なる人を退(しりぞけ)
給ひねと申せしかば、為朝いよいよ不審(いぶかし)みながら、鬼夜叉以下の郎黨を退
かし。さて彼がいふところを聞給ふに、彼(かの)男膝をすゝめ、声を低し、某(それがし)は、下野
なる、足利義康の郎黨に、梁田(やなだ)二郎時員(ときかず)と呼るゝものなり。主君義康
の命を稟(うけ)、一大事を告申さん為に来れり。事審に申すに及ばず。義康
の書簡、秘(ひめ)て某(それがし)が襟の内にあり。みづから披(ひらい)て見給へと申すにぞ、為朝は思
ひかけずとばかりにて、やをら時員が襟を綻(ふくろば)し給ふに、果して一封の書簡
ありけり。封皮(ふう)押断(おしきつ)て見給へば、その書の略に云(いはく)、義康苟も、清和の流れを
汲みて、共に八幡殿の孫なり。
八幡太郎義家の三男義国、その子義康に到る、ゆえに
こゝに八幡殿の孫と称す。又為朝は義家の嫡子義親の
四男、為義の八男なれば、義家の為には曾孫なれど、義家為義を子として、
家を嗣(つが)し給ひしかば、為朝も又義家の孫にて、義康とはいと親しき人なり。
常言(ことわざ)に、狐烹(に)
らるゝときは、兎これを悲しむといへるは、禍(わざわい)の族(やから)に及ぶをおそるゝなり。保元
平治の擾乱(ぢやうらん)に、嫡(ちやく)家の歴々、過半命を隕(おと)す。豈(あに)痛ざらんや。しかるに今幸
にして足下(そつか)独(ひとり)在世(ながらへ)たり。仄(ほのかに)聞、工藤狩野介茂光、近曾(ちかごろ)上洛して、讒(ざん)奏(そう)す。其
事を聞に、彼稟(まうし)て云、為朝流民として、威風を逞し、茂光が所領の嶋々を
掠(かすめ)とつて、年の貢(みつぎ)をとゞめ、剰(あまさへ)鬼が島へ往来(ゆきき)し、鬼童を奴僕(ぬぼく)として、伊豆の
国府へ来たらし。いたく國地の老弱(ろうにやく)を驚して娯楽(たのしみ)とす。上(かみ)天子を怖れず、下
洲民を憐まず、成敗を放(ほしいまゝ)にして、嶋長忠重を罪にし、その爪をはなち、その髪
毛を脱(ぬく)。暴悪絶(たえ)て比(たぐ)ふべきにものなし。伏願(ふしねがはく)は、為朝征伐の宣㫖(せんし)をなし下
され。茂光に夥の官軍を属(つけ)給はゝ、日ならず彼(かの)嶋に押渡て、為朝を誅罰
し民の土炭(とたん)を救ひ候べしと聞えあげしかば、主上(みかみ)驚きましまして、茂光が申す
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23挿絵-北斎:簗田時員(やなだときかず) 大嶋に密書を 傅ふ…『椿説弓張月』後篇 巻之二

2022年01月30日 | 絵画・彫刻

簗田時員(やなだときかず)
大嶋に密書を 
傅ふ
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22蓑笠を身に纏(まと)へど、肌に身甲(きこみ=甲)を被たるをもて、こはかならず茂光が間諜(しのび)者なり…『椿説弓張月』後篇 巻之二

2022年01月29日 | 絵画・彫刻

しづめば、鬼夜叉やがてその刀を奪ひとつて鞘に納め、こは物にや狂ひ給ふ
殿にも御身の誠忠(まこゝろ)は、よくしれりと聞え給へば、強て離別せんとにはあらず
さるに自殺に及ばゝ、却(かへつて)殿を恨に似たり。思ひ惑ひて過(あやまち)し給ふなと諌れ
ば、さては死ぬるに死なれずとて、輾轉(ふしまろび)てぞ泣にけう。かゝりければ鬼夜叉は彼此(おちこち)
を走りめぐりて、馬の馳場(かけば)、物のさし引、活路(くわつろ)の便宜に至るまでよく考、すはといはば
為朝ご父子の御供して、はつちやう、芦が嶋までも、落しまゐらすべしと
深念(しんあん)しつ。人にもしらせずひそやかに、大船一艘を准備(こゝろがまへ)してよろづのこ
るかたなくぞ見えし。さるからに、春もいたづらにくれて、四(う)月の上旬になりけれ
と、茂光忠重等が音つれもなし。遠つ灘、海䲡(くじら)の吼るうき嶋も、世は暖に
なるまゝに、日和(にわ)うちつゞきて、浪風なほ静なれば、嶋人が徒然がちなる
も不便(ふびん)なるべしとて、情由(ことのよし)を聞えあげ、魚釣船をば許してけり。櫻鯛は
すこし後れたれど、堅魚(かつお)の寄はじむころなれば、ある日為朝は、岡田の
磯に網引(あびき)さして、その曛昏(ゆふぐれ)に帰り給へば、鬼夜叉出迎へて申すやう、嚮に僕(やつがれ)、
磯めぐりして、怪しき男を捕えたり。その為体(ていたらく)、釣船に乗つて、蓑笠を身
に纏(まと)へど、肌に身甲(きこみ=甲)を被たるをもて、こはかならず茂光が間諜(しのび)者なりと猜(すい)
して、矢庭に縛(からめ)て引もてかへり、いたく責問に何事もいはず。只御曹司に
見(まみ)え奉らば、事明白なるべしといへり。いかに計らひ申すべくやとひそ
めき告れば、為朝それ引出せと仰て、つと後廳(おく)に入り、やがて衣服を更(あらため)
て、端ちかく出給へば、鬼夜叉は、みづから索(なは)をとつて、彼(かの)癖者を、廣縁の下
に引居(ひきすえ)たり。その時為朝は、燈燭(ともしび)夥点(とも)さして、癖者を見給ふに、身丈は六
尺ちかく、眼(まなこ)は雙(ふたつ)の鈴をかけたらんやうにて、口方(くちけた)に、鬚青み、腰には腰蓑
を被(つけ)て、漁夫(りやうし)かと見れば、肌に身甲(きごみ)を被(き)たり。げに平人(たゞもの)ならず見えしかば
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21簓江、今父とともに国府に走らんとならば、速(すみやか)に身の暇をとらすべし…『椿説弓張月』後篇 巻之二

2022年01月28日 | 絵画・彫刻

けるは、一昨(おつゝい)より慶賀(ことほぎ)の醼(さかもり)に、遠見の士卒が懈(おこた)れる隙(ひま)を窺ひ忠重匹夫
家隷(いえのこ)を將て国府へ走り、茂光便宜を得て寄来るとも、わが弓矢こゝに
あり。そは何程の事かあらん。只うち捨ておくべしと宣へば、鬼夜叉頻りに眉
根をよせ、茂光が軍配おそるゝに足らざるべけれど、もしさかしだちて官軍を申
請(こは)ば、東国の武士(ものゝふ)彼に与(くみ)し、勅命をさしはさみて、寄来たらんに、彼は多
勢なり。官軍なり。防禦忽(ゆるがせ)にして、死辱を曝んは朽をしかるべし。今より
ともかくもして、稚君たちのなりゆき給ふ程をも見給へかし。さらばまづ進退宜
しく、用意あらまほしと申しければ、為朝うち点頭(うなつき)て、汝がいふところも理(ことはり)
なれど、恩愛に惑溺し女々(めゝ)しき挙止(ふるまい)して、本来の面目を失(うしなは)んは、予が志ならず 抑ゝ(そもそも)
為朝保元に策(はかりごと)用られずといへども、ひとり生残りて沖津嶋守となり
惜からぬ身のかくてありしは、いかにもして新院を竊出(ぬすみいだ) し進(まゐ)らせ、ふたゝび
御旗を華洛(みやこ)にすゝめて、彼(かの)君の御代となし、父が孤忠を全うすべう思ひ
しに新院崩御ましましたれは、今は宿願を果すによしなし。しかはあれ茂光
私(わたくしに)寄来たらば、許べからず。手に唾して鏖(みなころし)にせんに、何の備にか及ぶべき。倘(もし)
官軍の向ふとならば、潔(いさぎよ)く腹かき切て、屍をこの嶋に曝し、忠を黄泉に竭(つく)
すべし。忠重鳴呼(おこ=バカ)の白物(しれもの)なりといへども、簓江が年来の誠忠(まこゝろ)は、われよくしれ
り。今父とともに国府に走らんとならば、速(すみやか)に身の暇をとらすべし。更に恨
なしと宣えば、簓江涙さしくみて、こは思はざる事を聞え給ふ。いにしへにも、君
が一夜の情(なさけ)には、妾(せう)が百年(もゝせ)の命を惜(をしま)ずとこそきけ。とてもかくても疑ひを
觧(とく)べきよすがもなき身なれば、只面(ただまの)あたり刃(やいば)にふして、君が情に答奉らめと
いひかけて、臂(ひぢ)ちかなる短刀をとつて、既に吭(のんど)を刺んとすれば、三人の推子
たちその手に携(すが)り、よゝと泣てとどめ給ふる。簓江も堪かねて、一声高く泣(なき)
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20忠重おのが郎黨將て、伊豆の国府へ走りたらん…『椿説弓張月』後篇 巻之二

2022年01月27日 | 絵画・彫刻

春去春来て、嘉応二年のころ、為朝の嫡男爲丸、やゝ九歳になり給へば、
すなはち黄路吉日をえらみ、今茲(ことし)正月(むつき)廿二日に元服さして、嶋冠者為頼と
名告(なの)らし給ふ。この慶賀(ことぶき)に、三日三夜の吉席(めでたきむしろ)を開き、鬼夜叉以下の郎黨(ろうとう)
はさらなり。洲民に至るまで、漏さず酒肉を賜(たび)にければ、衆皆(みなみな)飽(あく)まで飲食
して、千秋万歳(はんせい)と祝し申しける。しかし簓江は、父忠重が往(さき)に罪を得てし
より、この三四年は蟄居(すごもりゐ)て、かゝる席(むしろ)にも列(つらなり)得ざるを、いと本意なく
思ひしかば、事の叙に忠重の罪を宥(なだ)め給はんぞ、ねがはしきとて頻(しきり)に申し出しか
ど、為朝左右なくを聴納(きゝい)れたまはず。されど彼が孝心(こうしん)も黙止(もだ)しがたく
やおぼしけん、第三日めに至り、重只を將て参れと仰て、鬼夜叉をつか
はし給へば、簓江は愁の眉根をひらき、免しがたきを許し給へば、はらあしかりし
父なりとも、いかでか志を改めざらん。みな是君の御恩恵(めぐみ)也と謝し申して、もつ
はら父が出仕(しゆつし)をまつ程に、しばしありて鬼夜叉かへり来つ。為朝のほとり近う
参るを、簓江は待ちわびたる気色にて、いかにわが父は、思ひかけざる御使を
賜りて、さこそ歓び給ひけめ、などて御身ともろともには参り給はざる。去年
に今年はよるとし浪の、六十(むそじ)の坂も越え給へば、老の病着(いたつき)に起居(たちい)も自在なら
ざるか。いと心もとなしと問に、鬼夜叉はいと苦々しきおもゝちにて、僕(やつがれ)忠重
の宿所に到りしに、家の内には人ひとりもあらず。その分野(ありさま)あまりに不審(いぶかし)
ければ、あたりなる嶋人に問に、たれたれも定かにはしらねど、昨夕(ゆふべ)俄頃(にはか)に猟船
一艘失(うせ)たり。是彼思ひあはするに、忠重おのが郎黨將て、伊豆の国府へ
走りたらんといへり。しかればゆゝしき事にこそと思ひて、直(すぐ)に走(はせ)かへり候と申す
にぞ、簓江は思ふに違ひて、忽地(たちまち)に顔うちあからめ、手を額にはえつゝ
さしうつむきて居たりける。為朝これを聞て、しばし沈吟(しあん)し、冷咲(あざわら)ひて宣ひ
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