伊豆の大嶋において自害す。享年三十三歳と見えたり。しかれども同書
に、保元元年為朝十八歳とあるをもつて、これを僂(かゞなふ)れば、嘉應二年に
至て二十八歳なるべし。宣(うべ)なるかな。参考に諸本の異同を挙て、實録
所見なしといへり。亦いふ。京師本に、為朝の自殺をもつて二十八歳とし、
杉原原本三十八歳とす。京師、杉原、鎌倉、半井(なからゐ)の四本。みな何(いづれ)の年といはず。
系圖に、為朝安元二年三月六日、伊豆の大嶋に於て討ると見えたり。保元
元年十八歳なるときは安元二年當(まさに)三十八なるべし。その説杉原本と
合す(以上要を摘でこゝに録す)また、八郎明神の縁起に、承安三年癸已(みづのとのみ)秋八月十五日、小嶋
に於いて自滅し給ふといへり。嘉應二年より、承安三年に至て、相去ること
四年。承安三年より安元二年に至て、又相去ること四年なり。諸説矛
盾することかくのごとし。しかるときは、為朝自殺の年月、及び存亡も、むかし
より定かならざりしと見えり。これによつて思ふに、為朝大嶋を脱(のが)れ去り、
蹟(あと)を南海にとゞめ給ひし、といひ傅へたるも、故なきにあらず。この弓張月は、
すべて風を捕り影を追ふの草紙物語なるに、この一條のみ、諸説を引いて
補(おぎな) ひたゞすにしもあらねど、予元来好古の癖あり、こゝをもて漫(そぞろ)に蛇足の
辨(べん)を添ふ。所謂(いはゆる)鶏頭花(けいとうげ)をうつし栽(うゆ)るに、牛車を用(もちゆ)のたぐひなるべし。
椿説弓張月後扁巻之三畢(終)