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街の散歩…ひとりあるき

10正に是、桃源に漢魏を問れし人、仙窟に崔娘(さいぢやう)を闕窺(かいまみ)たる、故事にも似たりけり…『椿説弓張月』後篇 巻之六

2022年04月30日 | 絵画・彫刻


時員が枉死(わうし)したるさへ、よるべなきに、今亦幣(ぬさ)を失ひては目暗(めくら)の杖に放れ
たるがごとく、往くも還(かへる)もわがこゝろにざりけり。こは氏の御神も、見放ち給
ひたる歟。そも何とせんと、周章(しうせう)し、惘(もう)然として立在(たたずみ)給へば、燐火(おにび)は頻(しきり)に高く
揚り、低く照らして、導くごとく見えしかば、朝稚はやゝ暁得(さとつ)て落涙し差夫(あゝ)
時員、身こゝに死して、魂われに導くよ。世にも稀なる忠義なり、さらば進
退を、彼にまかすべし、とひとりごち、燐火(おにび)に道を照さして、ゆくともおぼえず
その夜の中(うち)に、十五六里を走りつゝ、ほのぼの明けゆく比、名もしらぬ山の半(なか)
腹に立(たち)給へり怪しき事いふべくもあらで、いたく疲れたれど、山路なれば憩ふ
に家もなし、と見れば巓(とほげ)の方(かた)に當つて煙ちらちらとたち昇りしかば、さては
彼処(かしこ)に人は住むならん、と点頭(うなづき)て、樵夫(きこり)のかよふばかりなる、羊腸(ようちよう)たる山ふと
ころを、芒(すゝき)かきわきからうじて登りたまふに、足よりは血を出し、裾は朝露に
添濡(そぼぬ)れつゝ、そのところへ到り給へば、果して一箇(いつけん)の山寨(やまやしき)ありけり。かゝる深山には
似げなく、由緒(よし)ある人の住居すると見えて、尋常(よのつね)なる家の建ざまにあら
ず。少し引入れたる処に脚(くぐり)門あり。このところは裏門なるべし。折ふし守人も
なかりしかば、つと入りて見給へば、雌(め)手のかたは苑(その)とおぼしくて、黄櫨(はじ=ハゼ)楓、いろいろに
染(そめ)なしたるが、松にまじりていと妙なり。結(ゆひ)まはしたる生垣の木の間に、小鳥の
囀る声、秋情を催し、つくづくと見入るゝ諸(もろ)折戸の半(なかば)開きて、裡には臈長(らうけ)たる
美婦(みやびめ)と、六つ七つばかりなる男の童と、餘念もなく、木の子(み)を拾ひてぞ居たり
ける。正に是、桃源に漢魏を問れし人、仙窟に崔娘(さいぢやう)を闕窺(かいまみ)たる、故事にも
似たりけり。抑も(そもそも)このところは、肥後國益城郡、木原の山中にて、只今木の子(み)を
拾う美婦(みやびめ)は白縫、男の童は舜天丸なり。為朝この山にとゞまり給ひしより、
はやくも七年(ななとせ)の春秋を経て、舜天丸六才になり給ひる。よろづおとなびて、
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09挿絵-北斎:朝稚畚に 装られて 渦丸を 刺す…『椿説弓張月』後篇 巻之六

2022年04月29日 | 絵画・彫刻


朝稚畚(ふご)に 
装(も)られて 
渦丸を 
刺す
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08侶(とも)なる男の亡骸(なきがら)を葬りたまひね、と書きとゞめ 四五両の金を魚藍(ふご)の中に残しとゞめ…『椿説弓張月』後篇 巻之六

2022年04月28日 | 絵画・彫刻


ば、刀尖(きつさき)白くあらはれて、流るゝ鮮血(ちしほ)もろともに、一声叫びて倒るゝを、朝
稚得たりと刀をもて、上なる網を砍(きり)開き、猿轡(さるぐつわ)を掻投(かなぐり)棄(すて)て、外面(とのかた)へ跳(おど)り出(いで)
渦丸が頭髻(たぶさ)を爴(つか)み、刃(やいば)を胸におし當(あて)責(せめ)たまふやう、窮鳥懐に入る時
は、猟師もこれをとらず。しかるを汝、人の病臥したるを見て、奸悪(かんあく)を放(ほしいまま)にし、
みづから名告(なのり)て、その不仁に誇るこそ、いと憎むべき癖者なれ。吾不意に縛(いましめ)
られずは、いかでこの魚藍(ふご)に装(も)らるべき。時員もし病臥すにあらずば、
なでか汝に撃るべき。天罰おもひしれかし、と罵(のゝし)りて、ふたゝび三たび胸前(むなさか)を
刺し給へば、忽地に息絶たり。かくて朝稚は、時員が為に仇を殺して、立地(たちどころ)に
憤りを晴らすに似たれど、日くれ道遠くして、進退こゝに究(きわま)り、賓雁の伴
をうしなひ、猢猻(こそん=猿)の枝に離れたるこゝちしつ。時員が亡骸(なきがら)を、此(この)まゝおかば、夜の中(うち)に、
獣の銜(ついばみ)去る事もありなん。とせんかくせんとおもひたゆたひ給ひしが、佶(き)とこゝ
ろつきて、屍(しがい)を抱き起し。やうやくに魚藍(ふご)の中(うち)じゃかき入れ、さてふところ紙を
とり出(いだ)して、縁由(ことのよし)を記(しるし)つけんとしたまふに、宵闇なれば、筆の運びも定かなら
ず。折しもあれ一團の燐火(おにび)叢(くさむら)の中より燃出(もえいで)て、手元を照らすにぞ、秋の螢か
鬼火かと怪しみながら、やうこそあらめとて驚きたまはず。これを燭(あかし)に、束短(つかみじか)き
筆をとり出し、墨斗(やたて)の墨を染て、同行二人の旅客(たびゞと)、今月今夜、この処におい
て、蜘手の渦丸といふ賊の為に、その侶(とも)を撃(うた)れ、立地(たちどころ)に仇を殺し了(をはんぬ)。しかれ
ども里遠くして、いづ処(こ)に訴ふるをしらず。あはれわが為に、侶(とも)なる男の亡骸(なきがら)
を葬りたまひね、と書きとゞめて、これを魚藍(ふご)の索(なは)に結び添(そえ)、渦丸が懐(ふところ)をかい
撈(さぐ)りて、路銀を取り復(かえ)し、そのうち四五両の金を魚藍(ふご)の中に残しとゞめ
て、時員が棺材(ひつぎ)の料とし、さて何方(いづかた)を斥(さし)てゆかば、宿かる家のあらんとて、齎(もたら)し
たる幣(ぬさ)を尋(たづね)たまふに、弗(ふつ)に見えず。こゝに至つて、朝稚はますます仰天し、
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07朝稚、縛(いましめ)の索(なは)おのづから緩みしかば、密にふり 解て、鐺反(こじりかへし)の短刀を抜き出(いだ)し、魚藍(ふご)の中(うち)より渦丸が背(そびら)をぐさ…『椿説弓張月』後篇 巻之六

2022年04月27日 | 絵画・彫刻


を引抜(ひきぬき)渦丸が、向臑(むかすね)を薙(なが)んとするを、跳(おどり)こえて丁と蹴かへし、泥足揚(あげ)て時員
が頭(かうべ)を踏据て動かせず。眼(まなこ)を睜(みはり)、声をふり立(たて)、小賊(こぬすびと)とは言(こと)可咲(をかし)や、われ四国に
ありては蜘手の渦丸とばれ、支黨(どうるい)数十人を集合(つどへ)て、よろづ欲(ほし)とおもふものは
いたづらに見迯(みのが)したる事なし。しかるに故あつて、支黨(どうるい)を喪ひ且(しばら)くこゝに蟄(ちつ)
すといへども、汝が屠(ほふる)こと、木偶(でく)を毀(くだく)より易し。いでこの世の暇とらするぞ
といひもあへず、刀の鞆(つか)を拿(とり)なほし、時員が吭(のどぶえ)を、大地へぐさと刺とほせば、
鮮血ふたゝび濆(ほとば)しり、手足を悶掻(もがき)て死(しゝ)たりける。嗚呼悲しきかな。痛しきかな
正に是万里の黄泉旅店なく、三魂六魄(さんこんりくはく)誰が家に落ちん。いとも墓なき
㝡期(さいご)なり。そのとき渦丸は刀の血を拭ひおさめ、時員が衣服路銀を奪
ひとつて、網の外より魚藍(ふご)をさし覗き、少年かならずしも、驚き怕(おそ)れな
せそ。われ決して汝を殺さず。高野大師の密語(さゝめごと)を甘ずる、大刹(おほでら)の扈従(こしよう)
に售(う)るのみ。けふは稀なる獲(えもの)ありて、金魚と人魚を両ながら得たり。幸あり
幸あり、とほくそ笑(えみ)て、やおら魚藍(ふご)を背負つゝ、小唄うたふて帰りゆく。
痛(いたは)しや、朝稚は、嚮(さき)に渦丸に誑(たばか)られ、時員が病着(いたつき)を救はんとのみおぼせし
かば、只管(ひたすら)渦丸を追蒐(おつかけ)たまふとき、渦丸は中途に埋伏(まちぶせ)して、矢庭に朝稚
を縛(いまし)め、口には猿轡(さるぐつわ)といふものを銜(はま)して、魚藍(ふご)の中(うち)に投入れ、網をしか
と結びとめ、是を擔(かき)て小もどりし、終に時員を殺して、行李(こり)路銀を残り
なく奪ひとるを、朝稚は魚藍(ふご)の目の隙(ひま)より、見をし、聞もして、いと朽
をしくおぼせしが、既に網裏(もうり)の魚となりては、これを救ひて讐(あた)を復(かへ)す
事を得ず。ふたゝび渦丸が背(せなか)に負提(おひさげ)られてゆきたまふに、いたく口を鉗(つぐま)
せられたれば、物こそいひがたけれ。縛(いましめ)の索(なは)おのづから緩みしかば、密にふり
解て、鐺反(こじりかへし)の短刀を抜き出(いだ)し、魚藍(ふご)の中(うち)より渦丸が背(そびら)をぐさと刺し給へ
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06少年を誘引(いざなひ)、中途(ちうと)に埋伏(まちぶせ)して、矢庭に猿轡(さるぐつわ)をはまし魚藍(ふご)の中にうち入れ…『椿説弓張月』後篇 巻之六

2022年04月26日 | 絵画・彫刻


て、身の苦しさもうち忘れ、こや喃〃と呼びかへせど、はや後影だに見せ給はず。
かゝりしかば時員は、朝稚の帰り給ふを、今かいまかとまつ程に、遠き寺々の鐘幽(かすか)
に聞えて、草場に集(すだ)く虫の音に、小篠(いさゝ)むら竹夕くれて、塒(ねぐら)もとむる友鳥
の、雀いろ時になりにけり。かくは山下(やまおろし)に肌膚(はだへ)を犯され、地気やゝ徹(とほ)りて病
劇(はげし)く、いといたう身も冷(ひゆ)れど、朝稚の事とにかくに、おぼつかなければ伸上り、彼
男がいひつるごとく、八九兆の路なりせば、帰り給ふ比及(ころほひ)なるに、などて今に見
え給はぬ。嗚呼(あゝ)うたてやとひとりごちて、刀を杖に身を起し、よろめく足を踏
締(しむ)れど、又よろよろと力なく、顚(まろび)かゝる稲叢より、ぐさと突出(つきだ)す扑刀(だんびら)に時員
背を突徹(つきとほ)され、阿呀(あゝ)と魂(たま)消る声とゝに、刀を引けば俯(うつぶ)しに、撲地(はた)と倒しがやう
やくに、蹙然(むつく)と起て見かへれば、蜘手の渦丸、稲叢より半身顕し、血刀をもて、
稲穂をかきわき、徐々(しづしづ)と歩みいで、時員を尻目にかけて冷笑(あざわら)ひ、もろく見えて
もつよきは魂(たま)の緒(を)、病疲れたるうへ、に刺れてもまだ死ずや。さらば今般(いまは)のおもひ
でに、わが計較(もくろみ)を説(とき)しらせん。苦しくともよく聞けかし。曩に妙薬をあたへんといひ
つるも、又家には、老たる親、稚き児のありといひつるも、そら言にて、輙(たやす)く汝(なんじ)を
打殺し、ある程の物は剝(はぎ)とり、又彼(かの)美少年を售(う)るときは、絶えて久しく環會(めぐりあは)ざる、
夥の金に懐を、暖(あたゝか)うせんとおもひしかば、好意(なさけ)を示して少年を誘引(いざなひ)、中途(ちうと)に
埋伏(まちぶせ)して、矢庭に猿轡(さるぐつわ)をはまし魚藍(ふご)の中にうち入れて、竊(ひそか)にこゝへ擔(かき)来
たり。口の網を括り留たれば、生州(いけす)魚、笯(かご)の中の鳥に等しけれど、外(よそ)ながら暇(いとま)
乞(ごい)して、成佛せよと嘲笑し、件(くだん)の魚藍(ふご)を稲叢の蔭よりこなたへ引いだせば
時員さては、とばかりに、歯を切(くひしばり)眼を瞪(いか)らし、病て進退自在ならねば、汝等
ごとき小賊(こぬすびと)に、あへなく撃るゝのみならず、主君を擒(とりこ)にせられぬる、かくも武
運の竭(つき)たるか。よしやこの露と消とも、一太刀恨(うらま)でやは、といきまきて、刀
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