■衣がハさひ槌ばかり流れけり
衣川才槌ばかり流れけり
弁慶、負けて川に流れたは七つ道具のうち木製は木槌だけだった、と。
が、この「衣川」は川ではなく衣川館という館ではなかったか。
文治5年閏4月30日(1189年6月15日)、義経主従は、
藤原泰衡の襲撃を受け(衣川の戦)、現在の岩手県西磐井郡平泉町の
衣川館にて弁慶らとともに最後をとげたという。
衣川館を川に掛けたものか。
■はしのうへわらじと足だいどミあひ
橋の上草鞋と足駄挑み合い
京の五条の橋の上、牛若足駄で弁慶は草鞋(わらじ)
■つゝしみのよいわ弁けひ小まちなり
慎みの良いは弁慶小町なり
男女関係に慎み深かった弁慶、小野小町なり…
(読みほか参考...『画本柳樽全十編』江戸川川柳研究会)