不意に
空居に寄来り
舘を焼討せしに
池中に隠れ居て
歊澤復を討とる
陸奥国に平維茂(これもち)、曾祖父が平貞盛で、その十五番目の養子になって余五君と
も呼ばれていました。いっぽう藤原秀郷の孫で藤沢諸任(もろとう)、通称:沢胯(さわまた)四郎と
いう者がいました。この二人は、ささいな所領争が続き不快な思いで過ごし、
合戦を交える寸前までいって修まりつつも...
丑の時、新月の闇夜に騒がしく飛びたつ水鳥の音に、余五は、はっと眼を覚ました。みな起きて弓
矢を負え、馬に鞍を置け、櫓に登れ、と。...手配りしているうちに敵は押し寄せ攻撃を加える。家の
あちこちに火をかけ、飛び出せば雨あられと矢を射かける。こうして家に閉じ込められたまま、あ
る者は射殺され、あるいは焼き殺されてしまった。
火が消えて、敵が家に入ってみると焼け死んだ者が八十人ほど。どれもみんなまっ黒に焼けて「どれ
が余五の死骸なのか」わからない。
きっと焼け死んだに違いないと、安心して引き上げ、途中、兵たちを休ませ何か食わせてやろう
と、沢胯の妻の父で武勇の士「大君」のところに立ち寄った。「彼ほどの豪勇の士を討ち取ったとは
とは思いもよらぬこと。で、余五の首は確かに執って鞍の後輪(しずわ)に結びつけなさったか」と大
君の言。蠅一匹逃さず、射殺し焼き殺したの、たわけたことを言われるものよ」と沢胯。翁は沢胯
にあきれ今さら拘わらぬことよと「今すぐここを立ち退いてくだされ」とにべもなく追い出そうとし
ました。そのため沢胯はじめみな出て行きました。そのとき「貴殿、空腹であろう。飲み食いの物は
わしのところで差し上げる。だが、すぐさま行ってくだされ」。
そこで五、六十町行くと小高い丘があり、川も流れている。「ここで一息入れよう」と言って矢入
れなどはずして休んでいると、大君のところから酒を大樽に入れて十樽ほど、押し鮨を五、六桶、
それに鯉、鳥、酢、塩に至るまで数多く次々と持って来た。空きっ腹に酒を四、五杯もあおったの
で、みな死んだように良い倒れてしまった。
いっぽう余五は、夜が明けるまで走りまわって奮戦、敵を多く射殺し矢も尽き、味方も残り少な
く、もはやこれまでと衣を脱ぎ捨て女が着ていた襖(あお)を剝ぎ取り身につけ、髪を振り乱して女
になりすまし太刀をしのばせ煙に紛れ、逃れ出て川の深みに飛びこみ、向こう岸の葦の茂みまで泳
ぎ着き、臥栁の根をつかんでいた。家が燃えつき、敵が引き上げてから、四、五十丁ほど行ったとこ
ろ、屋敷の外に住む自分の郎党たちが三、四十騎ほど駆けつけてきた。余五は「おれは、ここだ!」
と叫び、郎党たちは悦び、泣き、叫び...家へ人をやり着物、食べもの、弓箭、太刀、馬鞍など持ち着
たり、余五はすっかり衣裳を改め食事もすまし、これからどうしたらよいかと、郎党に問うた。
郎党たち「敵の軍兵は四、五百ほど、が、当方は五、六十人ばかり。後日、軍勢を集めて戦うのがよ
かろうと存知ます」と。余五はこれを聞き「もっともだ、しかしおれはたった一人でも『焼き殺し
た』と思っているやつらに一矢なりとも射かけて死ぬつもりだ。さもなくば子々孫々まで、この上
ない耻ではないか」と。これを聞いて郎党たち「ごもっともな仰せとおり、ご出陣なさりませ」と。
余五「奴やらは一晩中の戦いに疲れ切って、丘の向こうのクヌギ原などに死んだようになって寝て
いるだろう。馬も轡を外し、まぐさを食わせて休んでおろう。弓も外して油断しておろう。そこへ鬨
の声をあげて押し寄せたら、たとえ千人の軍勢なにあろう。今日やらねばいつの日にやれようぞ。
命の惜しい者は止まっていよ」
余五自らは、紺の襖(あお)山吹色の衣、夏毛のむかばきに綾藺笠(あやいがさ)、征矢三十本ほどに
上指の雁股を二列差した胡籙を背負い、手には革を所どころ巻いた握り太の弓を持ち、新身の太刀
をはき、腹葦毛の馬で、丈が四尺七寸ほどもあって特に丈高く、進退自在のすばらしい逸物に打ち
またがった。軍兵の数をかぞえれば、騎馬の兵七十余人、歩兵三十余人、合わせて百余人が集まっ
た。余五が前方に物見を走らせるに、しがらくして走り帰り「南側の草原で食ったり飲んだりして
寝込んだり病人のようにしています」と告げた。「それ、思いっきり飛ばせ」と丘の上から南に斜面
を駆け降り、五、六十騎ばかりが襲いかかった。
沢胯四郎はじめ軍兵は、あわてて起きあがり胡籙を取って背負い、あるものは鎧をとり、ある者は
馬に轡をはめ、ある者は倒れ、弓矢を捨てて逃げ、盾を取って戦おうとするものなど右往左往。あ
っという間に三、四十人の兵が射倒された。なかには馬に乗ったが多々書く気力を失い、逃げだすも
の...
こうして沢胯を射取り、首を切られたのだった。
以上、『今昔物語』25集より抄出